二話 壁と少女の偏愛(1)
― 1.ゆずのてれ ―
骨董店『空や』では、夭夭が朝から慌ただしく動き回っていた。久しぶりの開店にむけ、店内の掃除や商品の確認に追われている。
ゆずの逆鱗に触れ、滅茶苦茶にされた店内の装飾を復旧するのに三日、商品を仕入れ直すのに一週間かかった。それでもまだ壁の一部は大きくえぐられたままで、完全に改修が終わったとは言えないのだが、これ以上休業していると生活が困窮してしまう。
やむなく開店する事になったというわけである。
「何が『というわけである』です。どうせ『空や』の売り上げなんてわずかじゃないですか」
「ゆずさん、酷い」
埃っぽくなった店内を避けるように神棚で丸くなっていたゆずが、するりと肩に降りてきた。いまだに機嫌はよろしくない、らしい。
「だって先月の売り上げは、意味不明な亀の香炉一つですよ。どう考えても解師の方が儲けが大きいわけですから、誰が見ても解師が本業、骨董店は趣味の副業です」
「あ、相変わらずエグってきますね」
「真実は、いつもほろ苦いのです」
くふわぁと欠伸をする姿は、いつ見ても愛嬌がある。正面からみるとひし形、横から見ると三角形、それはそれは見事な造形美である。泣き黒子はキュートだし、こぼれ落ちる涙も夭夭の心を捉えて放さない。
柚子湯の一件以来、距離を置かれてしまい、夭夭の中でゆずエキスが不足していたのが良くなかった。気が付けば、抱きしめて頬ずりしていた。
「あ」
「…」
ぱしっ
鋭く振り抜かれた前足によって、夭夭の首はあらぬ方向へと曲がった。
店主が突然怪我したことで、さらに三日を延期して営業再開した『空や』は、馴染み客で賑わっていた。珍しく忙しそうに動き回る夭夭だったが、それでも黄昏時になれば人がまばらになり、日が落ちると普段の落ち着きを取り戻し始めた。
ほうじ茶を入れて一服しようかとカウンターを立った時、扉の方から冷気と共に来客を告げる鈴が鳴った。
「よー、久しぶ…うわ、さっびぃなおい!」
饅頭屋『夾竹桃』の六が、勝手に看板をひっくり返して閉店にしながら入ってきた。雪こそ降っていないものの、外はまだ寒風吹きすさぶ真冬の空模様だというのに、『空や』では暖房が使われていない。
「何でぇ、ストーブつけろよ、夭ちゃん」
「いま、貧乏なんですよね」
「おいおい、鬼女の件でたんまり稼いだろうが」
「夭夭さんたら、全部女に貢いじゃったんです」
「ゆずさん、真実に嘘を混ぜて話さないで下さい」
確かに、手に入れた報酬のうち半分は木の葉の再出発のために使ったが、残る半分はゆずが破壊した『空や』の修繕費に消えたのだ。断じて貢いではいない。
「仕方ねぇなあ。我慢すっから、何か暖かいもんくれよ」
「何という傲慢不遜な老人でしょう」
「あ、仕事いらんのかい?」
「そういえば、丁度美味しい煎茶が手には入ったんです。忘れてました」
いそいそと茶を煎れに席を立った夭夭を見送ると、六はカウンターで丸くなったゆずに話しかけた。
「ゆずちゃんよお、あんまり夭ちゃんを苛めないでくれよな」
「いじめてなんか、いませんn」
「殺しても死なないような奴だけどよ、あんたにだけは弱いんだからさ」
「そんなこと無いですよ。この前だって騙されましたし」
「柚子湯の事だろ?けど、『空や』の柚子は一日一つしか食えないってのは、あんたの方がよーく知ってんじゃないのかい」
「…」
『空や』の柚子は一日に一つまで。それは命婦と呼ばれる稲荷狐にも代々伝えられてきた最重要事項だ。以前、長山に盗まれて食べられなかった時に二つ目の柚子を採ってもらった事はあるが、あくまでもその日に食したのは一つだけだ。
柚子湯に入れる程度なら問題は無いのだが、あの時は久し振りの柚子湯に浮かれすぎて、浮かんだ柚子を食べてしまった。朝に『空や』の柚子を食べた事などすっかり失念していたのだ。本来ならば柚子をすり替えていた夭夭に感謝しなければいけないところだった。
おそらく夭夭はそれがわかっていて、あえてゆずの癇癪を受け入れている。
「そんな事、わかってます。わかってますけど…」
「別に謝らなくてもいいけどな」
「え」
「無理して謝っても戸惑うだけだよ。思い切り甘えてやんな。夭ちゃんの場合はそれが一番喜ぶ」
「そう?」
「間違いねえよ」
六は皺だらけの目を細め、愉しそうに言った。
ゆずは、こうして六から人間界の事を学ぶ事が良くある。それは人の風俗であったり生活習慣であったり、実に様々なのだが、どれも六独特の解釈で語られるので、非常に面白い。
もっとも夭夭にはそれが面白くないらしく、六がゆずに話しかけようとすると大抵邪魔をするのだが。
「でも夭夭さん、怒ってるかも」
「とんでもない。怒ってないね、賭けてもいい。あの日、ゆずちゃんが怒って帰ってこなかっただろ。そしたら夭ちゃんのやつ、暗くなった部屋の真ん中で呆然とした顔で、寂しいって涙流してやがったんだぜ」
「ほんとですか?」
「嘘ですよ。寂しくて泣いたんじゃなく、修復費用の事を考えて涙を流してたんです」
「あ、夭夭さん」
煎茶と共に柚子羊羹を持って戻って来た夭夭に、六は舌打ちで返す。
「夭ちゃん、おかめ屋の羊羹出すたあ、何の嫌がらせだ」
「あれ、商売敵でしたっけ?ハハハ、これは気付きませんでした」
「嘘つけ」
「ここには嘘つきな方ばかりいますから、私も真似してみただけですよ」
ニコニコしながら、接客用の小さなテーブルに羊羹を煎茶を置く。
夭夭は静かに怒りを溜めていくタイプだった。
しかし六もまた、細かい事は気にしないタイプである。少しも堪えている様子はなかった。
「相変わらず夭ちゃんは食えないねぇ、まあいいや。それで今日の話だがよ、夭ちゃんも知ってる話なんだわ」
「珍しい、六さんの手持ち案件なんてそう多くは無いのに」
「さる令嬢の遺骨を、拾ってくるだけの簡単なお仕事だよ」
「令嬢の遺骨って…まさか」
「そう、そのまさかだよ。『朱鷺の壁』が解禁になった」
「しかし、あれは」
「俺は夭ちゃんに行ってもらいたいんだ」
いつになく真剣な顔をする六に、夭夭も居住まいを正した。
ゆずは『朱鷺の壁』というものがどんなものか知らないが、茶化す雰囲気でない事だけはわかったので大人しく話を聞くことにした。
「わかりました。でも3年も前のことですし、一度話を整理しませんか。それから決めます」
「それもそうだな。ゆずちゃんは知らねぇだろうし、よし順を追って話すとするか。どうしようも無い馬鹿ばっか出てくる話だけどな」
ゆずには、努めて明るく話そうとする六の身体が、とても小さくみえた。
気がつけば、いつの間にかストーブに火を入れ、膝掛けを持って夭夭が席に戻ってきていた。ゆずを膝に乗せようとしたので、するっとその手をすり抜けて首に巻き付いた。
ゆずが屋内で巻き付いてくることは、ほとんど無い。あるとすれば、警戒しているか単純に甘えているかのどちらかだ。
「ゆずさん?」
どちらだろうと訝しむ夭夭を余所に、ゆずは目を瞑ったまま素知らぬ顔で六の話を聞くのだった。
― 2.壁の春 ―
もともとは、随分古ぼけた豪族の屋敷にあった壁なんだよ。ある時、奇特な金持ち三条ってのがその屋敷を買い取って改装したんだが、辛気くせぇ壁を艶やかにしろって注文したのが始まりだって話だ。
そんじゃあひとつ絵でも描くかって事になったんだが、施主が壁は小手塗りじゃなきゃダメだって我が儘言いやがる。小手絵が出来る左官ってな少なくてよ、ようやく見つけた奴あ、ちと曰く付きの男だったんだが腕は確かだってんで、結局雇われる事になっちまった。まあこれが悲劇の始まりってわけだ。
どんな悲劇かって?そう焦るなよ、物事には順序ってもんが…ああわかったって手短に話しゃいいんだろ、まったく年寄りの楽しみを奪いやがって。
なんだかんだで、その男は見事な朱い鷺の小手絵を仕上げた。んだよ、端折りすぎだて?我が儘だな、お前ら。いいから黙って聞けや。朱砂で描かれたそれは『朱鷺の壁』と通り名前がつくほどの見事な出来映えだったんだが、不幸なことに制作者の男は人間じゃなかった。小手絵のかかれた壁は、妖力がたっぷり塗り込められて妖になっちまったんだよ。
最初に気が付いたのは、当時の解師正四位の掛水サナ江って女でな、問題が起こる前に壁を破壊するよう、三条に進言したわけだ。ところが、小手絵は出来が良すぎた。評判が評判を呼んで、国中からひっきりなしに訪問客が来る『金のなる木』になっちまった。
そんな宝物を三条が簡単に手放すわきゃねえわな。解師達の度重なる進言を無視し続けた三条は、ある時悲劇を招いちまうんだ。
慌てた三条は解師達に泣きついたわけだが、解師達の間では身から出た錆だと誰も相手にしなかった。
当然だろ、あれだけ警告したのに無視したわけだからよ。解師達にも面子ってもんがあるわな。
けど掛水本人は、その話を無視できなかったみてぇでな。あいつには正四位なんて地位も面子も関係なかった。解決に名乗り出たんだよ。
ん?ああ、悲劇の内容ね、今説明するよ。
それ自体はよくある人間と妖の愛憎劇よ。ただ三条の一人娘は、春菜っていう九歳の女の子で相手が『壁』だってのが異常だっただけでな。
春菜ちゃんは親に似ず、お日様みてぇに明るくまっすぐな女の子だったそうだ。けど金儲けに忙しい親は、世話を女中に任せきりで禄に構ってやらなかったらしいな。母親?小さい頃に死別したらしいぜ。そのせいか、春菜ちゃんはいっつも寂しそうにしてたらしい。そりゃまあ九歳の子供には、うなる程の金よりも愛情の方が欲しいわな。
そんな心の隙間を、朱鷺の壁に埋められちまった。
最初は美しい壁に見とれる観客の一人でしかなかったんだが、毎晩訪問客が去った夜に壁の前に座って壁に話しかけてたら、ある時壁が話しかけてきた。
『ハル、カナシイ、ナゼ』
初めはびっくりしたらしいが、春ちゃんは怖がらなかったらしい。それどころか、寂しさを紛らわすために毎晩壁のもとに通い、『春』『カベさん』と呼び合う仲になったらしい。
そうして最初は片言しか話せなかったカベも、一月が過ぎる頃にはすっかり人語を解するようになっちまった。勤勉な妖ってのも気持ち悪いもんだ。
そんな風に春菜ちゃんと壁が仲良くなっていった頃のある晩、女中の一人が二人の会話を聞いちまう。驚いた女中が主人に報告し、三条は困惑した。真偽のほどを確かめてみると確かに娘が壁と仲良く会話をしているという報告があがってくる。
流石にこれは不味いと思った主人は、散々悩んだあげく娘には内緒で壁を壊す事に決めたんだそうだ。悩むって時点で馬鹿だと思うがなぁ。
ところがだ、お喋りな女中はその事が春菜ちゃん話ちまった。全く残酷なもんよ、初め心を許せる親友が出来たってのに、そいつを親の勝手で壊すってんだからよ。
すぐにカベと引き離された春菜ちゃんだったけどな、ある晩監視の目を盗んでカベに会いに行って、涙ながらに事情を説明した。
カベは自分が春ちゃんの迷惑になるならと、身を引こうとしたんだが、春ちゃんは頑として譲らない。
『春、心配するな。たとえ壊されても俺達の心はいつも一緒だ』
『いやだ、カベさんが壊されるなんて、ぜったいイヤ!おとうさんは春菜のことなんて、ちっともわかってない。もういいの、私もカベさんと一緒に死ぬ』
女の子ってな、男と違って成長が早いんだな。壁の取り壊しが正式に決定するやいなや、春ちゃんは心中を決意したんだ。九歳だぞ、全く女ってのは恐ろしいわ。
こうして春ちゃんはカベの描かれた建物に立て籠もった。カベと心中するにも、飛び降りるわけにゃいかんし、割腹なんか出来そうにない。そこで立て籠もっての餓死ってやつを選んだ。命が尽きるまでカベに守ってもらい、そのあとはカベも抵抗をやめて壊される、こんな計画だった。
カベは強かった。こいつを描いた左官はどんな妖が化けてたのか知らんがな、圧倒的な妖力で解体にくる人間たちを次々に撃退していったのよ。なんつっても、炎をまとった朱色の鷺が飛び出してきて、襲ってくるのが何より怖い。こいつの炎は水をぶっかけても消えねえんだ。何人もの使用人や腕自慢が撃退されていったらしい。
そのうち誰も怖がって壁に近づかなくなり、為すすべもなく時間だけが過ぎていく。ここに至ってようやく三条は解師に泣きつき、最終的に掛水が解決を請け負ったってわけさ。つながったかい?
そうだなあ、掛水の能力を考えると無理な仕事ってわけじゃなかった。あいつは掛け値なしに正四位としての実力があったからよ。あ?うるせぇな手前味噌だよ悪ぃか。まあなんだ、掛水は正当派で、当時の実質最高位解師だったわけだ。ああ、正三位から上はジジイ専用の名誉職なんでね。
そんな掛水なら、壁一つ退治するくらい簡単なように思えるだろう?その通りだよ、あっという間に朱鷺を封じ込め、あとはカベを破壊するだけというところまできて、何をトチ狂ったのか、三条が掛水とカベの間に割って入った。この野郎、土下座して何ていったと思う?
『なんとか朱鷺の絵だけでも残せないか、いや、壊すな!これは金を生む壁なんだ、こいつがないと儂は…とにかく、娘の事はこの際どうでもいい、小手絵だけは残してくれ!』
ああそうだよ、さすがの掛水も呆れて一瞬三条に気を取られちまった。そのせいで、壁が全面真っ朱に染まっていくのが見えなかった。気づいた時には、もう遅かったんだ。
カベの怒りに震えた咆哮とともに巨大な口がポッカリ空いたかと思うと、そこから伸びてきた舌が三条をからめ取って一瞬で呑み込んじまった。
あっという間だったそうだ。バリ、ボリと咀嚼音がする間、その場の誰もが動けなかった。やがて咀嚼音が消え、プッと吐き出された三条の亡骸を見た誰かが上げた悲鳴で、掛水が我に返った。
ところで、人間を喰った妖が、とんでもなく強くなるって事はよく知ってるだろ?この前、長山邸で身を持って体験したもんな。なんだよ、俺だって旦那の方が鬼だと思ってたんだよ、わざとじゃねえって、根に持つなあ夭ちゃんは。
で、話を元に戻すけどよ、もとからべらぼうに強かったカベが人を喰ったらどうなると思う?正解だ、誰も手が付けられなかったんだよ。近くにいた人間に無差別攻撃をしかけた。掛水の術を解き、いくつもの朱鷺を放ち、辺り一面を火の海に変えちまうほどの暴れようだった。
掛水は最後まで残ったさ、それでも人間と妖じゃ妖力の差がありすぎる。結局は力比べに負け、カベに呑み込まれたんだろうなあ。
いや、誰も見てないからわからねぇけどな。掛水の死体だけは無かったから、まだカベの中にいるのかもしれんけどな、はは。
これで終いだ。
春ちゃんは望み通り餓死、そのほか犠牲者13人を出した三条の館は呪われた屋敷って呼ばれ、今も買い手がつかずに放置されてるってさ。
朱鷺の壁付近は立ち入り禁止になって、解師達も事件から一時手を引いた。といっても、正四位の掛水っていう最高の解師を失って、組織が大混乱してたからそれどころじゃない、ってのが本当の所だけどよ。
その組織も何とか後任を据えて、ようやく落ち着きを取り戻したのが2年前。ゆずちゃん、あんたが『空や』に来た頃だよ。
どうだい。な、馬鹿ばっかの話だったろ。
疲れた顔でお茶を手にする六と、黙って柚子羊羹を頬張る夭夭。
ゆずはちらりと二人の様子を窺ったが、何も言わずに再び夭夭の首に巻き付くのだった。