3(2)
わずか5歳で死に別れた実母に関する記憶や思い出は、正直なところ、殆ど残っていない。
ただ、狭く汚いアパートの薄暗い一室の片隅で、いつも腹を空かせながら、いつ帰るともしれない母親の帰りを待っていた。そんな記憶が朧にあるだけだった。
母親の職業は自称女優。
外見だけはその職業に見合った、恵まれたプロポーションとそれなりの美貌を備えていたようだが――幼心にも綺麗な女だった、という印象だけはうっすら残っている――いつまで経っても鳴かず飛ばずの状態がつづいて、日の目を見る気配もなかったという時点で、才能のほうは推して知るべしだろう。
実力も才能も伴わない夢に、ただひたすらしがみついていた哀れな女。
現実から目を背け、いつか自分にもスポットライトがあたる日だけを夢想して、端役をもらうため、業界のお偉方に必死で媚びを売り、果てはみずからを進んで差し出した、都合のいい『女優の卵』。
わずかな記憶の片隅に残る母親は、いつも俺を抱きしめて泣いていた。もう少しの辛抱だから。きっともうすぐ、押しも押されぬ大女優になって、だれもが羨む暮らしを手に入れてみせる。大丈夫、あたしには才能がある。いまはまだ、チャンスに恵まれないだけ。ただ、それだけ。それだけなの、カシム。あんたもそう思うでしょう? あたしの可愛い坊や――
母親の顔も碌に思い出すことができないというのに、彼女が使っていた安っぽい香水の香りだけは、不思議といまでも、記憶の隅に鮮明に残っている。
職業は女優だと言いながら、生活費を稼ぐために夜の店で働きつづけ、わずかな仮眠をとって昼はオーディションの掛け持ちか業界関係者の接待。
いつも酒と煙草の臭いにまみれて家を空けることが多かった女は、ある日とうとう、完全に帰ってこなくなった。何日経っても、どれだけ待っても戻らない母親を、それでも信じて待ちつづけてから、どのくらいの時間が過ぎただろう。
事前に買い与えられていたパンや菓子もすべて食べ尽くし、もともと碌なものが入っていなかった冷蔵庫の中身すら空になってひさしく、ひたすら水道水で空腹をまぎらわせていたときにその男が現れた。
「おまえの母親は死んだ。今日からは私と一緒に暮らすんだ、ラルフ」
突然家にやってきて、知らない名で俺を呼んだ見ず知らずの身なりのいいその男は、みずからを『父親』だと名乗り、生まれ育った家から俺を連れ去った。
売れない女優、アーイシャ・シビル・ザイアッドの息子、カシム・ザイアッドは、その日から《メガロポリス》屈指の名門、シルヴァースタイン本家の次男、ラルフ・ジェラルド・カシム・エル・ザイアッド=シルヴァースタインとなった。
見たこともないような豪邸で、見知らぬ人間の中に放りこまれて突如はじまった夢のように贅沢な暮らしは、幼い俺をおおいに戸惑わせた。なにより困惑したのは、絵本で見たことのある『妖精の女王』にそっくりな、綺麗で優しそうな女性が、自分の『お母さん』になったと言われたことである。
彼女は、『兄』と『弟』だと紹介されたふたりの子供にいつも囲まれて、幸せそうに微笑んでいた。
「これから仲良くしましょうね、ラルフ」
屋敷に連れてこられた日、彼女はそう言って優しく微笑みかけてくれたが、甘い香りのする白い指先が頭を撫でようと伸びてきたとき、俺はその手を咄嗟に振り払ってしまった。何日も風呂に入っていなかった自分が、綺麗な彼女を汚してしまいそうでイヤだったのだ。
彼女の微笑みは一瞬硬張り、そして直後に悲しそうな微笑へと変わっていった。
「焦らないで少しずつ、ゆっくり家族になっていきましょう」
彼女はそう言って、俺から離れていった。
『家族になる』とはどんなことなのか、どんなふうに振る舞えば受け容れてもらえるのか、『家族』の愛も、『親』の愛も知らずにきた俺には見当もつかず、ただただ、途方に暮れるばかりだった。
宮殿のような屋敷で綺麗な衣服に身を包み、高価な玩具や本などが惜しみなく与えられ、豪勢な三度の食事のほかにお茶や菓子までが振る舞われる。擦れ違う使用人たちは皆、恭しい態度で主家の人間に対する礼節を守り、遠目に眺める来訪客はいずれも上品で華やかで、取り澄ましていた。
シルヴァースタイン家の人間として恥ずかしくないよう、さまざまなマナーから立ち居振る舞い、言葉遣い、勉強に至るまで、各分野の専門家たちが家庭教師として付けられ、徹底した教育が施された。
勉強は嫌いではなかったし、知らなかったことを知識として吸収していくことも、身につけていくことも楽しかった。
教師たちはいずれも厳しかったが親切で、豊かな見識と立派な人間性を兼ね備えていた。だが、そんな彼らをしても、『家族になる』ための正確な方法を知る者はひとりとしてなかった。
「ご自分から心を開いて、お父様やお母様と向き合われればいいのです」
難しいことなど考えず、笑顔で相手の胸に飛びこんでいけばいい。素直に思ったことを言葉にして伝えればいい。
言うことは皆それぞれだったが、結局はおなじ意味に繋がった。
訳知り顔でそんなふうにアドバイスをしても、いざ根本的な部分で『家族』がなんなのかを問うと、それを納得のいくかたちで――というより、俺の納得のいく答えを出せる者は、だれもいなかった。当然だろう。彼らは皆、ごく普通に、生まれたときから『家族』の中で、『親』の愛情に包まれて育ってきたのだから。
「2番目のお坊ちゃまは、利発すぎて、こちらが太刀打ちできなくなることもしばしばです。今後の成長が楽しみですなぁ」
家庭教師たちがそう言って笑うたび、『妖精の女王』にそっくりな彼女の美しい笑顔が曇った。
彼女の笑顔を曇らせることが、俺はなにより怖かった。彼女の手を振り払ってしまったときのように、悲しい顔をさせたくはなかった。
彼女に笑っていてほしくて、綺麗な『妖精の女王』のままでいてほしくて、自分から近づくことがどうしてもできなかった。彼女が俺の姿を見るたびに顔を曇らせ、悲しげな様子をみせたからだ。
5歳の子供に、大人の事情、ましてや男と女の込み入った事情など理解できるはずもない。だが、自分が彼女を悲しませる原因そのものなのだと、うすうす感じとるようになっていった。
家の中で孤立していく俺を、親父は終始見て見ぬふりで傍観者を決めこみ、中立の立場を貫き通した。冷淡なやりようではあったが、下手に俺に肩入れをしない突き放したその態度は、結果として正しい判断だったといえる。おかげで俺は、自分を心から愛してくれる『最愛の母』を得ることができたのだから。
薔薇園ではじめて彼女に抱きしめられたあの日、高熱で朦朧とする意識の中、これが夢ならばどうか覚めないでほしいと、ただひたすら、それだけを願っていた。
「わたしの可愛いラリー坊や」
優しいソプラノが歌うように呼ぶたび、俺はこのうえない至福を味わった。
諸悪の根源でありながら、可哀想な子供を見捨てることのできない彼女の優しさと博愛の心を見越して利用した親父は、稀代の大悪党と言っても過言ではないだろう。