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 家を出た俺が軍に入隊したのは、殊更深い意味や尊い志があったからというわけではない。親父がひそかに手配するであろう捜索の手が伸びて足がつくまえに、一刻も早く自分の痕跡を消してしまいたかった。ただそれだけだった。

 司法省の管轄に属す組織でありながら、《公安特殊部隊》は、存在それ自体が国家機密に類する非公式の団体であり、その内情のことごとくが闇に包まれていたため、身を隠すにはちょうどいい場所だったのだ。


 折よく新規隊員募集の時期にぶつかり、願書提出後に入隊試験と検査を受けて合格。難なく組織の最下級に組みこまれ、カシム・ザイアッド二等兵として新たなスタートを切ることになった。


 願書提出時に添えたIDチップのデータの写しは、かつて実母とともに暮らしていたときに使用していたものに手を加え、闇で流れている実用可能な市民登録ナンバーを買い取って偽造しておいたものだった。

 学生時代からすでに準備してあったそれは、あくまで万一の場合に備えてという、軽い心づもりから用意したもので、造った時点では、いつかこんなふうに実際に使用する日が来るなど、思いもしていなかった。だが、自分にとっての保険のようなつもりで、シルヴァースタインの名を捨てたもうひとつのIDを事前に用意していたことが、このときの俺の失踪を、より完璧に、そして容易にしたのだった。


 もしIDを偽造したのが家を出る直前であったなら、捜索過程ですぐに調べがつき、簡単に足取りも掴まれて家に連れ戻されていただろう。

 シルヴァースタインの力を使えば、失踪した人間ひとりを見つけ出すぐらいわけもないことである。だが、逃げこんだ場所が一般には隠匿されている組織だったことと、偽造IDによって人定が巧みに誤魔化せたこと、そのIDチップの偽造時期が何年もまえに遡らなければならなかったことにより、うまく時間稼ぎをすることができた。


 シルヴァースタイン家の次男坊が家出をした。


 もともとが庶子であることで、上流社会ではなにかと好奇の視線を集めていた存在である。物好きにもその庶子をわざわざ手もとに引き取り、本妻に育てさせた、ということで、噂好きの暇をもてあましたマダムたちは、つねに新しい火種になりそうな問題は起こらないものかと意地の悪い目を向けていたから、話がひろまるのは早かった。


 親父が実際に俺の居場所をつきとめたのか、それともつきとめるまえに諦めたのかはさだかではない。だが、いずれにせよシルヴァースタイン家にとって体裁が悪いことこのうえない風聞が知れわたったあとでは、次期頭首候補者を変更せざるを得なくなった。

 結果、ラルフ・J・シルヴァースタインは、家名に泥を塗った恥さらし者として、表向き、その存在を抹消され、社交界からは完全に姿を消した。






 軍に入隊してから日常生活に慣れるまでの日々は、とにかく苦労の連続だった。

 新隊員は規定により、《特殊部隊》専用の隊員寮に放りこまれ、そこでいっせいに集団生活をスタートさせる。

 それなりの社会性は自分も身につけてきたつもりでいたが、ひろくもない部屋に、強制的に割り振られた同期生、3、4人ずつで詰めこまれ、風呂もトイレも共同、食事も寮内か軍の施設内の食堂という、絶えず他人の気配や存在が周囲にある環境に慣れるには、かなりの時間と割り切りが必要だった。

 独りになれる時間と場所がない、というのが、こんなにも精神的にきつく、息の詰まるものだとは正直思ってもみなかった。


 さらにこの集団生活で戸惑ったのが、自分にとっての常識と他の人間にとっての常識に、格段に差異があったことである。というよりも、俺がこれまで常識と思ってきたことの大半は、一般的に見て『あたりまえ』ではなく、逆に他の人間にとってはごくあたりまえのことが、俺にとってはまったく未知の、対応に困ることばかりだったのだ。

『普通に暮らしている』と思っていた自分が、いかに特殊な世界で、特別な待遇を享受して生きてきたか、恥ずかしながら、27にしてはじめて思い知らされることになる。


 あいつは変わっている。


 集団の中に入りこめば簡単に溶けこめると、なんの根拠もなく高をくくり、持っていたはずの自信は、ほんのわずかな期間で現実に直面するとともに無惨に打ち壊された。


 のちに『カシム・ザイアッド』の名は、軍内における異端児の代名詞となるが、当初の意図――集団生活に溶けこもうと、自分なりに努力もしたのだ――に反して、俺は早々に枠からはみ出し、孤立していくことになる。

 なかには少しでも輪に溶けこませようと心を砕き、気にかけてくれる面倒見のいい奴もいたが、いつボロを出すともしれない危険の中では、腹蔵なく腹を割って付き合うなど、どだい無理な話で、結局自分から一線を置き、あたりさわりのない関係に抑えるしかなかった。鬱屈したものを抱える精神状態で、他人と関わって余計な気を遣うのが煩わしかったのも事実である。

 畢竟ひっきょう、俺は軍という協調性と周囲との和が求められる組織の中で、一匹狼の立場を標榜し、みずから進んで孤立を深めていくことになる。

 周囲の連中からしたら、扱いづらいことこのうえなかっただろう。


 兵士として最低限の基礎体力をつけ、技術を身につけるための訓練は、想像以上に過酷で容赦のないものだったが、上官たちのシゴキは、それゆえ煩わしい雑念やしがらみ、人間関係から解放されるのに、じつに都合のいい逃げ場所だった。

 体力作りのトレーニング中に、何度ムチャをしすぎて嘔吐し、あるいは意識を失って医務室に担ぎこまれたかしれない。

 限界を超えてなお、上官たちに厳しく煽られ、さらにはみずから鞭打つ不条理な特訓の日々は、すべてを忘れてひとつのことに没頭するのに最適の環境だった。

 同期の連中が、鬼教官の目を盗んでトレーニングの手を抜き、あるいはきつすぎる訓練に耐えきれず、次々と脱落していく中で、俺はひたすら己とだけ向き合い、限界を超えた先まで自分を追いつめて、無我の境地へ追いやることに没頭した。


『なにをそんなに生き急いでるね、若いの』


 休憩時間も関係なく、ひとり寸暇を惜しんでトレーニングに励む俺に、あるとき、そんなふうに声をかけてきた清掃員がいた。

 返事をすることさえできず、ただ、荒い呼吸を繰り返しながら見返した俺に、清掃員は無言でミネラル・ウォーターを差し出した。

 動きを止めたことで全身から一気に汗が噴き出し、磨いたばかりの床を大量に濡らした。しかし、初老のその男は、とくに気にした様子もなく、手にしたモップを杖代わりに、受け取った水を俺が飲み干すまでのあいだ、のほほんとした表情でもたれかかっていた。そして、空になったボトルを黙って引き取ると、わずかに足を引きずりながら去っていった。


 その清掃員が特殊部隊の元兵士だったことを知ったのは、それより少しあとになってからのことである。

 戦闘中に飛んできた手榴弾に運悪く左足を吹き飛ばされ、現役を退いたのだそうだ。


 俺のどこを気に入ったのか、単独でこなすトレーニング中にかぎって時折姿を見せ、ミネラル・ウォーターを差し出すか、あるいは束の間、人が汗だくになって自分を痛めつけている姿を見学しては去っていく。その合間に、ほんのひと言ふた言交わした、短い会話の中で聞いた話だった。


『まあ、いまはいい義足があるからね。激しい運動はアレだけど、日常生活にゃなんの支障もないし、サウナ行ったって、まずまずこの足が造りモンだと気づかれるこたぁないやね。ありがたい相棒だよ。ただし、いいモンだけに維持費がバカにならんのが玉に瑕よ』


 男はそう言って、やはりのんびりと笑った。

 精密機器なだけに、メンテナンス費用がかかる。任務遂行時の負傷ということで、自己負担額はさほどでもないが、それでも定期的に出費することになるのでなにかと大変なのだ、と男は言った。


 その清掃員と顔を合わせた期間は、さして長いものではなかった。ほんの2、3ヶ月といったところか。その間に話をしたのは――といっても、一方的に向こうから近づいてきて、好きなことを勝手に話していくだけだったが――わずか数回。

 入隊してからちょうど3ヶ月目に出動命令が下り、俺は実戦部隊のひとつに配属された。

 ある人権活動家を狙ったテロ集団のアジトに侵入し、秘密裡に組織を覆滅させる。それが、公安特殊部隊員としての最初のミッションだった。


 その後、さまざまな現場に出向いて場数を踏み、相応の危険――それこそ死を覚悟するようなきわどい目にも数え切れないほど遭ったいまだからはっきり言える。はじめて実戦を踏んだあの任務は、公安が処理する案件の中でもかなり楽な部類に入る、じつに他愛ない仕事だった。だが、俺の配属された部隊の指揮官は、たまたまどうにもならないぼんくらエリート将校で、突入した直後に怖くなり、部下を見捨てて、さっさと自分だけ安全な場所まで退避してしまった。


 指揮官不在の現場で統制がとれなくなった部隊はバラバラになり、ほぼ自滅状態。

 上からの指示がなにもないというのなら、自力で生き延びるしかなかった。そしてその結果、俺は上の連中を差し置いてなかなか優秀な戦績を単独で収めてしまい、あっさり昇進。早々に新兵ではなくなったがゆえに、新隊員専用のトレーニング・ルームを使用することもなくなって、あの清掃員ともそれっきり、会うこともなかった。

 いまはもう、顔もはっきりとは憶えていない。


『なあ、若いの、そんなにあわてなさんな。生きとし生けるものには、いずれ平等にお迎えがくる。いまはきつく思えることも、いつか必ずたいしたことはなかったと笑える日がくるもんだ』


 敵味方入り交じって恐慌状態に陥った現場で、俺が仕留めたテロリストの数は3人。

 自分がいつられるともしれない極限の中、はじめて生きた人間をこの手でほふったあの瞬間の感触を、俺は一生忘れることはないだろう。


 もう、後戻りはできない――


 自分が、他人の生命を喰いものにして生きる仕事を選んだのだということを、まざまざと思い知らされた瞬間だった。


『人生はたった一度きり。羽目をはずしすぎるくらいでちょうどいい。おなじ時間を過ごすなら、楽しんでおかにゃあ損をするってもんだ』


 辺りに充満する硝煙と血の臭い、眩むような他人の生命にまみれながら、俺は何度もそのとおりだと思った。


『なあ、若いの、人生は、そう捨てたもんでもないぞ……』


 互いの名前さえ知らぬまま、人生のほんの一瞬だけ触れ合った、そんな縁だった。

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