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8(1)

 母はほどなく、1日の大半を眠って過ごすようになった。


 一時、病状が快方に向かったかのように元気を取り戻して見えたのは、俺が家に戻ったことで、精神的な張りが出たからだったのだろう。

 俺は、1日のほとんどを眠る母の傍で過ごし、時折、エドワードやアーサー、そして親父とも酒を酌み交わして、ポツリポツリと他愛ない話に興じる日々を送った。






「大丈夫ですか?」


 思いがけない相手から連絡が入ったと思ったら、開口一番にそう尋ねられて、少々面くらった。


「大丈夫って、なにがだ?」


 逆に訊き返すと、画面向こうの秀麗なかおに、たちまち躊躇ためらいと動揺が浮かんだ。シルヴァースタインの家で過ごす俺を案じてはいるものの、あまり踏みこんで余計なくちばしを挟むのも気が引ける。そんな様子がありありとしていた。

 遠慮がちなその様子に、思わず苦笑が漏れる。そして、「元気だよ」と応じた。


「これといってすることもないから、退屈っちゃ退屈だけどな。病室で付き添ってる以外では、親父と話したり、兄貴や弟とこれまでの互いのことを聞き合ったり、まあ、それなりにやってる」


 心配するほどのことはなにもない。暗に含めてそう答えると、白皙の美貌にホッと安堵の色が浮かんだ。


「そっちこそどうなんだ? まだいろんな案件がゴタゴタしてて、落ち着かないだろう?」

「対外的なものは全面的にボスやデリンジャーが引き受けてくださっているので、私は裏方に徹して事務処理に専念していられるぶん、まだ楽です」

「おまえこそ、あんま無理すんなよ。なんかあっても、いまはすぐに駆けつけてやるってわけにゃいかねぇんだから」


 そう言うと、プルシャン・ブルーの瞳がやわらかく凪いだ。


 随分いい表情かおを見せるようになった。

 再会当初、死に神の寵愛を受け、いまにも死の淵に引きずりこまれんとしているように見えたその顔に、もはや絶望の影は微塵も見あたらない。自分の役割と成すべきことを見いだした充実した日々の中で、しっかりとまえを見て歩んでいる。そんな様子が見受けられた。こんなふうに他人を案じ、思いやれるようになったのが、なによりの証拠だろう。

 母親譲りの冠絶した麗容には、活き活きとした生命力が溢れ、内面の輝きが、その美しさに鮮やかな彩りを添えていた。


 もう、なんの心配もいらない。内心で安堵する俺に向かって、母親の魔性とはかけ離れた、魅力溢れる美貌が穏やかに笑んだ。


「私なら大丈夫です。もしなにかあれば、あなたこそいつでも呼んでください。私がそちらへ駆けつけますから――必要とあらば、いますぐにでも……」


 戻った家での日々が、精神的にしんどくはないか。最後に付け足した言葉が、そう案じていることをほのめかしていた。

 だれかのさりげない思いやりが、こんなにも幸せな気持ちにしてくれる。それを嬉しく思いながら、大丈夫だとあらためて答えた。


「気持ちだけ、ありがたくもらっとくよ。そのうち落ち着いたら、ゆっくり会いに行く」

「わかりました。楽しみに待っています」

「ああ。思いっきりハグしてやるから覚悟しとけよ」


 身体の一部がほんのわずか、他人と触れ合っただけで全身を激しく硬張こわばらせ、恐怖と嫌悪にふるおののいていた重度の接触恐怖症患者は、すかさず余裕の表情で切り返してきた。


「さんざん追いまわされて充分免疫がついてますから、いまさらあなたに抱きしめられてもなにも感じません」


 随分言うようになったと、ひとしきり笑い合って通話を切った。


 グレンフォードの目論見を暴いた一件は、まだまだ世間を騒がせ、落ち着く気配もない。連日マスコミで取り沙汰されつづけている渦中の首謀者を補佐する立場では、本来であれば、馬鹿話に興じていられる余裕もないほど怱忙そうぼうを極めた日々の中に身を置いているはずである。

 無理にでも時間を作り出してまでわざわざ連絡をくれたその気遣いが、嬉しかった。


 ――エリス、おまえにはいつも救われる。



『ありがとう、軍人さん。あんたのおかげで、アタシの人生もそう悪いもんじゃなかった。最後にそう思えたよ……』



 通話の切れたモニター画面に、満足げな女の微笑が残像となって一瞬浮かび上がり、すぐに薄れて消えていった。

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