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8(2)

 女の病が発覚したのは、知り合ってちょうど2年が経過したころだった。


 もともと痩せぎすだった女は、そのころになるとやたらしんどそうに座りこむことが増え、みるみる骨と皮ばかりの体型に痩せ細っていった。

 ただちょっと疲れているだけだと言い張って、意地でも医者にかかろうとしない女を無理やり病院に引きずっていったときには、すでに手遅れの状態だった。

 知り合った時点で発症していたことは、あとになって聞かされた。


「しかたないよ。治る見込みがないって、はじめっから言われてたし」


 女の顔には、諦念だけが滲んでいた。


「バカ高い治療費だってアタシには払えっこないし、捨て金になっちゃうのわかってて医者にかかるなんて、それこそ無駄もいいとこだよ」


 身寄りのない女には、頼るあてなどどこにもない。だから、じわじわと病が進行して死が近づく足音に聞き耳を立てながら、最後のギリギリのラインまで孤独を遠ざけるように社会と関わっていくことに決めたのだという。


「仕事してれば、少なくともお店とは関わってられるし、お客さんの相手もするから独りじゃない。楽しくお酒飲んでれば、病気のことだって忘れられる。それに、あんたとだってこうして知り合えた。だから、これでよかったんだよ」


 家に帰りたいと女は懇願した。だが、入院以外で女に残されたわずかな生命をこの世に繋ぎ止める術は、もはやなかった。

 入院費用の心配ならしなくていいと言った俺のまえで、女ははじめて涙を見せた。


 女は、孤児だった。


 8つのときに里親が女を引き取り、中流の、そこそこの家庭での生活がはじまった。だが、平穏に思えた新しい生活も、ほどなく養父の異常な性癖が発覚して、一転、女を恐怖と絶望の日々へと突き落とした。

 養母がいない隙を見計らって繰り返される陵辱と虐待。

 女が養父の子供を身籠もったのは、わずか14のときだったという。


 養父母に気づかれぬよう、腹が膨れるまえになんとか子供は処理したものの、もう限界だった。

 女は養父母の許を飛び出し、そこからあちこちを転々としながら、なんとかその日を食いつないでいくうちに月日が流れた。場末の酒場が、いつしか女の唯一の拠りどころとなっていた。


「アタシがもっと美人だったり賢かったら、もすこしまともな生活ができてたのかな」


 女は、何本もの細い管に繋がれた状態でベッドに横たわったまま、寂しげに言った。


「少なくとも、いまよりもっとずっと綺麗に生まれてたら、女優とかモデルとか、そういう華やかな世界で成功できてたかもしれないね」


 俺の生みの母親は、容姿の点では他に抜きん出た美しさに恵まれた女だったが、結局は鳴かず飛ばずのまま、失意のうちに非業の死を遂げた。だが、敢えてその事実を告げることはしなかった。『もし』という架空の幸せと成功に思いを馳せる女の夢を、打ち砕く必要はないと思ったからだ。


 女を入院させてから、俺は仕事以外の大半の時間を女の病室で過ごすようになった。官舎へは、着替えやシャワー、仮眠を取りに戻るだけ。


「優しくて素敵なご主人ですね、って、看護士さんたちに羨ましがられちゃったよ」


 女は恥ずかしそうに、けれども心底嬉しそうに頬を染めた。


「なんだかあんまりみんなで褒めそやすから正直に言い出せなかったんだけど、あんたは旦那どころか、恋人でもないって知ったら、きっとみんな驚くだろね」

「べつにわざわざ否定することもねえだろ。なんだったら、いっそ勘違い逆手にとって思いっきり惚気のろけてやれ」

「あんたの奥さんがアタシじゃ、悪いよ」

「なにが悪いことがある。おまえで充分だろ、こんな上等な女」

「上等なんかじゃないよ。アタシみたいな女と付き合いたがる男なんて、いるわけがない」

「なんだよ、だったら恋人らしいことでもしてみるか? なにがしてほしい?」

「いいよ、こんなにしてもらってるのに。もうこれ以上、望むことなんてなにもないよ」


 女はあわてて固辞した。


「あんたにこれ以上のこと望んだりしたら、それこそ罰が当たるよ。いまだって充分すぎるくらいしてもらってるんだから」

「罰なんか当たんねぇよ」


 女の言葉を、俺は一笑に付した。そして、いいから言うだけ言ってみろと、もし恋人がいたらしてほしかったことを無理やり聞き出した。

 女は最後まで恥ずかしいからイヤだと抵抗していたが、やがて俺のしつこさに根負けして、遠慮がちに自分が夢見たことを口にした。ホントにバカみたいに少女趣味丸出しの夢だったんだから絶対笑わないでよ、と照れて怒ったように釘をさしながら。


「部屋中、埋め尽くされるくらいの紅い薔薇の花を、一度でいいから贈られてみたかったんだ。薔薇って、高価で気高くて、アタシにはなんだか、手の届かない存在の花だったから……」


 贅沢な話だよねぇと、女は自分の夢に苦笑した。


「そんだけの量の薔薇、いったい何軒ぶんの店から買い占めることになるんだか。分不相応の夢だよね。まあ、見るだけならタダだからいいんだけど」


 それから数日後に、病院の個室は深紅の薔薇で埋め尽くされた。



「どうだ、これで惚気やすくなっただろう」


 せ返るような薔薇に囲まれて茫然とする女に笑いかけると、女は直後に顔を真っ赤にして怒り出した。


「もうっ、信じらんないよ! なんてバカな真似したのさっ。あんた、こんなことのためにいったいいくら遣ったの!?」

「なんだよ、そんな怒るなって。躰に障るぞ」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ。どうすんのさ、こんなことしちゃって。これってもう、返品できないの?」

「べつにいいだろ、たまにはこういう金の遣いかたしたって。俺だって一生に一度くらい、女にこういう気障キザな真似してみたかったんだよ」

「だってっ、アタシの入院費だってあんたが負担してるのに! こんなにしてもらっても、アタシ、あんたになにも返せないよ……っ」


 女はベッドに座りこんだまま、涙ぐんで俯いた。俺はベッドサイドに浅く腰掛けると、その背に腕をまわしてそっと抱き寄せた。


「おまえはなにも返す必要なんかねえよ。俺はおまえから、いままで充分すぎるほどのものを与えられてる。これはそのことへの、俺なりのおまえへの感謝の気持ちだ」


 女は涙に濡れる目で俺をじっと見上げた。


「アタシ、あんたになにもしてないよ?」

「俺がキツイときに、いつだって傍にいてくれただろ」

「アタシはただ、あんたが店やうちにフラッと立ち寄ったから、それで受け容れただけだよ。あんたがキツかったかどうかなんて、そんなの全然知らなかった。だってあんたは、いつだってそういうの、顔や態度には出さないで普通にしてたから」


 それが俺のポーズなのだからしかたがない。


「アタシ、あんたに特別なこと、なにもしなかったよ?」

「それで充分なんだよ」


 ほかの女では到底満たせなかった部分を、この女は俺が必要だったときに、必要としたぶんだけ与えてくれた。それで俺は、充分救われたのだ。


「おまえが望むなら、これぐらいたいしたことじゃない。なんせ俺は、稼ぎのいい独り身の軍人だからな」


 それにガラは悪いが、これでも金には不自由したことのない名家の出身なんだ。そう付け加えると、女はついに笑い出した。


「あんたって、どこまで本気で、どこから冗談か、全然わからない人だね」

「俺はいつだって本気だよ」


 言いながら、俺は腕の中にすっぽりとおさまっている女の頭の上に、軽く顎を載せた。


「軍人さん、あんたに想われるひとは幸せだね」


 女はぽつりと呟いた。


「あんたみたいな男に深く愛されたら、最高に――それこそ世界中でいちばん幸せな女になれるよ」

「口が上手いな。これ以上褒めても、なんも出ねえぞ」

「お世辞じゃないよ。いまのは本当の本気の言葉。掛け値なしのアタシの本心」

「なら、お互い本気ついでに、おまえ、俺のオンナになるか? ウェディング・ドレスは無理でも、指輪くらいなら贈ってやるぞ?」


 俺が言うと、女は頭を上げ、じっと俺の目を視つめた。鼻から両頬にかけて浮かんだそばかすが、くすんだ肌色の中でさらに濃く、深い影となって、女がこれまで歩んできた人生の悲しみと苦しみ、不幸の数だけ散っていた。


「アタシは、このままで充分だよ」


 随分長いこと俺の顔を視つめた末に、やがて女は、ふたたびぽつりと言った。


「あんたの奥さんになれる場所は、いつかあんたが本当に心から愛して、そしてあんたを心の底から愛してくれる人が現れたときのために、とっておいてあげて」


 そう言って、女は俺の腕の中に顔をうずめた。


「ほんのいっとき、いまこの瞬間だけでも、あんたの腕の中にいられるだけで、アタシは充分幸せ……幸せすぎて、怖いくらい……」


 幸せすぎて怖い。


 腕の中でかすかに肩をふるわせた女は、それからまもなく帰らぬ人となった。部屋中に溢れかえった薔薇が、1本もしおれることがないうちに――

 女は、自分のための簡易な葬儀と、郊外の墓地の片隅に、質素な墓を用意していた。


聖母マリア』――それが、墓碑に刻まれた女の名だった―――

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