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 屋敷内の者は皆、すでに寝静まったものと思い、バーカウンターを訪れると、照明を落とした一角でエドワードが独り、グラスを傾けていた。


「眠れないのか?」


 しずかに声をかけ、隣のスツールに腰を下ろすと、エドワードは「兄さんこそ」と応えて笑顔を見せた。


「ずっと病室に詰めてて大丈夫ですか? いまは眠っていることが多いですし、容態が急変する心配もないので、無理せず休めるときは休むようにしてください。僕たちも交替で付き添うようにしますから」

「大丈夫だ。そばにいても、これといってすることもないからな。疲れるようなことはなにもない」

「そんなことはありません。見守るだけの状態がどれだけ疲れるかは、僕らがよく知っています」

「だからこそ、いまは俺がすべきことだろ。これまでずっと任せっきりにしてきたんだから。幸い、体力なら有り余ってる自信がある。おまえたちとは鍛えかたが根本から違うからな」

「軍で鍛え上げてきた人と一緒にしないでください」


 声を立てずに笑って、エドワードはカウンターの裏にまわると、キャビネットの中からグラスを取り出して俺のまえに置いた。


「『ブラッディ・ローズ』でいいですか? お好きだったでしょう?」


 訊かれて、思わず苦笑が漏れる。不思議そうな顔で瞬きをするエドワードに、空のグラスを弄びながら逆に尋ね返した。


「おまえ、この酒が1本――いや、1杯いくらだか知ってるか?」

「え? ブランデーの値段……ですか? さあ、とくにあらためて確認したことはなかったから。色が珍しいので、それなりに高価だろう、くらいの認識しか……」

「だよな。俺もそうだった」


 軽く応じながら、アイスペールを引き寄せて、クリスタルのグラスの中に氷を落とす。エドワードは、そのさまを困惑したように見つめていた。


「べつの酒がいいですか?」

「いや、ひさしぶりにもらおう」


 言って、グラスをエドワードのほうへ滑らせると、自分のまえで器用にそれを受け止めたエドワードは、さまになる仕種しぐさでボトルの中の高貴な液体をグラスへと注ぎ入れた。

 グラス1杯で新兵の初任給が軽く吹っ飛ぶ高級酒。




『バカ、おまえ! たかが酒1杯で今月の給料パーにする気か!?』


 入隊してまもないころ、たまたま居合わせた同期のひとりに止められて、はじめて知った現実。

 ちょっと言ってみたかっただけなのだと、あわててなんとかその場を取り繕い、すぐさまオーダーを取り消したが、内心は到底穏やかではいられなかった。いつも、あたりまえのように好んで飲んでいた酒。その、たった1杯の価値が、それほどのものだと知らずにきた自分に、愕然とせずにはいられなかった。


『おいおい、あんまびっくりさせんなよ。どこの王侯貴族のお坊ちゃまかと思ったぜ。ま、気持ちはわからんでもないけどな。いずれ高級士官にでも出世したあかつきには、俺もぜひ注文してみたいもんだ。一生に一度くらい味わってみたい酒だが、俺たち庶民にゃ、所詮、手の出ねえ銘柄だよ』


 胸を撫で下ろしながら笑われて、一気に冷や汗が噴き出した。

 あのとき、運良くあの場に居合わせたあいつが止めてくれなければ、いったいどうなっていただろうと、その後もときどき思い出しては言いようのない自己嫌悪に陥る、そんな出来事だった。




「――兄さんとまた、こんなふうに一緒に酒が飲める日が来るなんて、思いもしませんでした」


 隣のスツールに座りなおしたエドワードが、自分のグラスのふちを、俺の手にするグラスのそれに軽くあてた。グラス同士のぶつかり合う軽やかな音につづいて、ふたつのグラスそれぞれの氷がささやかな震動でカラリと澄んだ音を立てる。バーのやわらかな照明を受けて、中の深紅の液体が丁寧に磨かれたクリスタル越しにキラキラと反射した。

 深みのある色合いのとろりとした酒が、氷の表面を溶かしながらグラスの中で混じり合い、ゆるやかな流れを作る。


 深紅の貴婦人――ひさしぶりに味わう『ブラッディ・ローズ』は、いまの俺にはどこか馴染まない、よそ行きの味がした。


「戻ってくださったこと、心から感謝しています」


 言われる道理のない感謝の言葉に、俺は居心地の悪い思いで「いや」と応じた。


「勝手な真似をして、すまなかった。――俺を、随分恨んだだろう?」

「いいえ、と答えたら……信じてくれますか?」


 信じるもなにもない。こいつがそう言うのなら、それはまぎれもない真実だろう。それがわかるから、まっすぐな瞳が心に刺さる。答える資格のない俺は、結局黙って、カウンターの上に目線を落とした。


「恨まれて当然。兄さんはそう思われているかもしれません。でも、いいえ、というのが偽りのない答えです」


 エドワードは、独り語りをするようにポツリポツリとした語調で言葉を紡いだ。


「家族の中で、兄さんを恨んだ人間はひとりもいません。兄さんが姿を消した理由は、わかりすぎるほどわかっていたからです。むしろ、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。僕も、アーサー兄さんも」


 いたたまれなさを押し隠すように、琥珀の瞳が伏せられた。


「兄さんひとりにすべてを背負わせて、結局僕たちはなにもすることができなかった。そのことを、どれだけ後悔したかしれません」

「おまえたちが謝ることなんかなにもない。全部俺が勝手に捨てて、自分で背負いきれなかった重荷をアーサーとおまえに押しつけた。それだけのことだ」


 でもそれで、僕たちは救われたんです。エドワードは、押し殺すような声で言った。


「僕たちは、おかげで救われた。兄さんの人生を犠牲にしながら、そのことに感謝してしまう自分が、僕は――そしておそらくはアーサー兄さんも、ずっとゆるせなかった。ずっとずっと、気になってました。どこでどうしているのか、いまごろ、どんなふうに暮らしているのだろう、と。忘れた日など、1日だってなかった」


 グラスの中で、溶けた氷がその身を滑らせ、カラリと透明な壁を叩いた。


「あの日、アナベルの婚約披露も兼ねたグレンフォード財閥新総裁の就任式典で、僕たちは親族専用の控え室にいました。そこで、式典がはじまるのを待っているあいだに事態が急変したんです。最初は、なにが起こっているのかまったくわかりませんでした」



 式典会場となったホテルは、グレンフォード財閥が地上に造り上げた《楽園》と銘打つ施設ごと、ある一団に占拠され、管制下に置かれた。グレンフォード及びシルヴァースタイン両家の親族は、そろって控えの間に閉じこめられ、盛大かつ華やかな祝宴の場となるはずだった大ホールは、騒ぎの首謀者に乗っ取られることになる。そして、数百名にのぼる招待客を人質兼生き証人としながら、彼らを取材し、式典の模様を《メガロポリス》に向けて中継するために集まった報道陣を通じて、とある情報の発信の場として利用される。


 暴かれたのは、世界を統べる栄光の一族が抱える、深く、くらい闇。


 非人道を極めた凄惨な生体実験の数々が人々を震撼させ、恐怖に陥れていく中、法の下に禁じられた遺伝子操作を繰り返し、あらゆる面で人類を超越した新人類を創り上げようとしたグレンフォード一族――否、初代総裁ウィンストン・グレンフォードの真の目論見もくろみがあきらかにされていった。


 それは、造物主の領域を侵さんとする、神への挑戦だった。


 当初、《メガロポリス》管理下で唯一地上に設けられたドーム型都市《旧世界(ガイア)》に派遣された特殊部隊は、その都市の一角、スラム街に潜伏するある人物(・・・・)を保護する目的で編成されたものだった。しかし、さまざまな事情と条件、思惑、状況が重なった結果、軍は騒動の首謀者側と手を結び、グレンフォードの闇を暴く計画に荷担することになる。


 軍が最終的に相手として戦ったのは、グレンフォード系列の生化学研究所で大量生産された、人型の生物兵器だった。

 人間の能力値を遙かに超えた怪物たちを相手に繰り広げた特殊部隊の戦闘風景は、式典会場の中継同様に、首謀者の意図のもと、放送局のメイン・コンピュータを外部操作で電波ジャックすることで《メガロポリス》中にくまなく流された。


 韜晦とうかいしてきた身分を明かし、司法大臣を顎で使って、軍を一時的に私用で動かすべく指揮権を己に移譲させたのは俺である。

 権力に物言わせて派遣部隊を死地に追いやった以上、責任を持って最前線に立ち、みずから陣頭指揮を執った。覚悟のうえの総大将とはいえ、目立つことこのうえなかっただろう。



「中継映像の中に兄さんの姿を見つけたとき、最初は自分の目が信じられませんでした」


 控え室にあったモニターを、他の親族とともに見るとはなしに見ていた中で目にした映像。アーサーとエドワード、どちらが先に気づいたかは不明だったという。


「いつのまにか、僕たちはふたりで画面にかじりつくようにして流れる映像に見入っていました。口を利く余裕もなかったし、だれかがなにか、僕らに向かって話しかけてきたような気もするけど、周りの音なんてなにも聞こえなかった」


 雲隠れしたはずの人間が、画面の中で死闘を繰り広げ、凄惨な殺し合いをリアルタイムで展開していくさまは、衝撃以外のなにものでもなかったに違いない。


「親族が集まった席で、随分肩身の狭い思いをさせただろうな」

「とんでもない」


 こちらの意に反して、エドワードは言下に否定した。


「あんなに嬉しくて、誇らしかったことはありません」


 あの瞬間を思い出しているかのように、宙を見やる琥珀の瞳が輝いた。


「素人目に見ても、軍の兵士たちがあの怪物集団相手にかなりの苦戦を強いられているのは一目瞭然でした。そんな中で、兄さんの動きはひとり、際立っていた。あんなにも鮮やかで、見事で、抜群の戦闘力と存在感を示す人が自分の兄なのだと、僕は見ているだけで胸が高鳴った。世界中の人々がおなじ映像を目にしていることが、すごく、誇らしかったんです」

「威張れるようなことはなにもない。やってることは、ただの人殺しだ」

「兄さんたちがあそこでくい止めなければ、もっともっと甚大な被害が出ていた。それぐらい、僕にだってわかります」


 エドワードの言葉に、俺は黙って肩を竦めた。

 軍の請け負う仕事を、正義だと自分の中で正当化したことは一度もない。どんな理由であれ、生命を金稼ぎの道具にしていることに変わりはないからだ。正当化もしないが、だからといってむやみに卑下して卑屈に思うこともない。ただ、自分が果たすべき義務を、地位と報酬に見合ったぶんだけ果たす、それだけのことだった。


「軍に残らなくて、よかったんですか?」


 いまさらな質問に、口許に運びかけたグラスが途中で止まる。だが、エドワードは至極真剣だった。


「残ったところで、いまさらあの場所で俺がすべきことはないだろう?」

「そうでしょうか? それはひょっとして、軍での兄さんの立場が、『ラルフ・J・シルヴァースタイン』になってしまったからですか?」

「まあ、そんなところだな。シルヴァースタインは、申し訳ないが俺には重すぎる」

「残念でしたね。あんなにも兄さんが自由でいられる場所だったのに……」


 その言いかたが心底残念そうで、思わず苦笑が漏れた。ボトルを引き寄せて、それぞれのグラスに酒をぎ足す。エドワードは、黙ってそれを口に運んだ。


「不謹慎かもしれないけど、兄さんの軍服姿、いままでのどんな正装より似合ってました」

「ついでにガラも悪くなってて驚いただろう?」

「たしかに。あまりに板につきすぎてて、正直あれには参りました」


 どちらからともなくグラスを煽って、度数の高いアルコールを一気に飲み干す。そして、笑った。


「どこに行っても、俺は俺だよ。シルヴァースタインの名前が出ることで、周囲の俺を見る目や態度が変わったとしても、変わるのは周囲であって俺じゃない。家を出て、ようやくそのことに気がついた。心配しなくとも、俺はどこででもやっていける」


 特殊部隊の軍人であったなら、到底手の出ない高級酒をふたたび惜しげもなくグラスに注ぎ入れながら、気負いのない、率直な思いを口にした。


 軍への未練が、正直まったくなかったわけではない。カシム・ザイアッドのままでいられたならば、おそらくはなにくわぬ顔でそのまま在籍しつづけただろう。だが、それこそいまさらな話で、起きたことは、もうなかったことにはできなかった。

 これまで積み上げてきた自分をブレない軸に据えて、まえに進んでいけばいい。ただ、それだけのことだった。


「すみません、兄さん。そんなに長くお引き留めすることは、ないと思いますから……」


 アルコールで溶けた氷が、ふたたびクリスタルの表面にあたって渇いた音を立てた。

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