八話 童と少女(3)
― 5.雀の涙 ―
その晩、心配したとおり蛍子は高熱に冒され床に伏していた。
傷口を直ぐに洗い流したものの、腕から入った病原菌はすでに蛍子の身体で猛威を振るっていたのだ。
熱にあえぐ蛍子の周りを、見慣れた医師と家族、それにてぬぐいで目を覆う女中が数名囲んでいた。
海外から取り寄せた抗生物質という新薬を投与されているが、効き目は芳しくない。
蛍子は大名華族の流れを汲む由緒正しき家の生まれである。
周りが没落していく中、蛍子の家は不思議と裕福なままであったため、こうして贅沢な治療を受けられるのだが、本人にとって良いか悪いかはまた別の話だ。
苦しみが長く続くわりに、生き残れる可能性はそう高くないのだ。
これまで何度かその低確率を引き当て、生き延びてきた蛍子だが、その都度体力が落ちていることが判っている。
地獄のような苦しみに耐えられるほどの体力が残っているか、怪しいものだった。
これは厳しいかもしれないと、医師の目が言っている。
「先生、蛍子は…蛍子は助かるんでしょうか」
「体力が心配です。何とも言えません」
「そんな無責任な!」
「新薬とて万能では無いんですよ!」
口論の後、両親と医師は沈痛な面持ちで部屋を立ち去った。
残された女中が水桶の水を替えに席を外したが、蛍子の弟は暫く残っていた。
両親が医師と喧嘩している間もずっと俯いたままだったのだが、我慢していた筈の涙がついにこぼれ落ちる。
「姉ちゃん、ごめんなさい」
高熱でうなされている姉には、聞こえるはずもない小さな声だが、これが今の彼にできる精一杯の謝罪だった。
一度決壊した涙腺からとめどなくあふれ出る涙が、拳の上で跳ねている。
その時、彼の拳に蛍子の手がそっと触れた。
「姉ちゃん!?」
指一本動かすのも辛い状態で、姉の手が布団から自分の膝に伸びている。
驚きで涙など止まってしまった弟は、目を見開いて姉を凝視した。
姉の顔がわずかに彼の方を向いている。
そして微かに唇が動いた。
その言葉が弟には判る。
姉が始めて床に伏した時以来、必死に読話を勉強していたのだから。
『まけるな』
文字にすればたったの四つ。
しかし、それはどんな言葉よりも力強く弟の心に響いた。
自分の失敗に負けるな、悲しみに負けるな、色々な気持ちを込めて送られた言葉だ。
「わかった、ぜってぇ負けない。だから、姉ちゃんも負けないでくれよ」
弟は何度も何度も涙を拭い、そして姉の手に額を近づけ、祈るようにして部屋を出て行った。
蛍子は満足そうにそれを見送った。
(でも、私の方は流石にもう駄目みたい)
熱のせいで回らぬ頭で死を予感した時、どこか遠くで鳥の羽ばたく音が聞こえた。
小さな鳥が、近づいてきている。
うっすらと開けた目に、茶色い小鳥が映った。
(雀?)
ぼんやり思い出したのは、夕方に藏の前で見かけた雀の姿だった。
雀の見分けなど付かないが、なんとなくそうではないかと思わせる雰囲気があった。
その雀が、口に何かを咥え、蛍子の胸元に降りてくる。
白い花のようだった。
雀はその花を蛍子の口元へと近づけてくる。
(なに?口をどうするの?)
とまどう蛍子だったが、何度も雀が花を口に近づけてくるので、これは食べるか飲むかしろということかと思い、うっすらと口を開けた。
途端に、すうと透明な液体が口を通り喉へと滑り込んでいく。
ごく僅かな量、それこそ雀の涙ほどの僅かな液体は、味も香りも何も無かった。
液体を飲んで暫くすると不思議と呼吸が安定し、蛍子は穏やかな眠りに誘われていった。
― 6.快方と解放 ―
軌跡の回復を見せた蛍子は、一週間もすると歩けるようになっていた。
しかし両親は今まで以上に過保護になり、庭にすら出ることを禁止されていた。
本が読めるならば多少の不便も仕方ないと思う蛍子だが、やはり時には散歩ぐらいしたくなる。
時折庭を見つめては、ほうとため息をつくのだった。
木枯らしが吹き始めた冬の日のある晩、長い渡り廊下を歩いていた蛍子は、月明かりに照らされた古い藏に目をが止まった。
蛍子の命を救った雀が入っていった、あの藏である。
そういえばお礼も言わなきゃと思った時にはもう、無意識のうちに草履を履いて外に出ていた。
ふらりと古い藏に近づくと、扉に付けられた頑丈な南京錠を手にする。
「これは、無理そうね」
朽ちていたり、錆びていたりしたらどうにかなっただろうが、きちんと取り替えられていたのだろう、南京錠はしっかりと機能を果たしていた。
入れないのなら仕方ないと踵を返そうとした時、ちちちと雀の鳴き声がした。
見上げると雀が口に鍵を咥えて降りてくるではないか。
思わず蛍子が手を差し出すと、手の平に止まって鍵をポトリと落とした。
「え、これは…もしかして藏の鍵かしら?」
蛍子が首を傾げる間にも、雀は飛び立って藏の中に入ってしまった。
どうにも人間くさい動きをする雀だなあと思いつつ、鍵を南京錠に差し込んだ。
カチリ
皆が寝静まっているとはいえ、思わず周りを見回してしまうほどの大きい音をたて、南京錠は無事に外れた。
ギッと扉を引き開けて中を覗く。
「お邪魔しま~す。雀さんいらっしゃいますか」
自分の家の藏で、しかも動物に話しかけているという異様な光景ではあるが、蛍子は真剣だった。
きちんとお礼をしなければならないという一心で、足元もおぼつかない暗闇で藏を探索していく。
そうはいっても広い蔵では無いので、程なくして月明かりが差し込む畳の上に止まる雀を発見した。
「あ、雀さん今晩は。私、この前のお礼を言いに…え?」
藏の中央部分に、一畳ほどの座敷があり、その上に和服を着た童女が座っていた。
一瞬幽霊かと思った蛍子が小さく悲鳴を上げると、それに釣られたように童女も立ち上がった。
ふらりと蛍子に近づこうとしたが、突然見えない壁に遮られたように弾かれたしまう。
「え、何なの。えっと、その大丈夫?」
「ええい忌々しいことよ」
「えっと、お嬢さんは誰?」
「お主らの呼び方で言うところの座敷童子というものだ。付け加えて言うと、お嬢さんではない。そなたより随分年上であるよ」
「座敷、童子??」
知識として、多少の妖については知っていた蛍子だが、実物を見たのは初めてだった。
それでもパニックにならなかったのは、雀が座敷童子の肩に乗っているところを見たから、そして童子がとても落ち着いていたからだった。
「でも座敷童子って、家にすみつくのでしょう?どうしてうちの藏に居るの」
「うむ、色々と事情があるのだが、まずはそこの方陣を引っこ抜いてもらえんかな」
「引っこ抜くとどうなるのかしら」
「この藏から出られるようになるな」
一畳の座敷を取り囲むように四方に白木が立ち、それを紙垂が付けられたしめ縄でつないである。
あまり神道に詳しくない蛍子にも、これがある種の結界であろうことは容易に想像が付いた。
「ええと、貴女が悪い妖ではないという確信が持てないので、それはちょっと」
「なんだ、己の命を救った者を疑うのか。最近の人間は随分と疑い深くなったものだな」
「え、やっぱり貴女があの水を?」
目の前の童女は正座で座り直すと、いかにもと応えた。
雀の目をかり、雀のくちばしを借り、若返りの水として知られる変若水の一滴を授けたのだという。
何故そんなことをしてくれたのかと訪ねれば、同じような境遇にある娘を放っておけなかったからだと言う。
「でも、どうしてこんな酷い所に閉じ込められているの。何か悪い事をしたらじゃないの?」
「むしろ逆だよ。私が居ると良い事ばかりが起こる。だから閉じ込められている」
「どういうこと」
つまるところ、蛍子のご先祖様は幸運を呼び寄せるという座敷童子を捕らえ、縛り付ける事によって一族の繁栄を手に入れたということだ。
この藏に閉じ込められてから数百年、自由も無く滅びることもできず、無為に過ごしてきた座敷童子のもとに、あるとき偶然雀が飛び込んできた。
幸運にも、雀は座敷童子の目となり、翼となる才能を持っていた。
雀のおかげで、座敷童子は次の数百年を少し楽しく過ごす事が出来た。
そして、いつしか幼少の蛍子を見つけ、成長ぶりを見守るようになっていたのだった。
昔話を交えて面白おかしく話す座敷童子に、蛍子は次第に引き込まれていった。
そして自分と同じように、部屋に閉じ込められている境遇に同調した部分も大きかった。
「判った、貴女を解放してあげるわ」
「む、良いのか。自分でお願いしておいて何だが、私が居なくなるとその家は没落するぞ」
「良いのよ、歴代当主は皆知っていたのでしょう?自業自得というものです」
「そなた、中々小気味よいヤツよの」
「でも、一つお願いがあるの」
「ふむ」
座敷童子は、顔を曇らせた。
対価に何かを求めてくるのだろう。
そう簡単に幸運を呼び寄せる妖を手放すはずは無いか、と。
しかし、蛍子は顔を赤らめて、モジモジとするばかり。
なかなかお願いとやらを口にしない。
しびれを切らして座敷童子が催促をすると、蚊の鳴くような声でぽそぽそと話し始めた。
「私はその、小さい頃から外に出られなかったから、よく話す子とかも居ないし、でも本は沢山読むのよ!だから一杯知りたいことはあるんだけど、その」
「さっぱり要領が得んな。一言で申せ」
「だからその、ちょっとだけでいいから、私の、その」
「ええい、大きな声で話さんか!」
「友達になって欲しいの!」
「おおう」
座敷童子は、仰天した。
そして直ぐに破顔した。
「なるほど、まあ一ヶ月程度ならよかろう」
「本当に?」
「長きにわたる監禁に比べれば、その程度は屁の河童よ」
「女の子がそんな言葉つかっちゃ駄目よ」
「はっは、今更だな」
こうして、座敷童子は永遠とも言える地獄から解放されたのだった。




