7(1)
やわらかなソプラノが、途切れ途切れに囁くように子守歌を口ずさんでいる。
――ああ、母が歌っているのだ。
半覚醒の微睡みの中で、心地よい歌声に身を委ねながら、浅く、深く、過去の時間を意識が揺蕩う。
幼いころ、熱を出して寝こむと、必ず枕もとにひと晩中付き添って看病してくれた母が歌ってくれた子守歌。
大人になって、一度だけおなじ体験をした記憶が不意に甦ってきた。
あれは、軍に入って3年目のことだったか――
「あれ、軍曹、いつのまに酒なんか飲んだんで?」
対立する過激派同士の抗争鎮圧という、比較的軽微な任務を終えた帰り、キムが俺の顔を見るなり不思議そうに首をかしげた。
「ああ? なんの話だ」
「いや、いい感じに顔や目もとに赤みが差してますけど」
「うるせーな。ヘマやらかして腕に1発くらっちまったのを抉り出すついでに、気付けに1杯ひっかけたんだよ」
「え? だってマジで赤いですぜ? いつも、どんだけ度数高い酒空にしてもケロッとしてる軍曹が赤くなるったら、1杯ひっかけたどころじゃねぇんじゃ……」
「バカか、てめえ。任務中に、んな、しこたま飲むわけねえだろ。傷が響いてんだよ」
「ええ? けど軍曹、いつもなら土手っ腹に風穴が空こうがなんだろが、そんなん屁でもねえ底なしのウワバミなのに……」
「うるせーなっ! 俺だって人間なんだから、日によっちゃ酒がまわることだってあんだよ!」
ごちゃごちゃとしつこくぬかすデカ頭を小突くと、羆ヤロウは大袈裟に「痛いっ」と悲鳴をあげた。
「あ、軍曹! どちらに? 官舎に戻らねぇんで?」
「うるせーよ。仕事は終わってんだから、どこ行こうが俺の勝手だろ。てめえはさっさと帰れ」
「え、だって、なんかいつもと様子が……」
それこそ底なしに機嫌が悪かった俺は、ぐだぐだといつまでも絡んでくる羆ヤロウの胸倉を掴んで乱暴に引き寄せた。
「てめえ、ストーカーみてえにノコノコついてきやがったらブチ殺すかんなっ」
低く凄んで突き飛ばすと、そのまま背を向けた。
「報告書、適当にまとめて出しとけ」
「軍曹ォ……」
ウォッカをぶっかけて止血しただけの銃創が、ジンジンと脈打って不快さを増した。
気付けに1杯などというのはデタラメだった。任務に就くまえからその日は調子がイマイチで、手足がやけに重く、おまけに悪寒までして躰が懈かった。急な出動要請が入って、ツイてねぇなと思いながら現場に出て集中力を欠いた隙に、テンパッた過激派組織の下っ端が手当たり次第にぶっ放した1発をくらってしまった、というわけだ。
いつもなら簡単に避けられた弾をまともにくらうとは、俺もヤキがまわったとしか思えない。
こんなザマで、官舎とはいえ軍に帰還するのは憚られ、とりあえず手近で人目につかずに休息がとれそうな場所を求めて街中を彷徨い歩いた。朦朧とする意識の中、足の向くままたどり着き、転がりこんだのは女の安アパートだった。
仕事を終えて、ちょうど休むところだったのか、薄いスリップ1枚で戸口に現れた女は、倒れこむように躰の上に覆い被さった俺に驚いて、悲鳴をあげた。
「ちょっ、軍人さん!? あんた、なんだってこんな酔いつぶれるまで飲んだのさっ!」
非難がましく声を尖らせながら、女は腋の下に自分の躰を押し入れた。そして、肩を組むようにして足取りが危うい俺の躰を支えながら寝室まで移動し、一緒に転がるようにベッドに倒れこんだ。
安いベッドのスプリングが、ふたりぶんの体重に耐えきれずにギシギシと耳障りな軋みを立てる。女は両手をついて起き上がると、俺の胸のあたりを軽くひっぱたいた。
「んもうっ、こんなんなるまで酔っぱらうなんて、あんたらしくないよっ。いったい、どうしたっての?」
「べぇつに。ひと仕事終えて戻ったとこだよ」
呂律のまわらない口調でヘラヘラと答えると、女は聞こえよがしに嘆息し、けれども急に顔色を変えて俺の額に手を当てた。
「やだっ、あんたすごい熱だよっ。こんな状態で仕事してきたっての!? 信じられない、なんてムチャすんのさ!」
「しょーがねーだろ。仕事なんだから……」
「もうっ、無理してしゃべんなくていいよ! 完全に息あがってんじゃん。いま医者呼ぶから、ちょっと待ってな」
言って、ベッドから降りようとした女の腕を、俺は咄嗟に掴んだ。
「いい。そんなもん呼ばなくて」
「だって、ちゃんと診てもらわなきゃ――」
「ただの風邪だ。ひと晩寝りゃ治る」
強硬に言い張って手を放さない俺を、女は戸惑ったように見下ろしていた。が、やがて諦めたように息をつくと、自由なほうの手を伸ばして、俺の頬にそっと触れた。
「いいよ、わかった。あんたがイヤなら医者は呼ばない。いま薬持ってくるから、ちゃんと布団かけて、横になって」
そっと額に口づけして、縋りつくように掴んでいた手をはずさせた。
「心配しなくていいよ。今夜はアタシが、ずっと傍についてるから。あんたはなにも気にしないで、ゆっくり休んで……」
声の後半は、墜ちていく眠りの淵に沈んで消えた。
途切れ途切れに耳に届いていた囁くような歌声が、不意に意識の上に明確にのぼった。
「あ、気がついたね」
気配でわかったのか、眼を開けるより先に声が降ってきて、濡れたタオルのかわりに心地いい、乾いた感触の掌が額に触れた。
「よかった。熱も殆ど下がってる」
「……いま、何時だ?」
掠れる声で尋ねながらぼんやり眼を開けると、枕もとに座る女が、額に手を当てたまま俺の顔を覗きこんで微笑んだ。
「まだ朝の7時前だよ。心配しなくても、もっとゆっくりしてて大丈夫。今日は夕方までは非番なんでしょ?」
思わず無言で見返した俺に、女は、「昨夜、自分でそう言ってたよ」と付け加えた。
「憶えてない?」
まったく憶えがなかった。
女は笑いながら立ち上がると、ベッドサイドのテーブルに置かれていた水差しを取り上げて、かぶせてあったグラスに水を注いだ。
「ま、あんだけ高熱に浮かされてりゃ、記憶だって朧だよねぇ。解熱剤、効いてんのかどうかもわかんなくて、どうかなっちゃうんじゃないかってひやひやしちゃったよ」
差し出された水を受け取ろうと身を起こすと、女はそっと背中に腕をまわしてさりげなく手扶けしながらグラスを口許まで運んでくれた。
「ゆっくり飲んで。熱でだいぶ汗かいたから、服は勝手に脱がしちゃったよ」
事後報告に、俺は、ああと曖昧に頷いた。
「あとで傷の手当もちゃんとしなきゃね。軍服ひっぺがしたら、腕にすごい怪我までしてるんだもん、びっくりしちゃったよ」
「悪い。迷惑かけた」
「べつに迷惑なんかじゃないけどさ。頼ってもらって逆に嬉しかったし。でもホント、世話が焼けるったらない。いくら仕事ったって、あんなヒドイ体調でドンパチやるなんてどうかしてるよ。生命がいくつあったって足りゃしない。もっと自分を大事にしないと」
ポンポン口をついて出てくる叱責の言葉が、なぜか耳に心地よかった。
「あんたってホント、野良犬――うううん、野生の獣みたいだね。人間に媚びるのが嫌いで、自分の弱った姿を見せることを死ぬほどイヤがって」
女は空になったグラスをテーブルに置き、ふたたび横になるのを手伝って掛け布団を丁寧に肩までかぶせた。そして、母親が子供にするように額に口づけて身を引いた。
「消化にいいもの、なにか作ってあげるから、できるまでもう少し眠るといいよ。食べて薬を飲んで、もうひと寝入りしたら、目が覚めたときには、きっともっと楽になってるはずだから」
ほかになにかしてほしいことはあるかと訊かれて、俺は考えるより先に歌が聴きたいと答えていた。女は慈愛に満ちた笑顔で、「そんなのおやすいご用だよ」と快く請け合った。 やすらいだ微睡みの中で聴いた天使の歌声は、あたたかな陽だまりにくるまれるように、どこまでも優しく俺の躰を包みこんでくれた。
女が病に倒れるのは、それからまもなくのことである――