六話 白い夏と黒い海(8)
― 15.おやすみなさいの相手は ―
最初に崩れ始めたのは指先だった。
ボロリと自分の人差し指が地面に落ちるのを、吟目は不思議そうに眺めていた。
次に落ちたのは右手首だ。
鈍い音を立てて落下するのを見て、戸惑いの表情を浮かべた。
だが、耳が肩を滑り落ちる様を見た時には、悲鳴があがった。
「ひいぃ、なん、なんだよこれ!?」
慌てて左手で耳を拾おうとしたが、指の間からボロボロとこぼれ落ちてしまう。
そうする間にも髪がゴッソリと抜け落ち、崩壊した足が上半身を支えられず、崩れ落ちてしまう。
「久しぶりね、あなた」
「ひっ、ひい?」
怯える吟目は、すがるように杏奈を見上げた。
三科に付き添われ、吟目の側に腰を下ろした杏奈は、そっと吟目の体を持ち上げて膝に乗せる。
「杏奈、杏奈。俺の体が崩れてる、どういうことなんだ、どうして、いったい」
「あなた、落ち着いて」
杏奈はゆっくりと吟目の頭を撫でる。
それは子供をなだめる母親のような手つきだった。
「妖と同化したんでしょう?」
「あ、ああ、ああ」
「それじゃあ、祓われて浄化するのは当たり前じゃない」
「そんな、どうして俺を祓うんだ。俺はお前のために…」
「そりゃあ、息子のためでしょ」
呆れ顔で笑われた吟目は、目を丸くして杏奈と夭夭を交互に見、そして口をすぼめてむくれた顔をした。
それはまるで叱られた子供のような仕草であった。
「杏奈の祓魔術か」
「久しぶりだったから、ちょっと心配だったけどね」
「こんなに強力だったなんて聞いてないぞ」
「話したわよ」
「そうだっけ」
「そうよ」
夭夭も杏奈から一度聞いた事がある。祖国では祓魔師と呼ばれる家系の長女だった杏奈は、極めて優秀な祓魔師だったという。
ある時、有力者の祓魔を失敗して国を追われ、逃げ回った末にようやくこの国へ辿り着いたのだとか。
その話を聞いたとき、夭夭はすぐにある事実を理解した。
『杏奈さんは、自分で始末をつけることができる』
高位の祓魔師は呪詛の類も破壊することが出来るという。
つまり、自分にかけられた反魂の術も破壊できるのが道理である。
使えば、呪縛を解かれた仮初めの命が元通りに輪廻の環へと戻っていく。
もちろん、それは吟目にだって簡単に判ることでもあった。
「おいおい、そしたら杏奈にかけた反魂の術も解けちまったのか」
「そうだね」
「なんだよ、俺の頑張りが無駄になったじゃないか!」
「いいじゃない、息子の成長が見られたんだから」
「ちぇ、あんな生意気なヤツ息子じゃねえよ」
吟目は、ふてくされたように夭夭に視線を向ける。
しっかりとゆずを胸に抱いて警戒していた夭夭は、そこでようやく警戒を解いた。
「よう、息子」
「なんですか、父親」
「やっぱ可愛くねぇ…」
吟目は、懐から取り出した物を夭夭に投げようとして止めた。
代わりに杏奈の手にそっと置く。
「あら、これ…」
「あいつにやろうと思ったけど、止めた。やっぱムカつく」
くくと笑う杏奈の膝で、吟目はいよいよ胸の下あたりまで崩壊が進んでいた。
痛みは無いらしく、本人も笑っていた。
「そうそう、息子さんよ、今更言うことなんて、ねえけどな。一つだけ父親として忠告してやるわ」
「ほう、何でしょう」
「俺は最近弟子ってやつを、とることになってな」
「は?」
孤高な滅師だと思っていた吟目から、意外な言葉が飛び出す。
数年前、元解師だという女性が訪ねてきて、ある女性を弟子にしてやって欲しいと懇願されたという。
女性は、解師としての素養があり基礎的な部分は習得していたこともあり、滅師の技を驚異的な速度で吸収していく。
そして、気が付けば吟目に比肩するような滅師に成長し、皆伝されたのだそうだ。
「その女性が仇を討ちにくるとでも?」
「それは無い。けどな、いずれ対立するだろうよ。そいつの師匠って女がちっと危ない事考えてるみたいだからな」
「ちょっと待った、その元解師の女性って、もしや私の知ってる人ですか」
「知ってるさ、掛水だよ」
「そういう事ですか」
掛水サナ江は、夭夭の師匠だ。
朱鷺の事件で死亡したといわれていたが、やはり生きていたらしい。
そして想像通り、よからぬ事を企んでいることもわかった。
「いったい何をするつもりなんでしょうか」
「それくらいは、自分で調べな」
「ケチ臭い父親だ」
「ぬかせ」
吟目がニヤリと笑う。
それからは一気に崩壊が進んだ。
夫婦が目で会話をする様子を、夭夭は複雑な心境で見つめていた。
杏奈は優しく愛おしむように指で吟目の髪を梳いている。
夭夭が生まれる前は、こうして二人の時間を過ごすことが多かったと、三科がそっと教えてくれた。
ほほえむ杏奈に見守られ、吟目の気持ちは落ち着きを取り戻していく。
そして穏やかな表情のまま、塵へと還って行った。
「最後まで勝手な人だったよ、ほんと」
ボソリと呟く夭夭の声を聞きながら、杏奈はロケットの中身を見た。
そしてくすりと笑いながら再び蓋を閉じるのだった。
「さて、そろそろ私も時間かしら」
「杏奈さん、その」
「今回は二度と生き返らないし、本当にさようならね、夭ちゃん。あ、それが普通か、あはは」
「母さん!」
杏奈は、唐突に叫んだ夭夭に目を丸くする。
気がつけば、息子に抱きしめられていた。
大きく育った肩が小刻みに震えている。
泣き顔を見せる息子なんて、久し振りだ。いや、記憶は残っていないが日記にはそう書いてあった。
毎回上書きされる記憶を、日記という形で残した。
回数を重ねる毎に、読み込むのが大変になってきたが、苦痛ではない。
なにしろ、大切な家族の事が書いてあるのだから。
「母さん、死なないで」
「なぁに言ってるの。ちゃんと予行演習してきたじゃない」
今まで何度も死んできたのだ。
もう慣れてくれなければ、困る。
「いつまでも親離れしないと格好悪いよ。泣くんじゃないの」
「母さんだって」
気が付けば、杏奈の視界もぼやけていた。
喉が焼けるように熱い。
「あれ?」
何度も何度も予行演習をしたというのに、死ぬときは笑顔と決めて、前回だって笑えたと三科が言っていたのに、本番が上手く行かない。
「あれ、あれ」
止めようとしても、涙は後から後から溢れ出してくる。
そうして、杏奈はようやくわかった。
「夭ちゃん、死ぬのって辛いんだね」
「うん」
身体から、急速に命が零れ落ちていく。
杏奈は震える手でロケットを手渡した。
「でも最後はみんな一緒だったから、いっか…」
「これからも一緒だろ、少し遅れるけどすぐに追いかけるよ」
「あら、ゆずちゃんと一緒じゃないと、追い返すわ」
「何言ってるんですか」
「あはは、いつもの夭ちゃんだ…ね」
ニッコリと笑うと、静かに身体を横たえる。
最後に、唇だけがかすかに動いて、杏奈は生命活動を止めた。
夭夭は、父のロケットと母の十字架を握りしめたまま、しばらく虚空を見つめてから、静かに呟いた。
「二人とも、おやすみなさい」
―16.夭夭の死 ―
後始末を三科に丸投げして、夭夭は逃げるように『空や』へと戻っていた。
二、三日ただ無為に過ごし、店も閉店したまま放置している。
このままでは腐って死ぬのではないかと、ゆずが心配しだした頃から、ぽつぽつと来客があるようになった。
四日目に訪ねてきたのは、雪女の加代だった。
覇気のない夭夭を見て驚いていたが、黙ってかき氷を作っていく。
頭を冷やせってことですかねぇと、夭夭のぼんやりした声が聞こえて来た。
五日目に訪ねてきたのは、鬼女の木の葉だ。
無精髭をはやして生気のない夭夭を見て愕然としていたが、黙って簡単な食事を作っていった。
食っても味がしないんですよ、申し訳ないですよねぇといいつつ、お粥を頬張る夭夭の負抜けた声が聞こえて来た。
六日目に、三条春菜がカベの朱鷺を連れて現れた時には、さすがの夭夭も慌てた。
夜だったせいで人目に付かなかったのが幸いしたが、幽霊と炎を纏った鳥が町中を闊歩するのは非常にまずい。
慌てて目眩ましの道具を使って帰らせたが、騒動のおかげで少しだけ生気が戻ったように見えた。
「一体何だっていうんです、みんなして」
「そりゃあ夭夭さんが塞ぎ込んでると聞いて、心配したんじゃないですか」
「店を開けってことですかね」
「知りませんよ、私は」
首をひねる夭夭に対して、ゆずはそっけなく応えた。
訪ねてくるのが皆女性型の妖ばかりな事に不満な様子である。
だが、そんなどんよりした雰囲気も、七日目に顔を出した人物のせいで吹き飛んでしまった。
なんとか店を開けられるまでには回復し、ぼんやりと十字架をいじくっていると、ふいに店のドアがカラリと開いて、女性が一人入ってきた。
髪を後ろでまとめてうなじを見せている袴姿は、いま街で流行の格好だ。
おそらく髪飾りでも探しているのだろうど当たりをつけ、接客をする。
「いらっしゃいませ」
機械的に言葉は出てくるが、本心は面倒だと思っているせいか、まるきりやる気が感じられなかった。
「ええと、ここが『空や』で貴方が店主で良いのですか」
女性は首を少し傾けながら、質問をした。
特に隠す事でもないので、夭夭は普段通りに応対する。
「そうですが、どのようなごよ―」
「黒雲、災厄、八の魂をもって赤舌を顕現す」
「えっ」
「変異せよ、術を成せ」
突然現れた真っ黒な赤口は、大きさこそ吟目のそれより小さかったが、黒いドロドロした形に変容しており、危険度は倍増しに見える。
「はあっ?ちょっ」
「喰らえ、そして滅せよ」
有無を言わさず、女性は指示を下す。
黒い赤口は一直線に夭夭へと向かっていき、カウンターごと喰らいつくした。
轟音と共にぽっかりと大穴が空き、崩れ落ちてきた柱のせいでもうもうと煙が立ち上がる。
その様子に満足したのか、女性はくるりと背を向けて『空や』を出て行った。
迷いのないその行動は、夭夭が死んでいる事は確定事項であり、確かめる必要はないと言っているようだった。
「ちょろい、ちょろすぎるわ」
ご機嫌な様子で店の脇に立てかけてあった自転車に跨がると、颯爽と走り去っていった。




