その後のお話(2)
― 3.赤い音 ―
すだちは中学三年生になるまで、神社の裏にある道場で薙刀を習っていた。
合気道か薙刀のどちらかを選べと父に言われ、薙刀を選んだ。
特に理由は無かったが、漠然と姉を護らなければという使命感みたいなものがあったのだと思う。
合気道では、自身を護れても姉は護れない。
ところが、父が連れて来た薙刀の師範ときたら、まるきり体育会系で、とことん基礎から鍛え抜かれた。
おかげで足腰は人一倍強くなったと自覚している。
神社の階段を三段飛ばしで駆け下りながら、夾竹桃への道のりを遡っていくと、途中で児童の下校を知らせる放送が鳴り響いた。
もの悲しい曲につられて空を見上げると、すっかり茜色に染まっていた。
「おお、記録更新」
全力疾走で走り抜けたおかげで、信号にも引っかからず夾竹桃へ辿り着く事ができた。
十五分は、これまでの最短記録である。
ハンカチで額の汗を拭いつつ、夾竹桃の扉を開けた。
「ちはー。おじさん、忘れ物しちゃ…った…」
すだちの目に飛び込んできたのは、薄暗く、がらんとした店内だった。
いつもなら買い物帰りの主婦や、女子生徒で賑わっているはずなのだが、顧客はおろか店員さえ見あたらなかった。
「あれ、もうお店閉めちゃってたっけ?」
ひょいと外に出て店の扉を確認するが、開店中のままだ。
用事で外に出ているのかとも思ったが、真面目なあの店主が、店をほったらかしにしたまま出かけるとも考えづらい。
すだちは、窓から差し込む赤い陽の光に照らされて、床一面赤く染め上げられている中へと足を踏み入れながら大声で店主を呼び出した。
「っかしいなぁ。おじさーん、忘れ物取りにきたんだけどー」
相変わらず、返事は無い。
奥を覗き込もうとカウンターに手を突いた時、ベチャッと水に濡れた感触があった。
綺麗好きの店主がカウンターを汚したままなんて珍しいなと首を傾げつつ、何気なく手の平を見た瞬間凍り付いてしまった。
手の平が真っ赤に染まっている。
いや、これは夕陽が差し込んで赤く見えているだけだと思い直し、振るえる手を近づけてみると、鉄の匂いがした。
心臓がドクンと跳ねる。
「なに…これ」
グルリと周りを見回すが、特に変わった様子は無かった。
きっと店主が怪我をしたかなにかで、救急車でも呼ばれたのだろう。
そうに違いないと自分に言い聞かせ、踵を返そうとしたすだちの耳に、ペチャという音が聞こえてきた。
同時に腐臭が漂ってくると、音はどんどん大きくなり、ベチャ、グチャ、と何かを咀嚼するような音も混じりはじめる。
カウンターの奥に、誰かが居る。
「ひっ」
小さな悲鳴とともに、ガタンと大きな音が鳴った。
床に置いてあった子供用の踏み台を蹴ってしまったのだ。
慌てて押さえ、周りを伺うと、シンとした静けさが戻って来た。
ホッとため息をついたのも束の間、それがおかしい事に気がつく。
咀嚼音もまた、消えていたからだ。
青ざめるすだちの耳に、新たな音が聞こえ始めた。
ずる、ぺた。ずる、ずる、ぺた。
重い物をひきずりながら歩く音が、カウンターの奥から聞こえてくる。
それは暫く続き、そしてふいに止んだ。
すだちの膝はガクガクと震え、恐怖のあまり今にも倒れそうだというのに、カウンターから目を離すことが出来ない。
ソレはゆっくりとカウンターの奥から顔を出した。
真っ赤に染まった口は顎まで開き、角と牙を生やした鬼のような女が立っている。
その顔は、何故か狂気ともいえる笑みを浮かべていた。
「ひゅっ…」
か細い呼吸へ反応するかのように、その鬼は自分の右手を見下ろし、そして顔の横に持ち上げてニィと笑った。
手にしているのは、子供の頭だった。
そして突然、すだちの肩が叩かれた。
「いやあああ!!」
絶叫を上げたすだちの目に、来店客で賑わう夾竹桃の日常風景が広がっていた。
朗らかな昼下がり、買い物帰りの主婦と子供がお買い得になった和菓子を楽しそうに選んでいる。
ただ、いつもと違うのは、皆がすだちに注目している所だった。
「あ、あれ…?」
動揺するすだちの背後から、聞き慣れた親友の、非難する声が飛んできた。
「もう、すーちゃんたら何て声だすのよ」
両耳を手で押さえ、眉間に皺を寄せた華子だった。
「肩叩いたぐらいで、オバケでも出たみたいに」
「は、華子?いいいいや、だっていま、そこにおば、おば」
「おばさん?おじさんの間違いでしょ」
すだちが指さした先には、これまた目を丸くして驚く店主がいた。
忘れたカードを手渡そうとして、固まってしまったようだ。
「すーちゃんの目的ってあのカードでしょ、早く返して貰って出ようよ。ちょっと恥ずかしい」
華子が顔を赤らめるほど、今店内の視線は二人に集まっている。
慌てて店主にお礼を言ってカードを受け取ると、足早に夾竹桃を出た。
とにかく一度落ち着こうと、公園のベンチに腰掛けると、華子が買って来たミネラルウォーターを有り難く頂くことにする。
「一体どうしたの? すーちゃんが慌てて夾竹桃に駆け込んでいくの見て追っかけてみたら、なんか突然ボーッと突っ立ってるし、肩叩いただけで悲鳴上げるし」
「ととと、とりあえず、おち落ち着こう華子」
「落ち着くのはすーちゃんの方だって」
グビリと水を飲み干してひと息つくと、また震えがやって来た。
思わず華子の手にしがみつく。
「す、すーちゃん?」
「華子ごめん、どうしよう私怖い、助けて」
「まず、深呼吸だよ、すーちゃん」
すだちは、華子に言われた通りゆっくりと深呼吸を繰り返すと、少し落ち着きを取り戻し、ぽつりぽつりと体験したことを語り始めた。
忘れ物に気がついて全力で夾竹桃に戻ったこと、来てみたら誰も居ない薄暗い店内だったこと、赤い液体、不気味な咀嚼音、そして笑みを貼り付けた般若のような女。
そこまで思い出したところでまた恐慌状態になりそうだったので、華子は背中をさすって話を中断させた。
「大体わかった。とにかく急がなくちゃいけないって事は」
「急ぐ?急いで帰るって事?でも怖いから、お父さんに電話して迎えに来て貰うよ」
「ううん、そうじゃないの」
華子はニッコリと笑ってすだちの横に座り直す。
ちょっと距離が近い気もするが、今のすだちには逆に安心できるので有り難かった。
「私ね、すーちゃんと出会った時から、ずっーと待ってたの」
「何を?」
「だってすーちゃんって、いつもお姉さんの事ばっかりでしょ?遠出も出来ないし、遅くまで遊ぶことも出来ないし、なんでも自分で出来て、誰も頼らない。ちょっと寂しかったんだ」
「まあそれは、ごめん」
「でもいいの、今すーちゃんは私を頼ってくれたでしょ」
華子の顔が近づいてくる。
同性とはいえ、愛らしい華子の顔が近づいてくると少し照れてしまう。
「華子、近いって」
「駄目、もう逃がさない。これまでちょっとずつ貰ってきたけど…急がないと」
「何の事よ」
「すーちゃんが扉を開いちゃったから…このままじゃ危ないもの。横取りされるくらいなら、私が」
「華子!?」
目の前で華子の姿がみるみる変わっていく。
といっても、顔立ちは華子そのものだ。違うのは和服を纏っているところだろうか。背も少し伸びていて、可愛いというより美人に近い。
「うそ、でしょ」
「嘘じゃ無いよ。私はすーちゃんが好きだった。だからずっと一緒に居られるように、妖から遠ざけていたはずなのに…どうして」
「私、知らないよ、何もしてないもん!」
ベンチから逃げだそうとするが、まるで風邪をひいた時のように全身の力が抜けてしまっている。
華子はすだちにしなだれかかり、時々身もだえていた。
「ああ、やっぱり極上の味がする。すーちゃんは、最高だよ。安心して、私も直ぐに後を追うから」
「ば、馬鹿言ってんじゃないわよ」
必死に腕を振り回してベンチから転げ落ちるが、華子が馬乗りになり、両手を押さえてしまった。
「すーちゃんが見たアレはね、笑い般若って言うの」
「わ、わらい?」
「とても恐ろしい妖で、私なんかじゃとても叶わない。それに一度目を付けられるとしつこく追ってくる。だから、ね。あんなのに殺されてしまうなら、私と逝こう?」
「ななな、なんでそれしか選択肢がないの」
喚いて暴れてみるが、華奢なはずの華子の手は万力のように強く、ビクともしない。
そうこうするうちに、華子の唇が近づいてきた。
「か、考え直そう、華子」
「無理、もう我慢出来ない」
「やあああ!」
すだちが叫んだその時、低く良く通る男の声が聞こえてきた。
「雪すさぶ凍土の姫、繰妖寒をもってかの妖力を凍らしめよ、そうあれかし」




