八話 童と少女(5)
― 9.言い逃げの乙女 ―
茶を飲み干した夭夭は、懐から一本の巻物を取り出した。
青い色の呪言がびっしりと書き込まれたそれは、かつて吟目が生涯をかけて見つけだそうとした『反魂の術の完成』に必要な最後の一欠片だ。
巻物の効果は、魂を融合させること。
吟目が妻杏奈の為に集めた魂の数は膨大だったが、それは死者を蘇生するという無茶をするための必要数だ。蛍子は死者ではなく、ただ心臓が鼓動を取り戻せば良いだけなので、必要とされる魂もごく僅かですむ。
そう、ただ一つだけで良いのである。
「最後に、もう一度確認します。本当に良いんですか。もしかしたら外にも方法があるかもしれませんよ」
「あるやもしれんな。だがそれを見つけるのに百年二百年かかっては意味がない。蛍子が生きている時代は今なのだからな」
「しかし―」
「それに!それに、これは私の願いでもあるのだ。どうか叶えて欲しい、解師殿」
夭夭に向かい、喜久乃は静かに額を畳みに付けた。
そこには、今までのふざけたような様子は微塵も見られなかった。
ただひたすらに一人の少女を思い、共にあろうとする妖の誠実な姿があるだけだ。
「わかりました、では術式を展開します」
「ちょっと夭夭さん、いきなり?」
「もう十分苦しんだんですよ、喜久乃さんは。今だってもうギリギリなんです」
驚くゆずに、夭夭は静かに応えた。
長年妖力を蛍子に提供し続けた喜久乃は、精神にも身体にも限界がきていたのだ。
「その通りだよ、お狐様。少々疲れてしまった。そろそろ終わりにしたい」
「でもでもでも」
「それに私は消える訳ではないしな。蛍子の中で一緒に生きていける。まあ蛍子は厄介な病を患っておったからなあ、長生きはできんかも知れんが」
軽快に笑う喜久乃に、悲壮感は感じられなかった。
むしろ待ち望んだ時がようやく来た、という顔で静かに座している。
その間に、夭夭は術の準備を終わらせていた。
今、彼の前には『空や』の柚子が一つ置かれている。
「これで準備は終わりです。後は詠唱をして完了となります」
「よろしく頼む」
「わかりました。しかし…蛍子さんが目覚めた時、私は何と声をかければ良いかわかりませんよ」
「ははは、恐らく夭夭が気に病む事は何もないだろうよ」
「どういう事ですか」
「その時になればわかるさ」
にこりと笑い、蛍子は目を閉じる。
それを合図とし、夭夭は術を完成させた。
「―そは混じり合う。生まれいづるは一つなる魂魄」
パシリと合掌した直後、『空や』の柚子がはじけて霧散する。
「術は成った」
かつて父である吟目が成そうとして叶わなかった術は、形を変えて完成に至った。いや、どちらかと言えば一つ同士の魂の方が理想的な術となるように形成されている。
吟目はもともと喜久乃の為にこの術を研究していたのかもしれない。
やがて、喜久乃の姿がうっすらと揺らぎはじめた。
「さて、長きにわたり世話になったな。お主も立派な解師になったものだ」
「私なんて、最後だけちょっとお手伝いしただけですよ。未だ半熟者です」
「よく言う。ま、そんな謙虚なお主の事が、私は好きだったぞ、夭夭」
「へ?」
喜久乃は笑みを浮かべる。
それは本当に幸せそうな笑みだった。
慌てて問いただそうして手を伸ばした夭夭の目の前で、まるで鳥の羽が舞うようにふわりと消えてしまった。
残されたのは、前を見据えたまま微動だにしないゆずと、全身から冷や汗を零す夭夭、それに蛍子の安らかな寝息だった。
― 10.好きな人 ―
「うおおおお!」
雄叫びと共に、夭夭は人生において最高で最速の反応で横っ飛びに避けた。
その真横を巨大な鎌がごとき斬撃が通り抜けていく。
数枚の畳を道連れに襖が吹き飛ばされた。
「ちっ」
尾をふさりと揺らし、ゆずは舌を打ち鳴らす。
「何故避けるんです」
「何故避けないと思うんです!」
「何か、ありましたね、あの幼女と」
「何もありません!全く、つゆほども!」
夭夭は、全力で否定しつつ、ジリジリと庭の方へと身体を移動させた。
「何も無いのに、す、す、すすす、好きとか言うかぁーっ」
「だから、無実ですっ」
追撃を奇跡的に後転して避けられたのは、解師としての勘が偶然当たっただけのことだ。
三度目は無い。
「これはまずい、いつもよりなんだか怒りが凄い」
もともと暴走したゆずは、手に負えないのだが、今回はいつもの比ではなかった。
発散してスッキリするのを待つなどと悠長な事を言っていると、命が危ない。
せめて被害が少なくなるようにと庭へと後ずさる夭夭の背中に、声がかけられた。
それは唐突で、全く気配を感じさせないものだった。
「何をしている」
「なっ!?」
感じた妖圧が尋常ではなかったせいか、反射的に夭夭の中の戦闘スイッチが入ってしまった。
振り向きざまに袖に手を突っ込むと、入っていた胡桃をひっつかんで投げつけた。
「鬼胡桃をもって鬼狂水となせ、そうあれかし!」
正しい詠唱も何もかも全てブッ飛ばして唱えたそれは、制御も何も考えずとりあえず牽制にと放ったものだ。
北の方に分布する小さめの胡桃は、空が厚く非常に硬い。
それを鬼の力で強化し、鉄壁の防御結界を張るものだ。
ところが、結界が発動したと思った直後に正面から吹き付ける突風によって、胡桃が四散してしまった。
唖然とする夭夭の前に、声の主が正体を現す。
「やれやれ、久方ぶりに旧友に会いに来てみたら、騒がしいことだな」
「まさか…で、伝説の…天狗、ですか」
「いかにも」
天狗といえば、妖の中でも相当高位の存在である。
とても人の技でどうこうできる相手ではない。
流石の夭夭も、争おうという気も起きず、丁寧に挨拶をした。
「いきなりの無礼をお許し下さい。ええと、それでその天狗殿がこちらに何用で?」
「先程旧友を訪ねに来たと行ったでは無いか」
「そうですね、言われてみれば確かに」
「して、喜久乃は無事融合できたのか」
驚きの目をもって、夭夭は目前の天狗をみつめた。
融合の話はごく限られた者しか知らないはずなのに、何故知っているのだろうかと訝しむ。
だが、ここでヘソを曲げられたら大変だ。
天狗が暴れでもしたら、台風よりもたちが悪い。
「ええと、恐らくは」
「恐らく?」
「いえ、まだ確認をしてな…」
「夭夭さん、夭夭さん」
足元でゆずが夭夭の裾を掴んで引っ張っていた。足先が部屋の中心を指し示している。
そこには布団の中から、上半身を起こした少女、蛍子の姿があった。
「ああ、蛍子さん、気付かれたんですか。よかった」
「ほう、あれが喜久乃の連れか」
夭夭と天狗が同時に声を上げると、喜久乃は一度お辞儀をした。
そして起き上がろうとしたが、できずにもがいている。
慌てた夭夭と天狗が駆け寄った。
「すみません、お呼び立てしてしまって。長年床に伏せっていたので、足が弱ってしまって立てないようなんです」
「長い眠りから起きたばかりなのだ、無理をすることはない」
天狗が夭夭の台詞を奪ってしまったので、機会を失った夭夭の口はパクパクと金魚のように開いては閉じていた。
その様子があまりにおかしかったのか、蛍子は咳き込みながらも笑っていた。
「あなたが…けほ、よ、夭夭さんですね」
「はい。ええと箒神さまに白湯でも運んでいただきましょう、無理せずゆっくりと話してください」
「ありがとうございます。あの、私の方が随分年下ですので、もっと砕けた口調で…」
「いや性分なので気にしないで下さい」
気軽に話しかけたりしようものなら、またゆずの機嫌を損ねると、内心ヒヤヒヤする夭夭であった。
「この度は、父が色々とご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
「いえ、私は被害を受けてませんし。それより言いにくい事なのですが、喜久乃さんが貴女を助けるために、その―」
「大丈夫、夢の中で全て喜久乃が教えてくれました。とても感謝しています」
蛍子は胸に手をあてて、目を瞑る。
ふわりと優しい光が見えたような気がして、夭夭は目を擦ってみる。
その間に天狗がまじまじと蛍子の胸の辺りを見ていた。
「ほう、かように融合するのか。人の術もなかなか侮れないものだな」
「天狗様にもまた会えて、喜久乃が喜んでいます」
「そうかそうか。旧友と会えなくなるのは寂しいからな、そう言って貰えると嬉しい」
「はい」
頬を染め、少し照れながら俯く蛍子。
獣の形をしているとはいえ、知性ある妖に胸を凝視されるのは恥ずかしいようだった。
「天狗殿、乙女の胸をそんなに見つめては失礼ですよ」
「む、すまぬ。つい喜久乃がいるように思えてな」
「居るとおもいますよ。融合しているだけですから、蛍子さんには本当に喜久乃さんの存在を感じていると思います」
事実、蛍子は喜久乃と会話をしていた。
天狗や夭夭と話すように、心の一部となった喜久乃とも対話ができる。
それが独り言なのか、自問自答なのか、区別はつかないかもしれないが、蛍子は信じていた。
「そうですよ、間違いありません」
「おや、自分で言っておいて何ですが、随分と確信がありそうですね」
「はい。だってほら」
蛍子は右手をそっと夭夭の手に重ねた。
行動の真意がわからず首を捻る夭夭に、蛍子はほほえみかけた。
「ほら、いま私の心臓は爆発しそうなくらいドキドキしてるんです。初対面の方にこんな風にはなりませんよね」
「へ?」
「不思議だなって思ってました。目覚めてから貴方を見ると、なぜか動悸が止まらなくて。でもすぐにわかっちゃいました。喜久乃も、やっぱり年頃の女の子だったんですよね」
「ちょ、ちょっと待った、その話は」
「うーん、だからかな。なんだか私も好きになっちゃいそうです」
その言葉を聞いた瞬間、夭夭は庭めがけて猛然と走り出していた。
後を追うゆずの発する、必殺のゆずブレヰドを懸命に避けながら。
「あまりからかうのは止しておけ」
「あら案外本気かもしれませんよ」
「まあ、それは良いが…しかし、あやつ等人と妖なのに随分と仲が良いな」
「天狗様は人がお嫌いですか?」
「いや、喜久乃とそなたを見ていたらな、気が変わってきた。それにあやつ等の事も興味が沸いたしな、少し考えを改めるかと思っているよ」
「はい。喜久乃も喜んでいます」
「ああ、そうだな。あやつは人が好きだったからなあ」
天狗は懐かしむように呟いた。
その後、蛍子は気が触れた父に代わって当主となった。
年上となってしまった弟や、年老いた母を呼び戻し、今は平穏な時間を過ごしている。




