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室内の空調設備は、設定数値と寸分の狂いもない完璧さで正常に作動している。にもかかわらず、眼前の人物は、先程からひっきりなしに噴き出す大量の汗を忙しない動きでしきりに拭っていた。幅広の顔に張りつかせた、卑屈と阿諛を配合した無意味な愛想笑いは、そろそろ限界に達するころだろうか。ハンカチでこすりすぎた額や首筋は、すでにうっすらと赤くなっていた。
笑い疲れで顔の筋肉が痙攣しはじめたそのさまは、じつに見事な――
「顔面神経痛……」
ボソリと口の中で漏らした呟きに、相手はすかさず飛びついてきた。
「えっ、なんですかな? いま、なんと言われましたかな?」
ブルドッグを思わせる垂れた頬をふるわせ、忠犬もかくやといった暑苦しさで、『一途』を前面に押し出してテーブル越しに身を乗り出してこられても、少しも嬉しくない。
高級感溢れる革張りソファのスプリングが、本来の骨格の外側を無駄に覆っている脂肪と贅肉の勢いづいた重心移動に、ギシリと不満の声をあげた。
「いえ、べつに」
足を組み替えるふりでわずかに身を引いて、それとなく相手と距離を置く。ついでに、冷めかけのコーヒーがいかにも不味そうに沈殿しているカップを――不本意ながらも――口許に運んで、注がれつづけている熱い眼差しを遮断した。
脂ぎったおっさんに、鼻息も荒く潤んだ瞳で擦り寄られて喜ぶ趣味は、生憎持ち合わせていない。たとえ相手が、ピラミッドの最下層どころか土台の一部程度に過ぎない自分の立場から見て、遙か雲の上、ほぼ頂点に位置する存在であったとしても、だ。
もっとも、階級絶対の特殊な組織において、上昇志向の強い一部の連中の中には、こういったシチュエーションに泣いて小躍りする輩もいたかもしれない。汗っかきの卑屈なブルドッグの正体は、公安特殊部隊司令長官という、一軍人の立場からすれば、現役のあいだに一度でも間近にその尊顔を拝することさえまずかなわない、神様よりありがたいVIP中のVIPだったからだ。
さまざまな事情と立場と状況が重なった結果、その神様よりありがたい司令長官閣下に拝謁を賜る恩恵にあずかったわけだが、本来であれば、じきじきに声をかけてもらうことすら奇蹟にも等しい僥倖だっただろう。
だが、残念なことに、自分はそういった階級信奉からは縁遠く、出世欲とはさらに無縁だった。もっとも、仮にそのいずれか、もしくは両者に熱心であったとしても、今後の身の振りかたを思えば、いまさらな話ではあるのだが。
「しかし惜しいですな。いや、まったくもってじつに惜しい!」
しばし流れた沈黙が気詰まりだったのか、ブルドッグ長官は舞台俳優ばりに大仰な言いまわしとキレのある滑舌、ミュージカルでもはじまりそうな朗とした腹式の発声で嘆いてみせた。
「何度もお尋ねするが、本当に翻意されるおつもりはないのかな?」
これがキムだったら、人の話聞いてんのかと張り手のひとつもくらわせているところである。そこをぐっと堪えて、「ええ、まあ」などと穏便かつ曖昧な返答で茶を濁す処世術が身についたあたり、俺も大人になったと言おうか。まあ、ここで自分から後ろ足で砂をかけるような真似をして、いらぬ波風を立てる必要もあるまいと思ったことも事実だが。
「貴官の此度の活躍はじつに目覚ましく、功績もまた、素晴らしいものでしたからなぁ。ご本人をまえにして言うようなことではないのでしょうが、これほどの人材を失うとなると、我が軍にとっても非常な痛手、かなりの損失になろうかと憂えておるのですよ」
まったくもって本人をまえに言うことではない。褒め言葉もいっそここまでくれば厭味というものだ。おまえの垂れ下がった頬肉に縁取られた口は、追従を述べるためだけについているのかと言ってやりたいところだったが、そこもまたぐっと抑えて、テーブルの木目に目線を落とした。これ以上ニヤけたブルドッグ面を見ていたら、張り倒しかねなかったからだ。言っておくが、目の前の顔がブルドッグに似ているから張り倒したいのではない。犬そのものには、これっぽっちの偏見も差別意識も持っていない。ようは、ブルドッグを思わせる外観の眼前の人物の目や表情に見え隠れしている、小狡い計算と媚びが癇に障るのだ。犬にしてみれば、こんな人間の引き合いに出されて迷惑このうえない話だろう。
「過分な評価をいただき、恐縮です。ですが、当然、ご存じのことと思いますが、今回の件は、小官ひとりの功績によるものではありません。すでに、ご承知とも思いますが、ロイスダール指揮官の統率力と派遣部隊そのものの働きなくしては成し得ない勲功でしたから」
厭味がてら、『当然、ご存じ』、『すでに、ご承知』と重ねて強調して、権威に目が眩むあまり、おまえの評価は著しく公正さを欠いているぞと指摘してやったにもかかわらず、ブルドッグ長官のニヤけぶりに変化はない。
「いやいや、ご謙遜を。貴官なくして派遣部隊があれほどの殊勲を立てることはかなわなかったでしょうからな。指揮権が貴官に移ってからの軍の動きは、それはそれは見事だった。上がってきた報告書の内容に、私も幾たび感歎の声をあげ、どれほど唸らされたことか」
あの程度の戦術展開で唸るとは、さすがブルドッグだ。
浮かんだ皮肉は、すぐさまべつの言葉に変換されて口をついて出た。迂遠な言いまわしでは、贅肉の詰まった脳には届かないことがわかったからだ。ならば遠慮はいるまい。
「そうでしょうか? 小官がしたことといえば、口先ばかりの役立たずな将校の顎の骨を砕いてやったことぐらいじゃないですかね。真の殊勲者は、小官などではなくアドルフ・グレンフォード新総裁だったのでは?」
「シルヴァースタイン中将!」
思わず声高に呼ばわり、視線が交錯した瞬間に己の犯した失態をようやくさとったらしい。ブルドッグ長官は、傍目にも気の毒なほど――と一応言っておこう――狼狽し、あたふたと腰を浮かせた。
「あ、いやその……」
「小官は、カシム・ザイアッド、軍曹、ですが? 司令長官閣下」
「で、ですから、その……」
潮垂れて、股の下に入った尻尾が目に見えるようだった。
我がことながら、司法大臣をも跪かせる権力なんぞ、効果が絶大すぎてまったくいただけない。
口の片端が底意地悪く吊り上がるのを抑えきれなかったとしても、この場合、やむを得ないだろう。
ただの下士官が、たった一度の勲功で高級士官へ栄進、しかも殉職でさえ通常二階級特進のところを十二階級特進とは、破格すぎて片腹痛い。派遣部隊の指揮官であったロイスダールでさえ、大佐から準将へと一階級上がっただけなのだ。上役を遙かにすっとばしての好待遇に甘んじる気などさらさらなく、謹んで辞退申し上げたはずなのだが、どうやらこちらの言い分は、まるごと無視されたらしい。ついでに言えば、司令長官が口にした名前の軍在籍者など存在しない。それでも、こうなることを承知のうえで手の内――自分がシルヴァースタイン家の人間であったことを明かしたのは、ほかでもないこの俺自身なのだ。
入隊当初から身分及び経歴を詐称して軍に在籍していたことが判明してなお、この好待遇。我ながら、己の出した切り札の効き目に笑うしかなかった。本来であれば、昇進どころか、間違いなく懲戒免職ものである。
このあたりが潮時と見て、手にしていたカップをテーブルのソーサーに戻した。
「シル……、ザイアッド中将」
「ま、異例の昇進で退職金も相応に跳ね上がるなら、謹んでいただけるものはいただくことにしましょう。部隊長である小官が至らなかったせいで、大事な直属の部下2名の生命が失われましたから」
「ウォルター・ジャビッツとジェイコブ・ゴードンへの補償ならば、すでに充分な額が支払われているはずですが」
鈍いくせに、こういうところだけは察しがいい。そのくせピントはずれとくる。
思うと同時に、さらなる苦い笑みが口の端にのぼる。司令長官は、その表情の変化にも過敏な反応を示した。
今回の派遣部隊に加わった全隊員に、異例のことではあるが特別手当が支給された。死と隣り合わせがあたりまえとされる特殊部隊で、特例中の特例ともいえる報賞規定が適用されるほど、今回の任務が過酷であったことを軍上層部でさえもが認めた証左である。その特別手当を、俺はそっくり、ホセとハウザー、ふたりの部下たちの見舞金に充てた。戦闘中に重傷を負って現在も入院中のふたりに、部隊長として最後にしてやれることといえば、そのぐらいしかなかったからだ。
どこぞで漏れ聞いたのか、あるいはわざわざ調べさせたのかは知らないが、勝手に得たその情報から、いましがたの退職金の使い途を、すぐさま、俺の直属にいながら殉職した、べつの部下2名にもあてはめて推測したのだろう。否、すぐにフルネームが出たあたり、事前に先の先まで周到に予測を立てて、言葉を用意しておいたに違いない。意図した部分はたしかに間違ってはいないが、無神経な発言の中身が癇に障った。
「遺族の悲しみに、感情と等価の値段は付けられますかね?」
「いや、それは――それはもちろん、そういうことはないでしょうが……」
ただでさえ向き合った直後から滝のような汗を流しつづけているというのに、幅広の赭ら顔からさらなる冷や汗が噴き出し、司令長官はあわてて手にしていたハンカチで顔中をかきまわすように拭った。
俺も意地が悪い。軍という組織に属して前線で生命の応酬をしている以上、すべての殉職者にいまの言葉をあてはめて、青天井で慰謝などできるはずもないのだ。納得ずくで軍人という職業を選んだ側にだって、自己責任はある。最大限の義務を果たし、特進後の階級を適用した算定額で退職金を出すほか、特別遺族手当を支給するという誠意をみせている組織に、非難される謂われなどないはずだった。
「失礼、感情論に走りすぎました。落ち度は直属の上官であった自分にある、と言いたかっただけです」
非を詫びると、長官はあきらかにホッとした様子で、つめていた息をほそぼそと吐き出した。
「いや、お気持ちは充分にお察ししますとも」
一度も前線に出て、実戦を踏んだことのないキャリア官僚は、口ぶりだけは神妙に同情の意を表した。それを機と見て、こちらも立ち上がる。
「ご挨拶だけのつもりが、すっかり長居しました。貴重なお時間を割いていただき、感謝します」
「こちらこそ、お目にかかれて嬉しかった。お迎えが、すでに到着されていたのでしたな。お待たせしてしまって申し訳なかった」
司令長官もまた立ち上がり、見送りの態勢に入った。
「カシム・ザイアッド中将」
儀礼的な退官の挨拶を済ませ、長官室を辞去しようとすると、出口の手前で思いのほか真剣な声に呼び止められた。
「貴官に対する軍の、そしてむろん私もだが、此度の勇退を惜しむ気持ちに嘘偽りはない。入隊時より伏してこられたその出自に関係なく、公安部隊の今後のため、貴官のような逸材が必要だと上層部が判断し、是が非にも慰留をとの声が多数あがったことは、世辞や社交辞令などではなく、掛け値なしの事実なのです。それだけは、ご理解いただきたい」
声同様に真摯な眼差しでこちらを見据える様子には、たしかに阿りも偽りも感じられなかった。
最初から余計な卑屈さなど取っ払って、組織の長として本音でくればいいものをと思わなくもなかったが、最後まで崩れることのなかったバカ丁寧な言葉遣いが、ねじまがった序列を如実に示していた。もっとも、年齢、階級、立場、あらゆる面で目下になる人間相手に、上位者として対することができず、かといって、みずからを格下に置くこともできないという、複雑かつ微妙な心理が、ところどころでおかしな言いまわしの敬語となってあらわれてはいたが。
ともあれ、最後の言葉でいくぶん救われたこともまた事実だった。おかげで、退室時の最敬礼だけは誠心誠意、本来の意味での敬意をもって、自分が属してきた組織の長に表すことができた。