六話 白い夏と黒い海(4)
― 7.破滅との邂逅 ―
野衾はゆずが想像していたよりも、ずっと大柄な妖だった。
普通のコウモリより二回りは幅広だし、滑空してくるスピードも早い。
心配になって、隣の蜘蛛をちらりと見る。
土蜘蛛と呼ばれる妖のうち、別名で八束脛という特別に強い個体がいることは知っていたが、見た目は標準的な土蜘蛛とあまり変わらない。
顕現させるために使った妖力も僅かであったし、この程度の妖で本当に大丈夫なのだろうかと不安になる。
そんなゆずの心配をよそに、夭夭は満足げに八束脛を見ていた。
「いやあ、こんな立派なのは久しぶりに見ました。さすがはゆずさん、妖力を心配せずにドバドバ使えると違いますね」
「立派というか、妖力なんてほとんど使ってませんけどね」
「いや?八束脛なんて、わさびさんあたりが顕現させたら一発で昏倒する妖力ですよ」
いまや先輩のゆずを追い越して四尾のわさびが、この程度で妖力を枯渇させるだろうか。
ゆずは首を傾げるが、深く追求はしなかった。
「まあいいです。それよりも今は捕獲ですよ、捕獲!」
夭夭の肩でしっぽをふりふりしながら叫ぶ。
目的の妖は目の前なのだ。
ゆずの叫びに応じるように、八束脛が前足をブンと振る。
だが尖った足先が野衾を捉えることはなく、空を切る音だけが響いた。
ヒラリと交わした野衾が夭夭達の脇をすり抜けていく。
「うわあ、当たったら一撃必殺っぽいけど、避けるの簡単そう」
「はは、コウモリに当てるのは至難の業ですねえ」
「なにを暢気なことを」
「でも大丈夫、もう捕まりますよ」
宣言通り、野衾は再び襲いかかろうと方向転換したところで静止していた。
バタバタともがいているように見えるが、よく目をこらせば八束脛の吐き出した糸に絡め取られているのがわかる。
最初の大ぶりな一撃は、逃げる方向を誘導するためのものだったらしい。
「ええー、蜘蛛のくせに頭いいとかおかしいです」
「だから特別なんですってば、八束脛は」
夭夭は、満足そうに頷きながら絡め取られた野衾を捕獲した。
一度捕らえてしまえば、非力な妖なので、楽なものである。
妖力を封じる鳥かごに放り込んで、依頼完了だ。
「夭夭さん、それどうするんです?」
「そうですねぇ、生き血を吸われるのは困るので、存分に火が食べられる場所にでも移って貰いましょうか」
「そんな場所ありましたっけ」
「活火山の近くとか」
「なるほど。もしくは溶鉱炉とか」
物騒な事を言い始めた二人の雰囲気にあてられて、野衾はブルブルと震え始めた。
元来あまり人を襲うことは無い、臆病な性格なのだ。
何かに住処を追われたとか、食料が無くなったとか、それなりの事情があるはずだった。
目の前に鳥かごを持ち上げ、脅かさないように優しく笑顔を振りまく。
「怖がらなくても良いですよ」
「夭夭さんの笑顔って、時々怖いんですよね」
「なんて事を」
「だってほら、余計に怯えてますよ」
「そ、そんなはずはありません。少し落ち着いて見えますよ!」
「節穴ですね」
バチバチと火花を散らす夭夭とゆずだったが、先に折れたのは夭夭だった。
「ま、いいです。取りあえずはまた沖の街区にお任せしま―」
「夭夭さん!」
ゆずの叫び声と同時に、夭夭の頬を一本の矢が掠めていった。
その矢は、正確に鳥かごのすき間を通り抜け、野衾を射貫く。
短い悲鳴が聞こえ、夭夭が鳥かごを確認した時にはもう野衾の姿は淡い煙と共に消え去っていた。
「これは…」
解師が対峙した妖と和解することが不可能だと判断した時、つまり最後の手段として使われるのは妖の存在を滅する事だ。
人にも妖にも平等の立場を貫く解師だが、彼らとて人間である。どちらも譲れない場合に最終的に傾くのはやはり人の側だ。
故に、妖を滅する術も保持しているのだが、それに頼りすぎると半人前と誹られる事にもなるので、普通解師達の間で使われることは滅多に無い。
だが残念なことに、妖を滅することで生計を立てる解師達も僅かだが存在する。
彼らは解師を名乗ることを禁じられ、解師達には禁忌の対象となっているのだが、時にこうして依頼が被り邂逅することがある。
「ちっ、滅師ですか、面倒な」
「気をつけて、相手の距離です」
黒い頬被りをした男が、小さな弓を構えていた。
いくら滅師とはいえ、人を襲うことは無いだろうと思っているが、念のため八束脛の糸を前方に展開しておく。
すると、頬被りの男は争う意思がないことを示すように、弓を下げた。
ぱっと見、中年期であろうその男は、全身黒の不気味な服装をしていた。
しばらく無言で睨み合っていた二人だが、均衡を先に破ったのは男の方だった。
唐突に笑い始めると、頬被りを外しながら近づいてくる。
「やっぱり夭夭だったか。お前なかなか、優秀な解師になったじゃねぇか」
男の顔を見た瞬間、夭夭の肩がビクリと跳ねた。
そして同時にゆずが驚くほどの怒気が立ち上っている。
「それ以上、近づいたら、殺す」
「おいおい、物騒だな殺すなんて言葉、善良な市民に向けるもんじゃないぜ」
「お前には、解師協会から懸賞金が出ている。生死は問わないそうだ」
男がピタリと足を止める。
探るように夭夭の顔を眺め、そしてニヤリと気持ち悪い笑みを浮かべた。
「そりゃないだろ。俺を殺す?解師的にはよくても、周りの人間はどう思うかね」
「問題ない」
「そうか?理由はどうあれ、世間じゃ父親殺しは大罪だぜ」
ゆずの目が見開かれる。
慌てて見上げた夭夭の顔は、見た事も無いほど恐ろしい形相をしていた。
― 8.輪廻の環 ―
睨み合いが続く。
その時間で、ゆずは落ち着きを取り戻していた。
半分ほど白髪の混じった男は、夭夭の語った『吟目』という名の父親であろう。
妻である杏奈の元から姿を消した時は解師だったと聞いたが、今は滅師に身を落としているらしい。
それも協会から懸賞金をかけられているという事は、裏稼業の滅師だ。
そしてそれはまた、目の前の男が強いという証明でもある。
ゆずが関わりを持ってから三年間、懸賞金が新たにかけられたことも支払われた例も知らない。
つまり、吟目はそれ以上の長い間逃げ延びている実力者ということだ。
だというのに、こちらはあきらかに準備不足。
今回はさして脅威ではない妖相手ということで、大した道具を持ってきていないのである。
八束脛だけで対応できるかどうか、怪しいところだ。
「夭夭さん、ここは一度引いてく」
「八束脛に命ずる。その身をもって、行く先に楔を打ち込め」
夭夭がゆずの言葉を遮ってまで妖に何かを命じるなんて事は、極めて稀だ。
余程頭に血が上っているらしく、吟月の真正面から八束脛をぶつけた。
「ははっ、嫌われたもんだねぇ」
正面から飛びかかってくる巨大な蜘蛛に動じる様子も無く、吟月は腰から直刀を抜いた。
初撃の前脚は飛んで躱し、続く二撃目は刀でいなしている。
キチチ
八束脛から奇妙な音が発せられると、背中から無数の針が飛び出した。
視認するのも難しいほど細い針だが、妖力で強化されているため貫通力が上がっており、全身に無数の傷を付けていく。
吟目は、舌打ちしながら目を庇うしかなかった。
そしてそんな好機を見逃すはずもなく、八束脛は糸を飛ばして足止めを狙う。
強靱だが速度の遅い糸を動き回る的に当てるのは難しくとも、止まった的ならば容易い。
いとも簡単に吟目の全身を絡め取ると、丸かじりするべく近づいていった。
八束脛にしてみればいつもの必勝パターンだったのだが、滅師相手には少しばかり迂闊な行動でもあった。
「調子に乗んなって」
グルグル巻きにされた吟月だが、慌てず眼前に構えていた直刀へ呼びかけていた。
「振り払え、号水」
その言葉とともに渦巻く風が発生し、吟目に巻き付いていた糸が吹き飛ばされていく。
無防備に飛びかかろうとしていた八束脛は、突然の変化に一瞬身体を硬直させてしまう。
「青いねぇ」
流れるような動作で八束脛の胴体へと刃を突き入れた。
自らの巨体が仇となり、深々と直刀を受け入れることになった八束脛は、悲痛な鳴き声とともに紫色の体液をまき散らして暴れている。
だが、吟月が直刀をさらに深く差し込まれると、一本また一本と長い脚が力を失って垂れていき、やがてズシリと音を立てて地に伏した。
「伝説の八束脛てえからどんなもんかと期待したんだが…ま、こんなもんか」
ゆっくりと萎んでいく八束脛を前にして、吟月は笑っていた。
顔面から全身に紫の体液を被り、もはや人とは思えない壮絶な笑顔で直刀を振り、余裕の動作で鞘へと収めている。
「今日のところは見逃してやるよ。ぶっ殺しちまうと杏奈も悲しむ。それに、満月まではまだ遠いからな」
「反魂の術の完成、まだ諦めてなかったのか。何処までも救われない奴だ」
「あん?ああ、諦めてないっつうか、もう目処はついたぞ」
「何だと」
「喜べ、もうすぐ母さんが戻ってくるぞ。満月の夜に!ははは、杏奈が帰ってくる!俺の杏奈が!あははははは」
両手を広げ、狂気の叫び声を上げ続ける。
やがて笑い疲れたのか、夭夭の反応が無いことにつまらなくなったのか、再び唐突に笑いが止まった。
「なあ夭夭、お前も手伝わないか」
「寝言は寝てから言え」
「だよなあ。つっても満月までまだ時間はある。よく考えておけよ」
「考えるもなにも、俺の目的はお前と相反する」
「相反するってお前、まさか」
いままでふざけた態度しかとっていなかった吟目の顔が、急に曇った。
その目には憎悪の感情が浮かんでいた。
「全ての魂は等しく輪廻の環に在るべきだ」
「させねぇよ。杏奈は俺のもんだ」
一触即発の状態で睨み合う親子だったが、戸口からの賑やかな声によってその緊張が断ち切られた。
「なんだい、ばかでかい音ばっかりさせて。うちの庭が壊れちまうじゃないか。あん?ちょっとあんた誰だい、泥棒かい!」
「ちっ、面倒なのが来やがったな。とにかく、何があっても邪魔はさせねぇからな」
「こっちの台詞だ」
もう一度盛大な舌打ちを残して、吟目は姿を消した。
丘の上の館へと帰る途中、ゆずは逡巡していた。
どうしても聞いておきたい事がある。
しかし、聞いたところで、ゆずにはどうにも出来ない事でもある。
それを口にしてよいのか、ずっと考えていたのだ。
そんな時、ポツリと雨粒が頬に落ちてきたので、慌てて近くのバス停留所の軒下へと避難した。
それと同時にすさまじい雷が鳴り、豪雨が停留所を襲ってきた。
間一髪の所で、難を逃れた事に感謝しつつ、これをきっかけにして思い切って聞くことにした。
「それで、夭夭さん」
「なんです?」
「魂は等しく輪廻の環にっていうことは、やっぱりお母さまを」
「蘇生出来なくします。自然な形に戻すだけですよ」
「そう…ですか」
輪廻の環に戻すということは、今の不完全な蘇生を繰り替えす状態からの開放であり、すなわち完全なる死という意味である。
想像していたとはいえ、何ともやりきれない答えであった。
「それでも、私は…」
ゆずがポソリと呟いた一言は、あまりにも小さくて、夭夭の耳に届くことはなかった。




