五話 新緑狩り(4)
― 9.ささら、さら ―
祭り当日の朝、いつも通り半紙を確認し終えた夭夭は、のんびりと朝餉を頂戴していた。
正平はすでに準備のため出かけている。
加代もこの後炊き出しなどの手伝いがあるため、今朝は握り飯と味噌汁、漬け物という簡素な内容である。
「すみません、こんなものしか用意できなくて」
「いえとんでもない、お邪魔している身ですから。それにおいしいですよ、握り飯」
「正ちゃん用だから、少し大きいでしょう」
「そういえば両手持ちですねぇ、これ」
味は抜群だが、量が多い。
しかし残すわけにもいかないので、頑張って食べ続ける。
何とか味噌汁まで平らげると、満腹感で身動きがとれなくなっていた。
「あらあら、大丈夫ですか」
「ええ、ちょっとお腹が一杯になっただけで、あれ?」
「どうかなさいました」
「いえ、なんか急に眠気が…おかしい…な」
腹が膨れたにしては、眠気が襲ってくるのが急すぎる。
おかしいと気付いたときには、もう床に倒れていた。
加代の妖艶な笑い声が聞こえた時、夭夭は頭の中ぼんやりと何かを思い出そうとしていた。
(この笑い声、どこかで聞いた事があるような…何処だっけ…なんか寒かったような…)
薄れゆく意識の中で夭夭が見たのは、微笑んだまま正座する加代の姿であった。
カン コン ザー ジャー
打ち付ける音、波の音。
繰り返される音に導かれ、夭夭の意識は少しずつ水面へと浮上していく。
ある時ふと覚醒した。
目は開けられるが、何かをかぶせられているらしく、真っ暗だった。
横たわったまま口には猿ぐつわがはめられ、手足はきつく縛られている。どうせ縛らなくても、全身の倦怠感がひどくて動けそうにはないのだが、念の入ったことだと感心する。
(しかし、この音。まさかとは思うけど)
まだぼんやりとする耳に意識を集中していると、太鼓の音に混じって、ささらという楽器の音が聞こえてきた。打ち付けたり、こすったりすることで発する特有の音だ。
そしてこの楽器は獅子舞で使われるということも、知っている。
(ということは、目の前で獅子舞が行われてるのか、しかしどうして…あ)
獅子舞が行われている中で、人間のような物体が置かれていても違和感がないという状態を思い浮かべ、戦慄が走る。
もし夭夭の考えが合っていれば、身の危険が迫っている。そしてその時まで、わずかな時間しかないことが判ってしまった。耳に流れてくるのは、水括りの曲であった。
身じろぎをしようとしたが、指先一つ動かすことが出来なかった。
「なあ、加代。今年の供物、少し変じゃないか?」
「あらどうして」
「毎年使い古したカカシの藁人形でやってるのに、なんか妙に人間臭い形してるだろ」
「そうかしら。そういえば今井さんが、今年はカカシが全部カラスにやられて、使い物にならなかったって言ってたわよ。代わりに新品を作ったのかしらね」
「うーん、それに白刃からずっと置かれてただろ?いままでは水括り直前に用意されてたのに」
「いちいち運ぶと重いからじゃないかしら。そんなことより、そろそろ見せ場なんだから、静かに見ていようよ」
「ああ…うん」
しきりに首を傾げる正平の横で、加代は静かに微笑んでいた。
(本格的にまずいですよ、これは)
誰かの手で体を起こされた時、ほどなく獅子の歯が迫ってくるだろうことがわかった。練習で見た藁人形の光景が頭に浮かぶ。さすがに本物の人間を真っ二つにできるほどの力は無いだろうが、それでもたやすく命を奪う事は出来そうだった。
獅子の足音が近づき、遠ざかる。
なまじ練習を見てしまったから、今何を舞っていて、いつ襲われるかわかってしまう。焦りは倍増、恐怖は三倍増である。
(冗談じゃない、こんな見知らぬ土地で死ねませんよ!)
集落の全員がグルであれば、もう助かる見込みは無いが、一縷の望みに賭けて大声を出そうと試みた。
「何か聞こえなかったか?」
「なあに正ちゃん、今度は幻聴?」
「いや、聞こえたぞ。くぐもった悲鳴みたいな…」
正平はジッと供物を睨んでいる。
しかし急に大きくなったささらの音に、周りの音がかき消されてしまう。
「きっと疲れてるんだよ、ちょっと木陰で休みましょう」
「いや…やっぱり、動いてる!」
腕を掴んでいた加代の手をふりほどき、正平は走り出した。
何かおかしい、その疑惑は供物がわずかに首を横に振る様子を見た瞬間、確信に変わっていた。
何かの手違いで人が入っているのでは?
「おいっ、やめろ、中止しろ!その中には誰か―」
ガシッ
わずかに届かなかった。
正平が伸ばした手の先で、真っ黒な異形の獅子舞が口が閉じられた。
ビクビクと動く供物の下半身を正平が呆然と見つめていると、やがて黒獅子が正平へと向き直る。
「バカ野郎、なんてことしたんだ」
そうつぶやく正平に向かって、黒獅子は口をパカリと開けて言った。
「お前こそ大バカ野郎だろうが。大切な神事を中断させやがって、どういうつもりだよ!」
口から吐き出された供物は、傷一つついていなかった。
どうやら刃が外されていたようだ。
黒獅子を取り外して、出てきた男が正平に詰め寄る。
「後でたっぷり事情を聞いてやるからな。とにかく出て行け」
呆然とする正平が舞台から連れ出され、何事も無かったかのように水括りが進められていく。気がつけば供物も一緒に運び出されていた。
ぼんやりと包みが開けられていくのを見ていた正平は、中から出てきた人物を見て驚きの声を上げる。
「村長!」
「いやあ、失敗失敗。動いてしまったかな」
中から出てきたのは、上機嫌に笑う村長であった。
事情を聞いてみれば、今年がこの集落で行う最後の獅子舞になるかもしれないので、何らかの形で参加したいと村長自ら申し出たのだそうだ。周囲からは危ないからと止められたのを押し切って、供物役をかって出たという。
「もう正ちゃんは、いっつも早とちりするんだから」
「そんな事言っても、聞いてなきゃ勘違いするだろ!」
「ははは、すみませんでしたな。動くな喋るなと言明されていたんですが、どうやら虫に刺されたらしくて、腕に激痛が走りましてね。いやお恥ずかしい。思わずうめき声をあげてもがいてしまいました」
恥ずかしそうに持ち上げた腕は、確かに赤く腫れていた。
「すんませんでした、せっかく村長が参加してくださったのに、滅茶苦茶にしてしまって」
「いやなに、これもまた思い出になるというもんです」
ペコペコと何度も謝罪し、加代と共に祭りの本部へと戻ってきた。
そこは空き家を利用した簡易本部であったが、お茶や菓子が置かれていてちょっとした休憩所も兼ねている。ぬるい茶を口にして、一息ついた正平に加代が塩菓子を手渡す。
「ちょっとは落ち着いた?」
「ああ、何でか急に気持ち悪い感覚に襲われてな。身近な人が大変な目にあってるようなそんな感じでさ」
「やっぱり疲れてるんだよ、横になったら」
「ああ、そうする」
ゴロリと畳に横になった正平に、加代は膝枕をしながら団扇でそよ風を送る。
「なあ、加代」
「なあに?」
「今年は村長さんが参加するって、少なくともあいつらは皆知ってたんだよな」
「そりゃあ獅子舞する人たちは知ってたんじゃないかしら」
「そのわりにはさ」
「ん?」
「下手くそだったんだよな。気迫とか、全然感じられないってか、もっと凄く上手い奴らがいたはずなんだけど…」
「もう、下手とか言ったら失礼だよ、みんな頑張ったんだから」
「そうかな」
「そうよ」
「そうか」
それきり正平は黙したまま目を閉じた。
― 10.かいしかえす ―
「うーーーー!」
夭夭は顔を真っ赤にし、有らん限りの力で叫んだ。
その直後、もの凄い爆発音とともに左頬に何かが勢い良くぶつかってきて、バランスを崩して倒れてしまう。
ふんぐーと抗議の雄叫びを上げていると、頭を覆っていた布がビリビリと引き裂かれる音がした。差し込んでくる光の中、白い天使がそこにいた。
「ふふふん」
「笑ってるようにしか聞こえませんよ、夭夭さん」
ぺしりと尾で夭夭の猿ぐつわを断ち切ったのは、ゆずだった。
突然乱入した狐に、獅子舞も驚いたのか舞を中断している。
ゆずが牽制しつつ足の縄を切っていく間も、にらみ合いは続く。
「いやあ助かりました。ゆずさんが白馬の王子様に見えましたよ」
「ふつう逆じゃないですか、そういうの」
だが両手足が自由になったとはいえ、状況は良くなかった。狭い洞窟のような場所で、明かりは薄暗い蝋燭のみ。十数人に囲まれ、そのうち少なくとも一人は殺傷力のある刃を持っているのだ。
「体のしびれは取れてきましたけど…どうしましょうかね」
解師としての技は妖に使うものであって、決して人に使うものではない。だが、目の前の人達は確実に夭夭を殺そうとしている。術を使わずして逃げ出すのは難しいだろう。
どうしたものかと思案していると、突然黒い異形の獅子舞が、ガクガクと震え始めた。
震えは瞬く間に大きくなり、四肢が千切れるのではないかというほど、暴れ始める。
周りにいた者もはじめのうちは呆気にとられていたが、黒獅子が隣のささらを持っていた男に噛みついたところで、我に返った。
ささらの男が、肩口から滝のように真っ赤な血を振りまいて絶命したのを見た別の男が、奇声を上げながら洞窟の出口に向かって走り出す。
「うわああ!」
カッ カッ カッ
獅子舞が口を閉じる音が何度か響いたかと思うと、逃げ出した男の頭部が綺麗になくなっていた。空中を飛ぶように移動した黒獅子は、華麗に着地してから男の頭部をゴロリと吐き出す。
「う、ひいぃ!」
「あひゃ、ひゃ?」
「だすげで、かあちゃん」
腰を抜かす男、洞窟の奥へと逃げ出す男、ケタケタと薄気味の悪い笑いを上げ続ける男、泣き出して太鼓を振り回す男。
今までの厳かな神事が、一転して狂気の渦巻く修羅場と化してしまった。
「何が、どうしたんです」
「たぶん夭夭さんを食べようとして失敗したせいで、妖が暴れてるんでしょう」
「妖…なんていましたっけ」
「今まさに顕現するところですよ、ほら」
ゆずが前足を突き出した先で、黒獅子が咆哮を上げた。
その口から、ずるりと姿を現した妖は、猿の顔をしていた。
「冗談でしょ?」
猿の顔にトラの脚、鵺そのものであった。
まさに銅像が生命を持って動き出したかのようだ。
伝説にもなっている妖が当然現れたのだから、いくら夭夭といえども平静で居られるはずもない。
ちょっとどころか、相当手に余る相手だ。
あまりの出来事に固まっている間に、また一人男が鵺に食べられていた。
体調が万全であっても手に余るであろうバケモノ相手に、現状では退治どころか封印すら無理だと判断した夭夭は、即座に思考を逃走へと切り替えた。
使えそうな物が無いかと周りを見回すが、ささら、太鼓、供物の野菜、壁面の蝋燭ぐらいしか無い。
(ささら…砂皿…河童にしか使えない!太鼓…帯固って帯じゃ強度不足、没。野菜…大根?大棍?折れる、却下。蝋燭を蝋足で足止め…力不足)
瞬きをするような僅かな時間で検討を繰り返したが、鵺相手に役立つ物は見つけられなかった。
その間にも暴走した鵺による虐殺は続いている。
辛うじて致命傷を避けた男が、左腕から血を流しながら夭夭の後ろに転がり込んだ。
「あ、あんた解師なんだろっ。あのバケモノを倒してくれよ!」
男が叫ぶと、我も我もと男達が夭夭の後ろへ集まってくる。
生け贄にしようとした男にすがれる根性は、呆れるのを通り越して、いっそ清々しかった。
「阿呆か。自分でどうにかしろ」
しがみつかれた着物の裾を引きはがしながら、乱暴な言葉で切って捨てる。
しかし、このままではいずれ夭夭にも危険が及ぶのは間違い無いところだ。兎にも角にも、この場から逃げるための足止めが必要だった。
冗長な術を行使している時間はないので、急場を凌ぐ簡易な術を行使することにした。
急いで懐から青い魚の絵が描かれた半紙を四枚取り出すと、ふわりと宙に放り投げる。
夭夭がパチンと指をならすと、紙から魚が浮き出してきた。
物理的な力には弱いが、妖力には滅法強い『妖力青魚《せいぎょ》』という半紙で、大変使い勝手が良い。
顕現に必要な妖力も少なくて済むうえ、簡単な命令ならば聞いてくれる。
「できるだけ長い時間、鵺を足止めしてください」
魚達は、ぼんやりとした光を放ちながら鵺に向かって飛んでいき、その周りをふわふわ浮かんで注意を引きつけてくれた。
「死にたくない奴は、勝手に逃げろ!」
夭夭にしてはめずらしく大声で叫ぶと、くるりと反転して全力疾走する。
これが彼にできる最大に譲歩だった。
積極的に助ける気には到底なれないが、さりとて見殺しにしたのでは寝覚めが悪い。
自分の中での妥協点が、先程の台詞であった。
クスリの影響を残した脚を叱咤しつつ必死の形相で出口へと向かった。
そして後ろから追いかけてくる村人達も、恐怖を貼り付けた顔で懸命に走っている。
振り返る勇気のある者は一人もいなかった。




