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7(2)

 ふと目が覚めると、母の歌声はまだつづいていた。

 ごく短い微睡まどろみの中で、水が流れ落ちるように記憶が過去の時間をたどったらしい。

 目を開けると、ベッドの背凭せもたれに寄りかかって歌を口ずさみながら、刺繍針を動かしている母の姿が映った。


「疲れませんか?」


 声をかけると、母はかけていた老眼鏡をわずかにずらしてこちらを見た。


「あら、目が覚めた? 歌なんか歌って、起こしちゃったかしら?」

「いいえ、とても心地よく聴き入っていました」

「そうね、なんだかとても、やすらいでいるように見えたわ。でも、こんなところでうたた寝なんてしたら、風邪を引くわよ。わたしは大丈夫だから、お部屋へ行っておやすみなさい」

「俺なら平気です。自分の部屋より、ここのほうがかえってくつろげます」


 気休めや虚勢などではなく、本心だった。

 かつて俺が自室として使用していた部屋は、6年前に俺が家を出たときそのままの状態でいまも残されていた。

 きちんと掃除がなされ、整えられたその部屋は、6年という歳月を経てなお、まるでほんの数日家を空けただけのような、なんともいえない空虚さが漂っていた。


「お母さんの傍で、こうしてのんびり過ごせる時間が、いまの俺のいちばんの幸せです」

「まあ、いい大人が甘えん坊さんだこと」


 母は、それでも嬉しそうに微笑んだ。


「『お母さん』て、いい響きね。あなたがそう呼んでくれることで、わたしはいつも自分が『母親』でいられる幸せを実感して、噛みしめていられる」




『あなたをそんな卑屈な子に育てたおぼえはないわ!』


 その昔、母に一度だけ叩かれたことがあった。

 はじめて公の場で大勢の上流階級に住む人間たちのまえに出たとき。

 遠慮のない値踏みと好奇心、悪意ある嘲弄と揶揄を含んだ視線の集中砲火に晒されて、俺は嫌というほど自分の立場と境遇を思い知らされた。アーサーとエドワードが父や母に付いて他の出席者たちと挨拶を交わし、歓談する中で、俺は言いようのない惨めさと孤独を味わっていた。疎外感をおぼえる以前に、自分は完全なる部外者であることをひしひしと痛感していた。


 こんな連中のまえで母に恥をかかせることはできない。

 幼いなりの頭で精一杯考えた末に、俺を手招きして歓談の輪に加えようとした母をこう呼んだ。


 マダム・シルヴァースタイン。


 その瞬間、母の目に奔った悲しみの色を、いまでもはっきりと憶えている。


『なぜわたしの息子として堂々と胸を張らないの? なぜあなたが自分を羞じ入る必要があるの? あなたはだれがなんと言おうがわたしの大切な息子なの! どうしてそれがわからないの!?』


 人前で思いっきり叩かれたショックや痛みより、母の涙のほうが遙かに胸にこたえた。もう二度とこんなふうに傷つけ、泣かせたくはないと、深い悔恨が胸中を満たし、自分の浅はかさに腹が立ってしかたがなかった。

 大勢の人々が見ている中で、母は泣きながら大声で俺を叱りつけ、そして抱きしめた。俺もそんな母に「ごめんなさい」と繰り返し謝りながら、すがりついて泣いた。


 ごめんなさい……ごめんなさい、お母さん……と。


 俺たちはそうして人目も憚らず抱き合って、謝り合って、さんざん気が済むまで泣きつくし、親子の絆をたしかなものにした。




「ごめんなさいね、痛かったでしょう」


 母は当時を懐かしむように思い返し、あのときは加減する余裕が全然なかったもの、と苦笑した。


「わたしはまだ、あなたに母親として認めてもらえていないんだ、って思ったら、頭に血がのぼってしまって。自分の至らなさが悔しくて、切なくて、悲しくて、気がついたら小さなあなたに怒りをぶつけてしまっていた。あんなにやわらかくて小さなほっぺを、手の跡がくっきり残るほど強く叩いてしまったなんて……。思い出すたびに、いまでも胸が痛むわ」


 そう言って、母はもう一度、ごめんなさいね、と気弱げな笑みを浮かべた。


「お母さんがあのとき俺を叩いてくれたからこそ、俺たちはこうして本当の親子になれたし、周囲の人間の、俺を見る目も変わった。むしろ感謝してます」


 妾腹の子供という見下した評価は、その後も変わることはなかったが、少なくとも表向きは皆、シルヴァースタイン家の次男として俺の存在を尊重するようになったことはたしかだった。


「あなたが家を出たとき、バカみたいだけれど、わたし、あのときのことを心から後悔したの。わたしが自分の感情にまかせてあなたを叩いたりしたから、あなたは家を出ていってしまったのかもしれないって」

「なぜ、そうなるんです?」


 とんでもない発想に思わず笑うと、母は不満そうに頬を膨らませた。


「笑いごとじゃないわ、ラルフ。わたし、本気で後悔して、何度も自分を責めたのよ?」

「飛躍しすぎです。いったい何年前のことを根に持って、そんな子供じみたことをするというんです?」

「自分でもバカげてるのはわかってたけど、でも、どうしてもその考えが頭から離れなかったのよ」


 母はそう言って、少女のように拗ねてみせた。


「子供のころに親に叩かれたことを執念深く恨んで、いちいち腹いせに家出をしていたら、それこそ世界中の人間が失踪しています」

「それはそうだけれど……」


 俺がこの人の心に残した傷としこりは、それほど強くこの人を掻き乱し、苦しめたのだろう。


「お母さん、もう少し微睡まどろんでいたいので、BGMにまた、子守歌を聴かせてください」


 俺の顔をじっとみつめた母は、やがてふわりと微笑んで、もちろんいいわよ、と嬉しそうに応じた。

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