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ダール伯爵とアリックス

 日も暮れるころ、ノランたちが帰宅した。

 私とオリビアは張り切って玄関まで迎えに行った。だが彼等は三人で戻ってきており、もしかして少年の母親を連れてくるかもしれない、という私の希望はあえなく打ち砕かれた。

 私の顔を見ると、リカルドは重そうに口を開いた。


「それらしき女性は見つかりませんでした」

「そうでしたか……。お疲れ様です」


 ノランは居間を一瞥すると、私の方を向いた。


「彼は?」

「ピーターはもう寝かせました。二階の角の部屋を使わせています」


 少年の遊びに半日付き合って、私もくたくただった。だが、まだ寝るわけにはいかない。

 目下私たちは一人の子どもをめぐる、抜き差しならない局面にいるのだから。

 私たちはそのまま客間のソファに移動し、皆で今後について話し合うことになった。

 オリビアがお茶を淹れてくれると、マルコはかなり喉が渇いていたらしく、カップの茶を一気に飲み干した。彼が持つと、カップがママゴトのカップのように小さく見える。


「明日、朝一でマルコと叔父の所へ行ってくる」


 ノランの言わんとする事が分からず、私は返事をしなかった。


「このダール伯爵領を持っていたのは、二年前までは私の母方の叔父だった。叔父は二年前に別の侯爵領を相続して、この島だけになっていた伯爵領を手放した。アリックスという女性は、ダール伯爵が代変わりした事実を知らない可能性がある」


 言われてみれば、アリックスという女性の手紙の宛て先には『伯爵』としか書かれていなかった。あれはノランを指していたのではなかったのかもしれない。

 とすればピーター少年の父親は、前のダール伯爵だった、ということだろうか。

 私は密かに盛大に安堵した。

 しかしリカルドは渋面で呟いた。


「シラを切られないと良いのですが」

「切らせない様にする」


 ピーターはここにいるのだ。その叔父さんとやらに、この屋敷に来てもらうことは出来ないのだろうか。それにもしかしたら顔を直に見れば、叔父さんも思うところがあるかもしれない。

 そうノランに提案して見ると、彼はあっさりと首を横に振った。


「まずは叔父に逃げられない様に、私が直接行く方が確実だ」

「逃げる……」

「突然自分の子だと、幼児を突き出されれば、誰しも逃げたくなるものだ」


 するとリカルドが大仰に首を縦に振って賛同の意を表した。


「分かります。ええ、そうでしょうとも」


 過去に似た経験でもあるのか。

 つい白い目でリカルドたちを見てしまう。


「そーですか。そーいうものですか」


 私の声がちょっと冷たかったからだろうか。

 束の間誰もが口をつぐんだ。





 寝る前に少年の部屋の様子を見に行った。

 彼を起こさない様に、そっと部屋の中に入ると少年は掛け布団を足元まですっかり蹴散らして、枕から完全に頭が落ちた状態で寝ていた。

 寝顔は穏やかだったので、私はホッとした。

 どうせ又蹴飛ばすのだろうな、と思いながらも掛け布団をもう一度彼の身体に被せて、私は部屋を後にした。


 ノランの様子を見に行くと、彼は一階の書庫にいた。

 彼は埃を被った箱の中から、書類や本を出して、一つ一つに目を走らせていた。

 机の上や床にたくさんの冊子や書類が散乱している。

 私がやって来た事に気がつくと、彼は床を埋める書類を跨ぎ、私の目の前まで歩いて来た。何やら不敵な笑みを浮かべている。

 ノランは私の顔の目の前に、一冊の書類の綴りを突き出した。

 距離が近過ぎて、ちっとも読めない。

 頭を外らしてから書類を受け取り、かざされたページを読んだ。

 書面には少し掠れた黒いインクでたくさんの人物の名が書かれており、その中になんとアリックス・ガソンと記された字があった。

 アリックス・ガソン。まさにあの少年の母親の名前である。


「これは……?!」

「叔父の時代のダール伯爵家で、雇用されていた者たちの名簿だ。アリックスはこの屋敷で侍女をしていた。五年以上前に……ピーターを生む少し前にここをやめているようだ」


 それは、つまり!

 アリックスとダール伯爵が繋がった。そして、それはノランではなかった。

 やはりピーター少年の父親は、前のダール伯爵なのか。

 ノランは腕を組んで私を見下ろした。


「これでやっと私の身の潔白を証明できたか?」

「え、ええ。まあ……」


 動揺した私は書類を手から滑らせ、床に落としてしまった。慌てて片膝をついてそれを拾おうと屈むと、ノランも同じ事をしようとしていた。彼は私が書類についた手の上にすかさず手を置き、何故かそこに一気に体重をかけた。

 私の右手が、書類とノランの手に挟まれる格好になり、身動きがとれなくなる。

 ノランは結構な力を私の手の甲にかけ、痛みを感じた私は狼狽した。

 お互いの額が、触れるほど近くにあった。


「ノラン様、手が……」

「私はあちこちで子を設けるような男に見えるか?」

「いえ、そういうわけでは、ないです」

「でも貴方は疑っていた」


 ノランが私を至近距離からじっと見つめていることが分かる。こちらはドキドキして、顔が上げられない。

 私は何とか手を解放してもらいたい一心で話を続けた。


「それは……。ノラン様が、とても格好良くて……女性から好かれそうだから」


 正直にそう言ってみたが、顔から火が噴き出しそうなほど、恥ずかしい。

 ノランの額が、私の額に触れた。

 心臓を鷲掴みにされたような衝撃を感じる。


「私の顔が好きか?」

「……好き、です」


 ノランの鼻が微かに私の鼻を掠め、唇と唇が当たりそうになる寸前で、彼はようやく私の手を解放した。

 書類を拾うのも忘れて、慌てて手を引っ込め、立ち上がる。

 ノランは私の代わりに書類を拾うと、他の資料とは分けて机の上に置いた。

 明日、前の伯爵の所に行く時に、大事な証拠品として持って行くつもりなのかもしれない。


 その場から脱走するように寝室に行き、寝具に潜り込んでも、胸のドキドキはおさまらなかった。私の額に額を押し当てたノランを思い出し、恥ずかしくなって、柔らかな枕に顔面を押し付ける。

 少年の母親は今、子どもと離れて辛い心境にあるかもしれない。

 ピーター自身は、知らない屋敷の中で、初対面の人間に囲まれて不安で仕方がないだろう。

 けれども今、私は不謹慎にも、ノランとの触れ合いに胸高鳴らせていた。そしてそれは、頭を冷やそうとしてもなかなか冷めてはくれなかった。

 何度目か分からないほどの寝返りを繰り返していると、ノランが寝室にやって来た。

 私はさっきのことを思い出して恥ずかしくなってしまい、寝台の思いっきり端の方へいそいそと転がった。


「まだ寝ていないのか」


 寝台の上に乗りながら、ノランは私に声をかけてきた。

 目を開けてノランを見ると、彼は呆れたような顔でこちらを見ていた。


「そんなに端にいて、落ちないか?」


 私はほんの少しだけ、真ん中へ動いた。するとノランは寝台の中央へ来ると、無言で私の身体の下に腕を指しいれた。一瞬悲鳴を上げたくなるほど、私は驚いた。

 ノランはそのまま私の身体を寝台の中程まで引き寄せ、結果的に彼の上半身は私の身体の上に乗る形になった。

 頭の中の私は、もう絶叫していた。

 全身が緊張で硬直する。

 ノランは私の肩に触れ、するするとその手を腕から肘、そして私の手まで滑らせた。私の手はあまりの緊張に、拳を握って固まっていた。

 ノランの手は、ぎゅっと握り締められた私の手を包み込むように撫でた。


「私に触れられるのは、嫌か?」


 息がかかるほどの距離でそう問われ、首から下が完全に硬直した状態で私は左右にせわしなく頭を振った。


「なぜそんなに震えている?」


 自分は震えているだろうか。気がつかなかった。

 私の反応は、ノランを嫌がっているみたいに見えるらしい。

 その誤解を解こうと、声を絞り出した。


「……少し怖いだけです」

「怖がらせるつもりはない」

「違うの。違うんです」

「何が違う?」

「だって、今まで、ノラン様ほど綺麗な男の人を、見たことがなかったので……怖くて」


 するとノランはほんの少し笑い、私を正面から覗き込んだ。その整い過ぎた顔で見つめられると、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうになる。


「おかしなことを言う。毎日見ているというのに」


 そう言うとノランは私の頰にキスをした。

 そして私からゆっくりと離れると、隣に横になり、枕元の明かりを消した。


「明日は早朝に島を出る。貴方には迷惑をかけて申し訳ないが、その間ピーターの世話を頼む」

「大丈夫です。任せて下さい」

「……色々と気苦労を掛けて、すまない」

「いいえ」


 私はノランの方に頭を向けて、暗がりの中にあるぼんやりと見える彼の顔をちゃんと見つめた。


「私の方こそ、疑ったりしてごめんなさい」

「……明日、叔父上に同じ事を言う自分がいないと良いのだが」






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