一話 人を喰ったような鬼の話(4)
― 8.トンだ誤解 ―
長山亭の一角。
ひっくり返ったコタツを立て直し、正座する夭夭と木の葉の前で、ゆずは激高していた。
「とんぷく!豚だから『トンぷく』ってばっかじゃないですか、頓服の何処に豚が入ってるんです。え、形が似てる?確かに太った豚ですけどね、とんがぷくーってね!あったま悪いんじゃないですか!」
「ゆずさん落ち着いて」
「だまらっしゃい。大体頓服って解熱とか吐き気止めとかじゃないですか。外傷には効かないんですよ、なんで治ってるんですかおかしいでしょ。神力を馬鹿にしてるんですか、それとも夭夭さんが馬鹿ですか、馬鹿ですね。そもそも神力を使うこと自体、魂削ってんですよ、わかってんですか。しかもその後はなんですか、すいとんですって、すいとん。す・い・と・ん!夭夭さん、すいとんの字わかってますか、水団ですよ、団子。炊豚じゃないんですよ、わかってます、きいてます?」
「はい、すみません。ずっと炊豚だと思ってました」
「妖力を吸い取るから『吸い豚』?まあ素敵なんて素敵、落語家もビックリですね。大体、貴方も何ですか、戦国の武士みたいな格好良い立ち回りしといて、あっさり妖力抜かれちゃって!だらしないにも程があります」
「はあ、あのすみません。突然金色の豚が襲ってきたのでビックリしてしまって」
「それよりなにより、許せないのは最後のアレですよ、アレ。ちょっとこら夭夭さん逃げるんじゃ無い!確かに豚が木の葉さんを踏みつけて勝ちましたよ、ええ。豚が勝って『トン勝つ』ですよね、あははははは―はあ?豚ですよ?素材ですよ素材、調理前なんですよ!ダジャレ以前の問題です、脳味噌に蛆が沸いてるんですね。だいたい豚の名前、トンカツじゃなくて『かつどん』じゃないですか!というかそんな下らないダジャレ豚が、いくら神力つかったからって私の妖力で作った金鬼より役立つってどういうことなですか?はっ、舐めてるんですかね、きっと舐めてるんですよね、『そうあれかし!』とか言えば何でもまかり通ると思ってるんでしょう、夭夭さんなんて一回死んじゃえばいいんです」
「ゆずさん、とにかく一度落ちついて」
「落ち着けるかー!」
頬を押さえて恥ずかしそうに俯く人間の木葉と、にがり切った表情の夭夭を前にして、ゆずは後ろ脚でちゃぶ台をだむだむと踏みつけ激怒していた。怒髪天を衝くとはまさにこの事である。
大半の妖力を分け与えて顕現させた伝説の金鬼が、豚の置物ごときに後れを取り、負けた木の葉は頬を染めうっすら夭夭に傾倒している感じがするのだ。
怒り心頭、脳漿は沸騰寸前である。
夭夭は、ゆずの怒りを収めるべく柚子茶を煎れ、木の葉には柚餅子を勧めた。長山家の菓子だが。
「そうはいっても死にかけたんですから、必死だったんですよ。まさか鬼腕を貫いてぶっ飛ばされるとは夢にも思いませんでした」
「あの、その点に関しましては、私が勘違いで早とちりしてしまい、誠に相済みませんでした」
「いや、あの場で柚子は盗られたんだと言っても、聞き入れて貰えなかっただろうし、木の葉さんに非はありませんよ」
しょんぼりとしおれる木の葉に優しい言葉をかけたのが気に入らなかったのか、ゆずの頬は益々膨らんでいく。
「おーやおや、人妻にはお優しいことですこと」
「なんか言葉に棘がありません?」
「ふん」
鼻息荒く柚餅子を食いちぎるゆずだったが、ふと黒豚の存在が気になった。この置物は、神力を通す器となるほどの品だったのだろうかと。
「よくぞ聞いてくれました。これこそ私が心血を注いで作り上げた、黒豚の精霊なのです!」
「はあ?」
「いやだから黒豚の―あああ!」
ゆずの後ろ足が黒豚を直撃し『かつどん』は倒れたちゃぶ台の奥へと転がっていった。
泣きながら『かつどん』を探す夭夭を無視し、ゆずは柚餅子を頬張る。
しかし、それほど強力な道具であるなら、何故最初から使わなかったのかという疑問が新たに沸いてくる。
戻って来た夭夭に理由を聞いてみたのだが、すぐに後悔した。
実に下らない理由である。
「いやあ、『かつどん』は極めて気まぐれな豚の精霊ですからね。対象が綺麗な女性でないと、「トンでもない」とか言って拒否するわけです。木の葉さんは綺麗なんだけど鬼でしょ、受け入れられるか心配だったんですよ」
「綺麗だなんて、そんな」
照れる木の葉を、ギリギリと睨み付けながら、ゆずは最後の質問をぶつけることにした。
「でもまあ、全部我慢しましょう。納得はしませんが、理解はしました。たとえ豚とはいえ、役にたっ…役だっ…ぶた…この豚如きがぁ!」
「ゆずさん、冷製に」
「私はシャーベットじゃなーい!」
「あ、間違えた」
ゆずは、だむだむだむとちゃぶ台を踏みつける。
「はぁ、はあ…。いや豚はどうでもいいんです、豚は。それよりも、今問いただしたい事は、何故そこの鬼女がお尻を押さえているのか、ということです」
落ち着きを取り戻したゆずが、冷製シャーベットの如き冷たい視線を二人に送る。
金鬼顕現のせいで妖力の大半を失っていたゆずは、さらに神力を使った反動に耐えられず、しばらく気を失っていた。
その間に、一体なにが起きたのか。
「それには、深い事情が」
「ド変態め」
「違うって!誤解だから、違うから!」
確かに、色っぽい話ではなかった。
人間の姿に戻ってしまい負けを認識した木の葉が、殺せ殺せと激しく騒いだので、お仕置きの尻ペンペンを実行しただけだ。
やましい気持ちは無かった。無かったはずである。
しかしこうして、はにかみながらお尻を押さえる彼女を見ていると、背徳的な何かをしてしまったかのような高揚感…もとい罪悪感を感じるのであった。
そんな微妙な雰囲気が流れる中、木の葉が顔を赤らめながら話しかけた。
「あの、夭夭様」
「よよよ、ようようさま!?さまってどういう事ですか、さまって。そういう関係になったんですか、さては契約ですか、奴隷契約なんですかっ」
「いえ、私は―」
「ゆずさん、よぉく聞いて。木の葉さんを正気に戻すためにちょっとばかり尻を叩いただけだから。鬼のお尻を叩くと正気に戻るというのは有名な話でしょ。ゆずさんも知ってるでしょ?そしたら思った以上に大人しくなってしまったというだけのことで」
「かっ、体から調教して、心まで隷属させたですって?失望しました」
「なにその超翻訳、怖い」
結局ゆずが落ち着くまでの間、お茶を啜ったり柚餅子を食べたりしながら木の葉の今後について話し合った。人喰い鬼と和やかに茶を飲むというのも異様な光景だったが、何故か不思議とすんなり受け入れていた。
妖力の半分を『かつどん』に吸い取られたとはいえ、人にとって脅威であることに変わりない。このまま長屋に住まわせて良いものかどうかと悩み始めた時、木の葉が再び口を開いた。
「夭夭様」
「いやあのせめて、さん付けでお願いします。ゆずさんが怖いので」
「はい、では夭夭さんは、どうして私を攻撃しなかったのですか。多少腕に自信がなかったとしても、金鬼の力があれば私と対等に戦えたと思います」
「いやあ、そんなことしたら長山さんに怒られますよ。俺が死んだら妻とお腹の子を頼むと言われてましたからね」
「え?」
「子供がいるんですか?」
木の葉が驚くのと同時に、ゆずも顔を持ち上げて夭夭を見上げた。先ほどまでふてくされて丸くなっていたのだが、好奇心には勝てなかったようだ。ちゃぶ台に置かれた黒豚の『かつどん』を再び後ろ足でぺいっと蹴り捨て、すっかり話を聞く体勢になっている。
「あの、主人はこのことを知っていたのですか」
「確信はなかったみたいですけどね。鬼族は妊娠しても目立ちませんから」
「はい、私自身も最近まで気がつかなかったくらいで」
「そんな感じですから、長山さんも『もしかして子を宿しているかも』ぐらいに思っていたみたいです。それで、死ぬなんて縁起でもない、長山さんなら角材が落ちてきても死にませんよと言ったら、俺は熊か何かかって怒られましたけど」
「ふふ、熊そっくりに荒々しくて、優しい人でした」
木の葉の目が遠くを見つめている。
自ら手を掛けてしまった夫を偲ぶというのもおかしな話だが、不可抗力と言えなくもないので複雑だ。
一方のゆずは、弱っている妻相手にやることはやってるんですねぇと、妙な所に感心していた。
二人に挟まれながら暫く逡巡していた夭夭だが、思い切って一つの提案を切り出すことにした。
「もしよければ、沖の街区に移住しませんか」
「沖の街区、ですか」
「ええ。四六時中解師に監視される事になりますが、理不尽に排斥されるようなことは無くなります」
「そんな所があるんですか」
「あります。どうですか、私としても長山さんとの約束を守れますし、お勧めなんですけど」
沖の街区は監視を専門とする解師によって常時見張られている特殊な区画だ。怪異の関わる事件を解決した際、行き場を無くした無害な者から、力がありすぎて危険な者まで多種多様な妖が集められている。
一般住人との交流もあるが、その言動は逐一解師にチェックされてしまう。多少窮屈かもしれないが、仕事も与えられるし、何より人間公認で安定した生活できるという利点があるため、捉えられた妖の半数は沖の街区で生きていく事を選択するという。
「でも、この子が人を襲うかもしれないと思うと。もともと夭夭さんを殺した後、ここで親子ともども自害するつもりでしたし」
「ちょ、いまサラリと怖いこと言いましたね。ええと誤解しているようですが、鬼の女性が人の男性と成した子は、必ず人の子になるんですよ」
「人の…子に?」
「はい。逆の場合は必ず鬼になりますけどね。ですから、安心して下さい」
木の葉は少し悩み、そして頭を下げた。
「そういう事でしたら。そうですね、あと15年くらいは何も食べずに生きられますし、この子が一人前になるまでは見届けられそうですね。その街のご厄介になります。何卒よろしくお願いします」
「よかった」
夭夭はほっと胸をなで下ろした。ここで断られたら非常に厄介な事になる所だったのだ。
気が変わらぬうちに早速手配を取ると言い残して、長屋を辞去した。
玄関を出る時、騒動を聞きつけた長屋の人達が周りを囲んでいたので、借金取りに来て失敗したという小っ恥ずかしい芝居まで演じて、早々に退散した。
― 9.逃げ足は速いんだようよう ―
時折カタカタと身を震わせる窓枠に目をやると、湯気で曇った窓にゆずがぺたりと足跡を付けて遊んでいるのが見えた。その様子に和みながらも、約束の柚子湯を用意する手を休めることは無かった。
金鬼の腕に黒豚三連発と、ゆずの力に頼りすぎたこともあって、今は全く頭が上がらないのだ。
「ゆずさん、湯加減はどうですか」
「ん」
するりと窓枠から降りてヒノキのタライまで駆け寄ってくると、迷うことなく柚子湯へと身を踊らせた。縁に小さな手と顎を乗せてくつろぐ姿は、夭夭の心を掴んで話さない。
ぷかりと浮かんだ柚子が、夭夭のかき混ぜる波に乗って、ゆずの背中をノックした。
「ふわあ、眠い。やはり夭夭さんは解しのプロですなむ」
「なむって…まあこういう解しなら、いくらでも喜んでやりますけど」
「鬼と人の絡み合いは、流石の夭夭さんでも複雑すぎて解せませんでしたか」
「多少は役に立ったと思うんですけどねぇ、あとは木の葉さん次第かな」
ツンと柚子を突いて水没させてから、カウンターまで豆大福を取りに行く。
「木の葉さんといえば、今更ですけど夭夭さん、よく生きてましたよね。まさに奇跡というか、私さまさまというか」
「あー、ワタクシこれでも一応解師界では、一目置かれているんですが」
「それでも呉葉の直系を一人で相手にできるほどでは無いでしょう?やっぱり私さまのおかげです」
「呉葉?なんですかそれ」
豆大福を囓りながら戻って来た夭夭が、タライの横へと腰を下ろす。
「鬼女紅葉の本名ですよ。前に話したじゃないですか」
「その呉葉さんが何です?」
「名前を聞いて、ピンと来ませんか」
「一体何の事…あ、木の葉さんってもしかして」
「そう、都で大騒ぎして首を跳ねられたという鬼女呉葉の子孫ですよ。金鬼もそうですが、こっちも伝説の鬼と謳われた、とーっても強い鬼ですね」
夭夭は、ゴクリと豆大福を飲み下し、焙じ茶へと手を伸ばした。
「し、しかしその鬼は退治されたんでしょ?何で子孫がいるですかね」
「もともと政略結婚を秘術の身代わりで切り抜けたという希代の鬼ですよ?討伐される時にもそうしたに決まってるじゃないですか」
「おうふ、よく生き残ったぞ私」
自分が相手をした鬼が予想以上に危険だったと知らされ、今更ながらに生き残った幸運へ感謝する。そして同時にガックリと頭を垂れた。
「え、なんでそこでガックリ?」
「いや、そんなに大物だってわかっていたら、もっとふっかければよかったなと」
「何をです」
「報酬」
「下世話な!」
ぱしゃりと鳴らしたゆずの尾が、夭夭に水しぶきを振りかける。
あちあちと大げさに避けながら奥へと退散するのを見送ると、ゆずはまたゆらゆらと柚子湯に浮いた。
ああやって照れ隠しをしているが、報酬の多くは木の葉の為に使われるだろう。今までも、これからもそれは変わらない夭夭のこだわりだから。
そういう男だ。
義理堅く、涙もろく、人情に厚く、へそまがり、それが帆浪夭夭という人間であり、ゆずの大切な人である。
「素直じゃないんだから、夭夭さん」
本人が居ないことを確認し、特別甘い声で『ようようさん』と呼ぶ。
こうして約束通り『空や』の柚子を3つも浮かべてくれたし。
ゆずはご機嫌でそのうちの一つをはっしと掴んだ。
「んん?」
少しいつもより小さい気がする。しかしあまり我が儘を言うのは良くないと思い直し、有り難く頂くことにした。
なに3つもあるのだ、ゆっくりと堪能すれば良い。
「いただきまーす」
かぶりついた瞬間、口の中に強烈な酸味が広がった。
『空や』の柚子は全く酸っぱくない。むしろほんのり甘さを感じるほどの旨さがあり、生食が基本だ。
しかるに、この柚子は大変酸っぱい。
「こっ」
ぷるぷると震える手から柚子が落ちる。
「これはもしや桔梗屋の―」
振り返った先に夭夭の姿は無かった。逃げ足は天下一である。
震える二股の尾から黄金の妖力が放出され、三本の刃が顕現した。
「おのれ、ようようめー!」
巨大な三本の爪痕によって店内を滅茶苦茶にされた骨董店『空や』は、三日間戸口に臨時休業の札が立てられたという。