六話 白い夏と黒い海(5)
― 9.覗きの目 ―
夏には、実に様々な妖が姿を現す。
蚊帳の網を切り裂いて悪戯する網剪という迷惑な妖や、木の上から落ちてきて人を食べる恐ろしい釣瓶落とし、はたまた寝ている間に枕の向きを変えたり、ひっくりかえしたりする反枕なんていう無害な妖も出没する。
妖の種類は多く、その対処方法も多種多様なので、いくら優秀な解師でもその全てに対応することは難しい。
「というわけですから、火間虫入道を追い払う道具なんて都合良く持ってはいないんです」
野衾の一件を解決して以来、丘の上の館へ妖退治を依頼しに来る人が増えた。
柿沼氏は、あくまでも母親と共通の知人だったから例外的に手伝っただけであり、闇雲に引き受けるつもりは毛頭なかった。
それなのに、どこで聞いたのか街の人々がひっきりなしに押し寄せてくる。
特に、今目の前にいる見知らぬ太ったおばさんは、質が悪い。
「そんな事いったってあんた、こっちは迷惑してるんだよ。有名な解師さまなんだろう?妖の一つや二つ、ちょちょいとやっつけておくれよ」
「無理です。地元の解師協会にお願いしてください」
「高いんだよ、あいつら足下みてやがるのさ」
「危険な仕事ですし、正当な代金でしょう」
「柿沼さんとこはいくらで引き受けたんだい」
「契約内容は明かせない事になってまして」
「同じ額でどうさね」
「すみませんね。道具が無いもんでやはり無理です」
三十分ぐらい前から同じやりとりを繰り返している。
あまりの粘着質に根を上げそうになった時、二階から杏奈が下りてきた。白いワンピースを纏っただけの気怠い雰囲気を漂わせている。
抜けるような色白の肌に、長い金色の髪を降ろしているせいか、まるで幽霊のようにも見える。夭夭ですら、一瞬ゾクリとしたほどなので、目の前のおばさんが硬直しているのも無理はない。
「夭夭兄さん、これ」
杏奈は、素足でペタペタと音を立てながら夭夭の後ろまでやってくると、おもむろに手にした瓶を持ち上げた。琥珀色をした瓶がおばさんと夭夭の間に差し出されると、おばさんは目を剥いて悲鳴を上げた。
「ひいぃっ!?」
光を受けて黄金色に輝く液体の中で、こぽりと眼球が動いた。
瓶の表面には舶来文字でなにやらかかれている。
「兄さん、母さまが火間虫入道を退治するのに使えるから、お渡ししなさいって」
「ああ、屏風のぞきの目玉じゃありませんか。これなら火間虫入道を退治できますよ、よかったですねぇ。さあどうぞ」
「ひ、ひいい」
瓶を受け取った夭夭が、おばさんの方へ差しだそうとすると、ズズッと後ずさった。夭夭が一歩踏み出せば、おばさんも一歩下がる。
「どうしました、使い方は簡単ですよ。火間虫入道は正体を知られたら消滅してしまいますから、見つけてしまえばお終いなんです。まず瓶から取り出して、次に『火間虫入道を覗け』と言えば終わりです。ほら、こうして…」
「ぎゃああ!」
夭夭が瓶から目玉を一つ取りだそうとすると、おばさんは転がるように逃げていった。
おそらく二度とここを訪れる事は無いだろう。そのかわり、おかしな噂が立ちそうではあるが。
「あはは、スカッとしたわね」
「杏奈さんも人が悪い。兄さんって私の事ですか」
「だって、どう見ても夭ちゃんの方が年上に見えるもの」
「そんな事してると、今度は隠し子説が流布しますよ」
「いいのよ、人生変化があった方が」
杏奈は、ころりころりと楽しそうに笑うが、彼女の口から人生という言葉を聞くのは、夭夭にとって辛いものがある。
「そろそろ若作りと言うのも苦しい実年齢だしね。いっそ杏奈は死んで、うり二つの娘が家を引き継ぎましたなんてことにしようかしら」
「杏奈さん、冗談でもそんなことは言わないでください」
「あら、それじゃ夭ちゃんが楽にしてくれる?」
首を傾げる杏奈に、答える言葉を持っていなかった。
覚悟を決めて臨んだはずなのに、いざその事を考えると怖じ気づいてしまう。
杏奈を永遠に失う衝撃は、自分で思っている以上に大きいのかもしれない。
彼女を失った時、果たして正常な精神状態を保てるのだろうかと自問自答する。
混乱してよろめいたところに、屋根からゆずが飛び降りてきた。
ドンと遠慮なく肩に降り立ったせいか、バランスを崩して落ちそうになる。
後ろ足を落としながらも、かろうじてひっかけた前足の爪でバリバリとシャツを掻いて這い上がる。
「ふう、危なかった」
「おや、ゆずさん。いつからいらしたんですか」
「つい今さっき来たばかりですとも」
絶対に傍観して楽しんでいたはずなのだが、そんな事はおくびにも出さない。
なるほど、気を遣われたのだとわかる。
そうなると、一人で悩んでいる自分が急に馬鹿馬鹿しく思えてくるから不思議だ。
ゆずに感謝しつつ、彼女の力を借りていつもの調子を取り戻していく事にした。
「なるほど。ところで、何者かに私のシャツが一瞬で廃品にされたのですが、ご存じありませんか」
「おやおや、ご主人を守って儚く散るとは、立派なシャツでしたね。盛大に供養してやりましょう」
「残念、守りきれてないようです」
「およ」
ゆずが視線を足下、すなわち夭夭の肩へと落とすと、そこにはじんわりと赤い染みが浮かび上がっていた。
「た、大変です。きょうてきがあらわれた!一体どこに」
「私の見たところ、素早い生き物でした。尾が三本ほど見えましたから、あれは狐科の妖かもしれません」
「あ、私知ってますよ。それは、家狐という恐ろしい妖です。狙った人間を吸血するという危険なヤツなのです。やいこら出てこい家狐め、夭夭さんの仇は私がとる!」
「死んでませんって」
こめかみを押さえる夭夭の横で、ゆずはシュッシュッと前足でぱんちを繰り出す仕草をする。
そんなやりとりを、杏奈は嬉しそうに眺めていた。
その日の夜、夕食を取り終えて自室に戻った夭夭は、三科に治療してもらった背中の傷を姿見に映していた。
息が詰まりそうで、世界が終わるかのような絶望感に取り込まれそうになったあの時、確かにゆずの声が聞こえたと思う。
直後に激しい振動と痛みがやってくると、そこにゆずがいた。
「ゆずさんには、助けられたな」
今年の四年目は、これまでの四年目とは違う。
杏奈と最後の別れをしなくてはならない。
反魂の術を解くために必要な事は、全て手に入れた。後は速やかに杏奈の魂を輪廻の環へと導いてやるだけなのだが、夭夭の心にはある言葉が引っかかっていた。
『理由はどうあれ、世間じゃ父親殺しは大罪だぜ』
母親殺しだとて大罪だ。
やはりこれは親に手をかけるという事になるのだろうか。
理屈と感情の間で揺れ動き、その瞬間を想像して何度も吐き気に襲われた。
空が白み始め、胃液以外何も出なくなってきた頃になって、ようやく疲れ果ててベッドに倒れ込むのだった。
― 10.葛藤の末に ―
夭夭が自室に籠もっている間、ゆずは館の回りを巡回していた。
今夭夭は弱っているので、せめて安眠ぐらい確保してやらなくては可哀相だと、地道に周囲の妖を排除していた。
つい先ほども厄介な目競という妖を追い出してきたばかりだ。15丈もの巨大な髑髏に見せかけたその妖は、ゆずカッタアで霧散したものの、細切れになった骨がしつこくまとわりついてきたのだ。
「全く、たかだか幻術使いの分際で、さっさと退けってんですよ」
ブツブツ文句を言いながら屋内の巡回へと切り替えようと二階のテラスへと飛び降りると、目の前に白い幽霊が椅子に腰掛けていた。
すわ地縛霊かと爪をむき出した瞬間、笑い声が聞こえてきた。
「あらあらあら、私ですよ」
「杏奈さん?」
「妖と間違われるなんて、私にも妖力が宿ったのかしら」
テラスで待っていたのは杏奈であった。
昼とは違うフリルの付いた白いワンピースで、冷たい紅茶の入ったグラスを手に微笑みかけている。
「丁度良かったわ。ゆずさん、少しお話をしませんか」
杏奈の声は優しげで、それでいて有無を言わせぬ迫力があった。どうやらゆずを待っていたらしいと察したので、無言で近くの手すりへと飛び乗り、ジッと観察することにした。
「そんなに見つめられると、恥ずかしいわね」
「いくら見ても、ただの人なんですね」
「そりゃあ、そうよ」
「死人でもないし」
「そうね、でも死人とあまり変わりないかもしれないわ」
杏奈は首を傾げる。
その顔は、不思議と寂しげではなかった。
そして唐突に、何気ない感じで尋ねてきた。
「夫に、吟目さんに会ったのでしょう?」
「…ええ、一度戦いました」
「相変わらず自由奔放ねぇ。迷惑をかけてご免なさい」
「私は夭夭さんを支えるだけですから」
ゆずはすまし顔で応える。
実際、ゆずにとっては吟目も杏奈も重要ではなかった。彼女にとって唯一にして無二な存在は仕える神を除けば夭夭ただ一人なのだから。
「うーん、それでもねえ。ほら嫁姑の確執は良くないじゃない。今のうちに謝って置こうと思って」
「はあそうですか。は?よ、嫁ぇ?何を言ってるんです」
「いやだって、夭ちゃんもそろそろお年頃だし、家に女の子連れてきたこと初めてだし」
「初めて、ですか…っていやそ事じゃなくて!私は女の子じゃありません。妖狐ですし、変化出来ないし、いやそういう事じゃなくて、だから何を世迷い言を」
慌てふためくゆずを楽しげに見ていた杏奈だが、ふとまじめな顔でゆずに話かけた。
それはもう、真剣そのものという顔つきだった。
「夭ちゃん、女っ気ないわよね」
「は?ま、まあそういえば人間の女性は…あまり周りにいませんかね」
「たぶん、あれよ。間違いないわ」
「ど、どれですか」
ゆずの喉がゴクリと音を鳴らす。
「幼女が好きなのよ。じゃなければ筋肉好きね、間違いないわ」
「…それは、無いです」
何かと思えば、とゆずはため息をもらす。
夭夭が幼女好きという事は無い。ましてや男色家という事も断じて無い。
それは短いつき合いでもわかる事だった。
「そう、じゃあ安心したわ。なら、相手はゆずちゃんで決まりね」
「だからどうしてそうなるんです。人間には人間の…」
「あら、人間と妖の夫婦、見たこと無い?」
ゆずの口がピタリと止まる。
確かに鬼女、カベ、雪女、ここのところ相手にしてきた妖達の相方は、皆人間であった。
しかし、それらの事例とは決定的に違うことがある。
「でも私は―」
「姿形は関係ないのよ」
ゆずの言おうとしていた事を、杏奈がぴしゃりと言った。
「そりゃあ、同じ種族同士の方が色々楽かもしれないけど。大変な分、何倍も喜びが大きいと思うの」
「いやいや、狐と人とか、そもそも出発点で無理があります」
「無いの」
「えっと」
「私がいなくなった後、夭ちゃんの魂を引き戻せるのは、貴女しかいないの。だから、どうか息子をよろしくお願いします」
杏奈は、深々と頭を下げた。
そこには、息子を思う母の一途な想いしかなかった。
「最近夭ちゃんの様子がおかしいのはわかっています。私を楽にしてくれようと、頑張っているのも知っています。きっと悩んでいるでしょうね。あの子は優しいから」
聡い杏奈にはもう判っている。
夭夭が何をしに来たのか、そして夫が何をしようとしているのかも。
「だから支えてください、夭ちゃんが一人になっても、潰れてしまわないように」
「支えることなら、できます。これまでと同じですから」
「そうね、きっとずっと支えてくれるわね」
「当然です」
「よし、言質は取ったわ」
「へ」
ゆずの顔がきょとんとしている。
耳がせわしなく動いているのは、嫌な予感しかしないからだ。
「一生添い遂げると聞いたわ」
「そんな事は言ってません!」
「似たような言葉だから、良しとするわ」
「するなっ」
「狐の格好だと白無垢は難しいかしら」
「いや、だから」
「結婚式に出席でき無いのだけが心残りだわぁ」
「人の話を聞きなさいってば!」
その後も杏奈のペースにはまり、明け方まで付き合わされたのだった。




