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6(2)

 薔薇園に置かれたベンチに座り、ぼんやりと頭上に映し出される蒼穹の映像を眺めていると、背後に人の気配を感じた。


「ごめんなさい、お邪魔をしてしまいましたかしら」


 ベンチの背に肘をあずけた格好のまま振り返ると、薔薇の蔓を絡ませて造ったアーチの入り口に、元婚約者が佇んでいた。


 アナベル・シルヴァースタイン。6歳下の従妹は、彼女が生まれたときに親同士で約束を取り交わし、俺の許嫁として育てられた。

 結婚相手、というよりは、妹のように可愛がってきた彼女が俺に恋心を抱き、いつしか真剣に想いを寄せるようになっていたことを知っている。明るく快活で、幼いころから利発だった彼女は、やがて理知的な落ち着きを備えた、美しく、思いやり深い女性へと成長を遂げた。


 彼女は、俺がすべてを捨てて家を出たそのときまで、俺との結婚を信じて疑ったことはなかっただろう――



「お茶をお持ちしたのですけれど、少し、ご一緒してもかまいません?」


 遠慮がちに微笑むアナベルに、立ち上がって彼女が手にするティー・セットの載ったトレイを受け取りながら、向かいの椅子を勧めた。中央に置かれた丸テーブルの上には、母の部屋に飾るために摘み取ったばかりの薔薇が積んである。くわえ煙草のまま、それをひとまず足もとの水を張ったバケツに移し替えた。


「君がメイドの真似ごとをすることもないだろうに。わざわざすまなかった」

「あら、ご挨拶ですこと。お見舞いに伺ったら、こちらのお宅で働く女性陣が、だれが従兄にい様にお茶を運ぶかで揉めてる最中のようでしたから、僭越ながら、こうしてわたくしがお持ちしましたのよ? 従兄様も罪作りですわね」


 どうやらやぶ蛇だったようである。

 簡単にやりこめられて、俺は銜えていた煙草を丸テーブルに置かれた灰皿の上で揉み消しながら黙って肩を竦めた。


「伯母様は、おやすみでいらっしゃいますのね」


 ティー・ポットからカップへお茶を注ぎ入れ、ひとつをこちらへ差し出しながら、アナベルはあらたまった口調で言った。


「ああ。少しまえにやすんだところだ」

「ほぼ1日、伯母様の病室に詰めてらっしゃると伺いました。あまり無理をなさらないで。従兄様まで体調を崩されては困りますもの」

「このぐらい、たいしたことはない。俺にできることと言ったら、いままでつらい思いをさせてしまったぶん、傍にいることぐらいだからな」

「伯母様も、どんなにかお喜びでしょうね」


 アナベルは、感慨深げな様子で述懐した。

 俺が姿を消したあと、自分も深く傷つきながら、悲嘆に暮れる母をずっと傍で慰め、励ましつづけてくれた存在――


「君には、心から感謝してる」


 本心からの謝意を口にすると、優しい色合いの緑がかった碧眼が、やわらかく瞬いた。


「それから、このあいだ(・・・・・)は本当にすまなかった」



『――いいか、お嬢さん、何遍も言うようだが、あんたは人違いをしてる。俺はあんたみたいなご大層な身分の方に、軽々しく口を利いてもらえるような人間じゃねえんだよ。

 社会に蔓延まんえんしてる『平等』なんて言葉は、大多数を占める中間層の連中が自己満足のためにほざいてやがる戯言たわごとでしかねえ。現実をしっかり直視したほうがいいぜ。血統ってのは、たしかに存在してるんだからよ』



 婚約者を捨てて行方ゆくえをくらましただけでなく、再会すると同時に見ず知らずの他人を装い、心ない言葉を投げつけた。そんな彼女から、母の病について聞かされることがなかったら、こうして家に戻ることはなかっただろう。


「従兄様には従兄様のご事情がおありだった。それだけのことですもの、お気になさらないで」


 気にするなと言われて、そうですねとあっさり引き下がれるほど軽い罪ではない。そのぐらいのことは重々自覚していたから、至極神妙な気持ちでいたのだが、なにを思ったのか、アナベルは唐突にクスクスと笑い出した。


「それにしても、あんまりですわ」


『あんまり』の部分がどのあたりを指してのことなのかわからずに戸惑っていると、


「従兄様って、詐欺師の才能がおありですわね」


 思いがけない方向からスライダーが飛んできた。


あんな一面(・・・・・)を見てしまったあとで、いまさら『ラルフ従兄様』に戻られても、どう向き合えばいいのか対応に困ります」

「いや、だからあれは……」

あれ(・・)が、本来の地でいらしたんでしょう? 否定なさってもダメです。幼いころからラルフ・ジェラルドという人を身近に見て、知り尽くしてきたからこそわかります。あちら(・・・)こそが本物の従兄様だったのだと。わたくし、すっかり騙されてましたわ」


 聡明な彼女には昔から歯が立たなかったことを思い出して、こちらも早々に白旗を揚げ、明後日のほうを見やった。その、逸らした顔を覗きこむように、アナベルはわずかに身を乗り出して愉しげに言った。


「誤解なさらないでね? あんなふうに粗野な一面を知って失望した、と言っているわけではないんです。むしろ、とても惜しいことをしたと残念に思いました」


 からかい口調の語尾に、一抹の寂しさが混じる。


「ずっと自分を殺して生きてこられた――わたしの知る、ラルフ・ジェラルドという人には、そんな印象が強く残ります。穏やかで、物静かで、いつもご自分を前面に出すことなく、人の後ろに控えてらした。こんなにもつよく耀ける人だったことを、知らずに来てしまいました」

「ベル……」

「わたしは狭い視野でしか物事を見られない人間だったと、今回の件を通じて思い知らされました。従兄様の花嫁になれなかったことは残念ですけれど、従兄様が思いきった決断をしてくださったことに、感謝もしているんです。そのおかげで、わたしはアドルフ様を通じて世界を観ることができました。そしてこれからもきっと、新しい世界がひろがっていくと思うんです」

「結婚話は、随分拗れているらしいな」

「ええ。両親は『絶対破談だ!』って、それはもうすごい剣幕です」

「押し切るつもりか?」

「もちろんですわ。父や母がアドルフ様と結婚するわけではありませんもの。わたくしが選び、わたくしを選んでくださった方です。この結婚は、是が非でも貫き通します」

「随分、幸せそうだな」


 意外なほど積極的な様子に、少し驚かされた。アドルフ・グレンフォードとのあいだに、そこまでの愛情が芽生えているとは思わなかったのだ。計算高いあの男に、恋愛感情などという甘ったるい要素が入りこむ余地があるとは到底思えなかった。その意を酌んだのだろう。アナベルは、すべてを得心しているように頷いてみせた。


「わたくしとアドルフ様は、戦友のようなものですわ。なんて、実際に軍にいらした従兄様に言っては笑われてしまいますかしら? でも、わたくしたちのあいだにある信頼関係は、きっとそれに近いものです」


 かつて、彼女が思い描いていた理想の未来。

 夫に愛され、守られながら子供を産み、育て、妻として、母として家庭を守る。俺の母がそうであったように……。


「従兄様となら、きっと穏やかで、陽だまりのようにあたたかく、幸せな家庭を築けただろうと思います。それも悪くない人生でしょう。でも、アドルフ様とならば、わたくしも同士として、ともに戦っていくことができる。そのことに気づいたんです」


 アナベルは、足もとのバケツに差した薔薇を1本取り出すと、テーブルに置いてあった剪定バサミで丁寧に余分な枝葉を切り、棘を落としはじめた。


「地上から《首都こちら》に戻る直前、アドルフ様とドームの外へ出て、本物の蒼穹そらを見てきました。《メガロポリス》で、いつも天井に映し出される映像を見慣れているから、どうということもないだろうと思っていたのに、実際に上空にひろがる無限の姿の下では、ただただ圧倒されて、声も出せなかった……」


 そのときに誓ったんです、とアナベルは言った。自分を天空高き世界へと導き、連れ出してくれたアドルフ・グレンフォードという人間と、一生をともに歩んでいこうと。


「アドルフは、大事にしてくれそうか?」

「生涯変わらず、誠意と信頼を示してくださることは間違いありません。あの方は、そういう方です」


 昂然と頭を反らす彼女は、自信と希望に溢れ、美しかった。


「女はつよいな。君のほうこそ、随分変わった」

「逃がした魚は大きかった――残念に思われまして?」

「ああ、惜しいことをしたとじつに悔やまれるね」

「後悔先に立たず、ですわよ。わたくしは、だれよりわたくしを必要としてくださる方の許へ嫁ぎます。わたくしの手を必要とされない従兄様は、ご自分の道を思うままに、進んでください」


 花嫁になることを夢見、俺を追い慕っていた少女はもういない。


「幸せにな」


 かつて一度口にした祝福の言葉を、今度こそ心からの願いをこめて贈る。

 アナベルは、こぼれるような笑顔でそれに応えた。

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