十一話 ある屋敷の怪異(3)
― 5.襲来 ―
「何の音だ?」
「なんか割れる音みたいだな」
「おう、番町皿屋敷か。いちま~い、にま~いってな」
「馬鹿いえ、まだ真っ昼間じゃねえか」
「『お菊の皿』のお菊さんだったら見てみてぇけどな」
「ちげぇねえ」
落語のネタで笑いあう男達の頭上で、ガシャリ、ガシャリと瓦を踏み抜く音が響いていた。
「夭夭さん、すこし、落ち着いた、ほうが」
上下に激しく揺れる体にしがみついたまま、ゆずが大声で呼びかけているが、夭夭の足が止まることは無かった。
夭夭は、沖の街区に向かって民家の屋根を跳ぶようにして駆け抜けている。
駿馬の如く走り、時に天狗を思わせるような大跳躍を見せながら、一直線にある屋敷を目指して走っていた。
六が掴んでいた情報では、百鬼夜行・裏抄の発生場所が、沖の街区にあるどこかの屋敷だという。
長い間蓄積された妖の怨念が吹き溜まりとなっている場所ではないか、と当たりをつけて調査していたが、特定は出来ていなかったという。
しかし、それだけで夭夭が察するには十分な情報だった。
「蛍子さん達が危ないんですよ。悠長な事は言ってられません」
応える夭夭の目は、赤色に妖しく光っていた。
『小天狗舞』という解師の中でも上位に位置する術で、飛躍的な身体能力の向上と引き替えに若干妖化が進むため、一般的には敬遠されている荒技だ。
あっという間に沖の街区へとたどり着いた夭夭達は、すっかり街の門番として馴染んでいるカベと春菜に事情を話した。
「それで最近、街区の中でおかしな動きはありませんでしたか」
「特には無い」
「いつも通りへいわでした」
のんびりした返事が二人から返ってくる。
どうやら間に合ったようだと胸をなで下ろした途端、胸に激しい痛みが走った。
思わず膝を付いてしまうほどの痛みは、『小天狗舞』を使用した代償だから仕方が無い。
魂が浸食されるこの痛みには、一生慣れることなどないだろう。
完全に妖になってしまうまでは。
むしろ妖になってしまえば、楽になるかもしれない。
そうすればゆずとも―
「―しどの、解師殿」
「おにーちゃん、だいじょうぶ?」
「夭夭さん、夭夭さん、返事をしないと殴りますよ」
意識が急速に浮き上がってきた。
心配そうに覗き込む春菜、その後ろで巨大な威圧感を放ちつつ春菜を護るカベ、そして今にも殴ろうとしているゆず。
そう、岩をも砕く『鉄拳ゆず 壱號』で。
岩をも?
「わああ、起きました、起きましたから!」
すんでのところで、頭がザクロのように割られるのを防いだ夭夭は、荒ぶる息を整えつつ立ち上がった。
胸の痛みはおよそ治まったし、何とか歩けそうだ。
カベと春菜には沖の街区が危険に晒されるかもしれないと伝え、入り口の警戒をしてもらうようにお願いすると、急ぎ蛍子の屋敷へと向かった。
「それにしても、春菜ちゃん達すっかり街にとけ込んでましたね」
手を振って見送る春菜を見ていたゆずが、しみじみと感想を漏らした。
外敵から沖の街区の守護神として正門を守るカベの存在は、街区の住民にとってかけがえのないものとなっていた。
小さな子供達は春菜と戯れ、大人はカベに感謝のお供えをする。
人と妖が共存する不思議な空間であった。
「ええ。本当に、よい街になりました」
夭夭はこの街が好きだ。
人と妖の共存などまやかしだと言う人も多いが、まやかしでもこんなに幸せそうな顔が見られる街なら、それでも良いじゃないかと思ってしまう。
だから、沖の街区はなんとしても守りたかった。
そんなことを考えていたら、蛍子の屋敷に到着した。
門を開けるのももどかしく、一気に門を飛び越えて中へと入ると、掃除中の箒神に一礼して部屋へと飛び込んだ。
どこにいるか探すのももどかしく、襖を勢い良く開けるといつもの部屋でいつものように静かに読書をする蛍子の姿があった。
「あら、夭夭さんとお狐様。そんなに慌ててどうされたんですか」
「蛍子さん、無事でしたか」
「はい、いつも通り平和ですが、何かあったんですか」
少し拍子抜けするような返事だったが、油断は出来ない。
今すぐにも爆発するように百鬼夜行・裏抄が発生する可能性があるのだ。
夭夭ははやる心を抑えながら、事の経緯と想定される未来について蛍子へ丁寧に説明した。
「事情は承知いたしましたが」
「どうしました」
「なんだか喜久乃が少し話したいそうです」
「喜久乃さんが?珍しい」
蛍子と融合して以来、喜久乃が表層に出てくることは稀だ。
あれ以来夭夭は一度も見た事が無い。
「久方ぶりに表へ出てみれば、何とも余裕の無い顔が目に飛び込んできたものだな、夭夭。まあ、もともと大したことない顔だったが」
蛍子の顔で、喜久乃の声が紡がれる。
違和感があるが、懐かしい喜久乃の声に夭夭の顔もついほころんでしまう。
「これはまた随分なご挨拶ですね」
「夭夭、あまり時間が無い。蛍子に負担がかかるからな」
「はい」
喜久乃が伝えたかった事とは、ただ一つ。
とても簡潔な事実だった。
「恨み辛みが色濃く残る場所ということで、私のいた藏を考えたのじゃろうが」
「違うんですが」
「阿呆、恨みなんぞ蛍子と出会った時に霧散しておるわ。そもそも私一人の恨みなど大したものではあるまい」
「いや充分すごそうですが」
「何か言ったか」
「その通りですねと申しました」
「そうか、ならば今度夭夭を呪ってみるか。大したことないから、心配はいらん」
「冗談でも止めてください」
時間が無いといいつつ、夭夭とのやり取りを楽しんでいる。
表層に出てこられたのが久し振りというのもあり、少し興奮気味なのだろう。
「しかしそうすると、一体どこが」
「そもそも沖の街区では無いのではないか。ここは妖力的に安定しているし、門が繋がるとは思えんが」
「え、いやしかし六さんが―」
「その者は全面的に信用できるのか?一部に真実を紛れ込ませた嘘は見抜くのが難しいぞ」
「信用したいところですが」
六が嘘をついているとは思いたくなかったが、情報操作している可能性は否定できなかった。
沖の街区という名前を出せば、あとは勝手に夭夭が想像して動くだろう事は容易に想像できる。
ただ、うまいこと夭夭を誘導しているとしても、目的が何なのかわからない。
「あ」
その時、一つの可能性が頭に浮かんだ。
まるで半紙に落とした一滴の墨汁のように染みはどんどんと広がっていく。
夭夭に勘違いさせ、沖の街区へ向かわせた事で何が起こるか。
一つ目は別の場所で起こる百鬼夜行・裏抄から引き離し、サナ江のやろうとしている事を邪魔させないこと。
二つ目は沖の街区を妖の襲撃から護らせること。
なるほど、六の考えそうな事ではあった。
疑いが確信に変わろうとしていた時、屋敷の外から喧噪が聞こえて来た。
そっと襖を上げると、遠方で黒い煙が立ち上がり、それを街の人達が眺めてヤジを飛ばしているようだった。
「ゆずさん、何か見えますか」
「遠くで何かあたみたいですね、黒煙があがっています」
黒煙の上がった方向を見ていた夭夭に、喜久乃がそっと耳打ちする。
「なあ夭夭、妖の恨み辛みが溜まる場所。お主も良くしる場所が一つあるではないか」
「まさか」
「ふん、解師が全て妖に好かれていると思ってか?それこそまさかよ」
「解師協会ですか!」
黒煙の上がっている方向的にも、解師協会の場所と一致している。
大きく舌打ちするが、すでに協会に戻る余裕はなさそうだった。
「しかし困ったの。百鬼夜行・裏抄が起こったとすれば、ここはあっという間に飲み込まれる。住民達を非難させるにどうしたものかな」
「あまり考えている時間は無さそうですよ」
夭夭は立ち上がって庭にでると、空を見上げた。
そこには無数の羽虫のような妖で覆い尽くされていた。




