六話 白い夏と黒い海(1)
― 1.空間が裂ける音 ―
『空や』の一室、夭夭が寝室に使っている部屋の隣には大きめの箪笥が置かれている。観音開きの扉を開くと、そこには普段滅多に着ることがない解師の正装と並んで、焦げ茶色の背広が吊されていた。
夭夭は、板張りの床にベルトやカフスを並べ、淡々と服を着替えていく。
細かな装飾が施された真っ白なシャツに袖を通し、ネクタイを締め終わる頃になると、柚子を食べ終わったゆずが音もなく部屋に入ってきた。
「夭夭さん、珍しい格好」
「窮屈なので、出来ることなら着たくないんですけどね。似合いますか」
「あんまり」
ふいと横を向いてしまったゆずに、夭夭は苦笑を漏らすしかなかった。
普段とは様子が違う夭夭に、面白くない雰囲気を感じ取っているのだろう。
「それよりも、そろそろお迎えの自動車が来ますよ」
「自動車!早く行きましょう、今すぐに」
高速移動を体験できる自動車という乗り物を、ゆずは大いに気に入っているようだった。もっとも、利用するにはまだまだ高額なので、頻繁に乗ることは出来ないが。
小さめの旅行用トランクとお土産の包みを手に玄関を出ると、真っ黒な四輪自動車が止まっていた。黒い洋服を着た運転手の男性が深々とお辞儀をしてくる。
「おひさしゅうございます、夭夭様とお狐様」
「初めまして」
「三科さんも、お元気そうで」
「さすがに私ももう、年を取りました。次は私の所にお迎えがきそうですな」
「まだそんな年じゃ…」
言い掛けて、口をつぐんだ。
三科に初めて出会った頃が五十代後半だったから、二十年近く経った今では平均寿命を上回っているはずだ。
「それよりも夭夭様、早速参りましょう。日差しも強くなってまいりましたので」
「よろしくお願いします」
三科に招かれて乗り込んだ車内は少し蒸し暑くなっていた。
窓が無いため、生ぬるい風が勢い良く入り込んできて、夭夭の眉間に皺を作っていた。
一方のゆずは、流れゆく景色を眺めているのが楽しいのか、肩に乗った尻尾を何度もパシパシとぶつけていた。
目的地までは、車で三時間ほど。
海を望む丘に、その館は建っていた。
「ゆずさん、到着しましたよ」
「んあう?」
ガッツリと膝の上で寝ていたゆずが、気怠そうに身体を起こす間に三科が扉を開けていた。
車から降りる時の靴が砂利を踏む音に、ゆずがひくりと鼻を動かしていた。
どうも洋服全般が嫌いなようだ。
車が置かれた駐車場から館まで、ブナ林の道が続いている。
木陰に覆われた石畳の道を抜け、白い石畳の階段を登っていくと、小さな洋館が姿を現した。
全て真っ白な壁に覆われたその建物は、屋根や扉、窓枠などが鮮やかなコバルトブルーに塗られている。
「随分ハイカラな建物ですね、夭夭さん」
「海が近いせいですかね。この辺りは異国文化の影響を強く受けてるんですよ」
「なんか、白すぎて眩しい」
「同感です」
夏の日差しを浴びて輝く壁に囲まれ、白い海に放り込まれたような錯覚を覚える。
この建物のモチーフとなった国では、ほとんどの家が白い壁で出来ている。
そこでは夕刻になると、炎のオレンジと屋根の青が織りなす不思議な世界が現れるという。
「それはそれは、美しい光景が見られるそうですよ」
「へえ、そうなんですか。ということはこの辺りは異国と同じってことですね。あ、壁に貝殻が埋まってますよ、ほらほら」
この国にはない異質な文化にゆずは興味津々だ。壁に近づいて匂いを嗅いでみたり、窓枠を爪で引っ掻いてみたりと、せわしなく動き回っている。
夭夭は、ただその様子をじっと見守っていた。
後ろで控えていた三科だったが、蝶を追いかけ始めたゆずを見てぽつりと零す。
「四年前、夭夭様から妖と暮らすと聞かされた時、仰天したものですが」
「可愛いでしょう」
「誠に」
どこまでも蝶を追いかけていきそうなゆずを捕まえ、館へ入った。
天井が高いせいか、中はひんやりと涼しい。
壁に飾られているオレンジ色の花は普段は見かけないもので、調度品もまた珍しい装飾が施されている。
初めて訪れた者は、まるでおとぎの国にでも迷い込んだかのように感じるだろう。
一風変わったロビーで待つこと一分。
バタバタと騒がしい音がしたかと思ったら、二階から青いワンピースを着た女性が駆け下りてくる。その女性は三科が制止するまもなく、夭夭へと飛び込んでいった。
「夭ちゃぁああん」
「ぐぉ」
強烈なダイビングを受け止めきれなかった夭夭は、豪快な音をたてて床に沈んだ。
のしかかるような体勢で覆い被さった女性は、金色の長い髪をさらりと垂らし、夭夭を覗き込むようにして微笑んでいる。小柄な体つきながら、出るところは大きく出ている、異国人にありがちな素敵仕様な体型である。
「三年も放っておくなんて、酷いわ。寂しかったんだから」
「ちょっと、ま…」
引きがそうと伸ばした手が、女性にがっちりと掴まれた。
見た目以上に力が強いらしく、夭夭の身体は完全に押さえ込まれている。
「逃がさないんだからね。暫く泊まっていくんでしょう」
「わかったから落ち着いて、杏奈さん。とりあえず離れましょう、私はまだ死にたくないんです」
「あら、どういうこと」
きょとんと首を傾げる杏奈の目に、異様な雰囲気を纏った狐の姿が映った。
その三本の尾は激しく床を打ち、後ろの空間を歪め始めている。爪の周囲に妖力の塊を形成し、凶悪なる『ゆずカッタア』を軽く凌駕する『ゆずブレヰド』がその姿を現そうとしていた。
「え、ええと、どちらさま、かしら」
「柚木神社のお狐さま、柚木ゆずさんです。それより早くどいてください、命があるうちに」
「あらどうして」
「ゆずさんが怒るからです」
「なんで?」
「なんでって…」
「あ、そう、ふーんへーえ、なるほど」
「まだ何も言ってませんけど!」
夭夭の叫びを無視した杏奈は、ゆっくりと身体を起こして立ち上がると、軽くワンピースを叩いて身だしなみを整える。
剣呑な雰囲気となっているゆずを前にして怯えた様子もなく、丁寧にお辞儀をしながら口を開いて自己紹介をするのだった。
「帆浪家へようこそ、柚木ゆずさん。私が夭夭の妻、杏奈です」
直後、夭夭はピシリと空間が裂ける音を聞いた。
― 2.峠の桃源郷 ―
「あんたはどうしていつもそう、厄介事を引き起こすんだ!」
「夭ちゃん怖い。そんなに怖い顔されたら、お母さん泣いちゃう」
「嘘つけ」
毒づきながら、腕に包帯を巻いていく。
ゆずの暴走を止めるために支払った代償は大きかった。愛する黒豚の置物『かつどん』を犠牲にし、奥義『豚無いで!(ぶたないで!)』を発動してもなお吹き飛ばされたのだ。
幸いにして、擦り傷程度で済んだのは僥倖であったが。
「夭夭さんその…すみませんでした」
「ああ、ゆずさんのせいじゃありません。母の阿呆な悪戯がいけないんです」
「阿呆とは何よ、失礼ね!」
「あんたは黙ってなさい!」
「はい」
しょぼくれる杏奈を見て、ゆずは申し訳ない気持ちになる。
確かにいきすぎた冗談ではあるが、それ以上に常識外れな行動をしたのは自分だからだ。
「い、いえ私のほうこそお母様に失礼を…お母さま…らしくないですね、本当に」
「まあ、今となっては私より年下ですし、違和感しかありませんよね」
「え、年下?」
夭夭の母、帆浪杏奈は今年二十一歳になる。一方の夭夭は二十七なので、どうみても妹か恋人あたりが適当だろう。
だが、杏奈が母親であるという事実は間違い無い。
「つまり、どういうことですか」
「話すと長いので、夜にでもまた話しますよ」
「まあ夭ちゃん、女の子と二人で夜に何をするつもりなの、いやらしい!」
「杏奈さんの口はちょっと緩くなっているようですね、少し縫い止めておきましょうか」
夭夭が内ポケットから裁縫セットを取り出すと、杏奈は慌てて両手を口にあてて塞ぎ、首を勢い良く横に振った。
丁度その時ティーセットを持って入ってきた三科が、サイドテーブルに紅茶を置きながら絶妙なタイミングで助け船を出した。
「夭夭様、ゆず様も初めての場所ですし、少し街をご案内差し上げてはいかがでしょう」
「ああ、そりゃいい。ゆずさん、行きましょう」
「私は構いませんけど」
チラリと杏奈の方に目をやると、瞳をうるうるとさせている。
折角久し振りに会えた息子(?)と、一緒に居たいという気持ちがヒシヒシと伝わってきた。
流石にゆずにも罪悪感が芽生えたのだが、そんな心の揺れを知ってか知らずか、ひょいと夭夭に抱き上げられてしまった。
「夕刻には戻るようにします」
「夭ちゃん、つれないよ!折角の親子対面なんだから、もっとこう感動的に」
「ゆうこくには、もどります、から」
「は、はい」
額が付くほど近くで言われ、その迫力に圧倒された杏奈は思わず返事をしてしまう。
押し切られた!と騒いでも後の祭りである。
プンプン怒りながらも玄関まで見送りに来ているあたり、可愛いものだが。
「あ、そうそう忘れてました。お土産です」
「んー、何か良い匂いが…あああ!? これはもしかして」
「ミンスパイ、でしたっけ。夾竹桃の六さん…って言っても知らないか。お馴染みさんに無理を言って作って貰ったんですよ」
「こ、こっちで食べられるなんて夢みたい!」
「オレンジなんとかが入手できなくて、代用したから心配だって言ってましたが」
「オレンジピールかしら、うん柑橘系なら大丈夫じゃないかしら。いい香り…三科さんすぐ頂きましょう。用意してくださる?」
母の扱いは心得ているようである。
飛び跳ねて喜ぶ杏奈と三科を残し、夭夭は街への道を下っていった。
道中で何度か街の人と出会ったが、和洋折衷というより異国情緒溢れると言った方が良いほど文化が違っていた。
ほとんどの人が洋服だし、歩く人の中にもちらほら異国人も混じっている。
そして建物も杏奈の館と同じように白い壁、青い屋根、青い扉が基本だ。
「なんだか、異国がそのまま移ってきたみたいですね」
「私は結構好きですよ。夏がすごく似合うでしょう」
「確かに。カラッと晴れた日には、気持ち良い街並みです」
漂ってくる潮風を感じながら、ゆずは目を細めて街並みを眺めていた。
山の斜面を切り開いて作った街は、坂が多く家が密集しているが、窮屈な感じは無い。
むしろ、光と影のコントラストが様々な場所に展開され、空間的な広がりを感じる。
そんな雰囲気を堪能していたら、急に夭夭が大きな声を上げた。
「お、貸し自転車ですか」
白い壁を四角く切り取った先の通りに、真っ黒な自転車が置かれていた。
看板に描かれている通り、それはこの街で唯一の貸し自転車屋。
坂が多いので、この街に住む人々にはあまり好まれない自転車だが、観光客達には案外重宝されている。
「海までは下り坂ですし、借りちゃいましょうか」
「でも夭夭さん、行きは良いですけど…」
「何事も勢いが大切なんです、気にしたら負けです」
ゆずとしても、以前から自転車には乗ってみたかった。
自分ではこげないが、夭夭と一緒ならさぞかし楽しいだろう。
「じ、じゃあ、お願いします」
「はっはっは、怖くなっても途中下車は出来ませんからね」
少しお高めの借り賃を支払い、自転車に跨がる。
海へと向かう道は適度な下り坂で、人通りも少ないので安心だ。
「それじゃあ、いきますよ。三・二・一」
「ど~ん!」
「うおりゃあ~」
重いペダルをひと踏みすると、ゆっくりと自転車が走り出す。
すぐに加速が始まり、心地よい風が顔を打ち始めた。
「おお、気持ちいいですね、ゆずさん!」
「んが!」
口を開けたり閉めたり、尻尾を左右に振ったり前脚を片方上げてみたりと、ゆずはとても忙しい。
自動車よりも、風を身近に感じるところが更に良い。
何より、夭夭と二人だけというのが最も良い。
「飛ばせ~」
「合点承知の助」
煽るゆずに応えるように、華麗な片足ブレーキを使ってコーナーを駆け抜けていった。




