五話 新緑狩り(2)
― 3.湖に沈む村 ―
複数の言い争う声がわずかに聞こえてくる。夭夭は、寝ぼけまなこで布団から起きあがり、身支度を整えながら部屋の四隅に張った半紙を剥がして回った。
ところが、四枚目の半紙を剥がしたところで、首を傾げてしまう。どれ一つとして妖に反応した形跡が無いのだ。たとえ妖との棲み分けが進んでいる都会であっても、一晩過ごして小さな妖一つ紛れ込んでこないという事は考えられない。
『空や』のように神社の強力な結界に護られた場所ならばいざ知らず、このような民家では起こりえない現象であった。
帯を締めるのも忘れ、ウンウン悩んでいると、背後でゆずが動き出す気配がした。
「夭夭さん、お早うございます」
「あ、ゆずさんおは―」
「ふおおぉ!?」
突然飛んできた枕が、振り向いた夭夭の顔面を直撃する。
半裸であることをすっかり失念していた。慌てて帯を締め直し、乱れた髪を直してから改めて挨拶をし直す。
「ゆずさん、お早うございます。どうもお見苦しい物を」
「だだ、大丈夫なのです見苦しいとかむしろ予想より凄いというか何を言ってるのかアレですけどソレはつまりああそうです朝だからに違いないわけで早くゆずを食べないとゆずを食べるゆずを食べちゃうとかきゃあああ」
「ゆずさん落ち着いて。息継ぎをしないと」
「ぐはあ」
苦しそうに息継ぎをした後、徐々に落ち着いていくのを見届けてから『空や』の柚子を取り出す。半紙の問題は後でゆずと一緒に考えようと思い、柚子を優先することにしたのだ。
頬を染めながらはっしと両前足で柚子を掴み、丸かじりを慣行するゆずの姿を堪能してから、木戸を引き開けて外の様子を確認してみる。
遠くの方で人の塊が出来ていた。
先ほど夭夭の眠りを覚ました怒声が、再び聞こえてくる。洋服を来た役人風の男達と和服の老人を囲んで、村人らしき集団が騒いでいるのがわかった。
農具など武器になりそうな物は手にしていないし、部外者が口出しするほど無粋な事はないので、しばらく黙って様子を見ることにする。
やがて、村人の集団が二つに分裂し始めた。糾弾する側と、それを押さえようとする側だ。場が混乱したのを切っ掛けに、役人風の男達は足早に去っていったというのに、村人達はまだ揉めている。
「何があったんでしょうかね、ゆずさん」
「村おこしで都会から女をさらってくる計画が失敗したんでしょう。和服の男は村出身の大物政治家なんですよ。二十人の女を誘拐して嫁にするため、村から多額のお金をもらっていたのに、三人しか集まらなかったので約束が違うと詰め寄られていたわけです。」
「朝から衝撃的な作り話はやめてください」
布団をたたみながら、口を尖らせて非難した。ゆずが言うと冗談か本気かわからないところが恐ろしい。以前冗談だと思って聞き流していたら、後に真実だったと判明したこともあるので、一応本当に作り話ですよねと確認は取っておく。
「さて、そろそろ落ち着きましたかね」
頃合いを見計らって居間へ出て行くと、丁度正平が外から戻ってきた所だった。遠目でよく見えなかったが、彼は仲間を押さえる側のだったように思えたので、大変でしたねと労っておく。
「いやはや、恥ずかしい所を見せちまったかな」
「外部の方ですか?洋服でしたし」
「役人だよ。あとうちの村長」
洋服であたふたしていたのが役人で、和服の男性が村長ということらしい。朝飯を頂きながら聞いたところによると、この付近一帯をダムにする計画があるのだそうだ。そうなれば当然この集落も湖の底に沈む。
村のほぼ全てになる約一千世帯が対象となり、この集落の住民も来年には別の場所へと移り住むよう勧告があったばかりだ。
「けどなぁ、先祖代々受け継がれてきた土地を離れるってな、そう易々と出来るもんじゃねえのよ。村長もそのくらいはわかってんだけどな」
「でも国の計画を受け入れたと」
「ああ。あと何十年もすれば下流にある首都は、間違いなく人で溢れかえる。その時必要になるのは水と電気だ。未来の首都を支えるためにも、我々が今やらなけりゃいかん。ってまあこりゃあ村長の言葉だけどな」
ぱっと聞いただけでは、それが利権がらみの私利私欲なのか、先見の明があっての英断なのか夭夭には判断がつかなかった。
どちらにしろ、一千世帯が湖の底に沈むという事実は変わらないし、気軽に決められることでもないだろう。
「それで、正平さんはどちらの立場なんですか」
「故郷がなくなるのは、誰だって嫌だろ」
「すると、反対ですか」
「いんや」
意外にも正平はダム計画に賛成だという。
ダム建設による地元経済の活性化や、観光地としても収益などもあるが、何よりも未来の首都を支えるという夢に協力したくなったのだそうだ。
「騙されたっていいんだよ。結果して国の発展につながるならよ。生きていけんなら、土地にこだわることもねぇ。なあ、加代」
「私は、正ちゃんがいるならどこでも大丈夫よ」
「ば、馬鹿その名前で呼ぶなって」
妻の加代が、からかうようにコロコロ笑う側で、正平は照れ隠しするようにメザシを頬張っていた。
― 4.初夏のむし ―
夭夭は水括りの獅子舞の予行演習を社の境内からジッと見守っていた。
解師であることを伝えた神主から是非にと招かれ、気乗りしないまま演習を見る事になったのだが、いつの間にか獅子舞の世界に引き込まれていた。
水括りの獅子舞は、動きと唄に神力が込められており、今となっては失われた神事としての性格をしっかりと持っているからだ。
見入っている夭夭の邪魔をしないよう、神主は黙したままでいたが、舞が終わると静かに声をかけてきた。
「いかがでしたかな。河乃村の獅子舞は」
「綺麗ですね、本当に」
夭夭は、祭り当日の情景を想像していた。
地平線に日が沈んだ直後、どこまでも透明な浅黄色に、茜色の雲が混じった薄暮の空。
かがり火の薪が爆ぜる音がする中で舞う水括りの獅子舞は、さぞかし幻想的であろう。
「しかし、何故水括りというんです?あと、一体だけ獅子舞の造形が違うように見えました。なんというか、こう顔なんかは」
「猿みたいでしたか」
「ええ」
顔が猿、胴体は狸、手足は虎。
これだけ揃えば、少し妖をかじった者ならピンと来るだろう。雷獣とも呼ばれる鵺の姿だ。雌獅子を奪い合う雄獅子達を、最後に諫めるのがこの鵺の役割なのだという。
しかし、神主にも何故鵺が出てくるのかは分からないらしい。気になってゆずに視線を向けると、何やら考え込んでいるようで、全く反応が帰ってこなかった。
いずれにしても、祭り本番を見なくてはと思いを強くする夭夭であった。
その夜、慣れない畑仕事や薪割りを手伝ったせいで悲鳴を上げている筋肉を、早めの五右衛門風呂でゆっくりと揉みほぐしていると、ビィービィーとかすかに虫の声が聞こえてくる。コオロギでも鈴虫でもなさそうだし、なんだろうと耳を澄ませていると、加代から夕餉の支度が整ったと声をかけられ、慌てて風呂を上がった。
「そりゃあエゾスズじゃねえのか。黒くてちっこい虫だよ」
「はあ、色々いるんですねえ」
「初夏の夜は五月蠅ぇからなあ。ヨーさんみたいな都会人にゃ厳しいかもな」
「なんですかそのヨーさんっていうのは」
「名字は堅苦しいし、名前は呼びにくいからヨーさんにしたんだよ」
「間抜けな感じがするんですけど」
「ぴったりだろ」
「あなた、失礼ですよ」
笑い声と蚊取り線香の香りが柔らかく夭夭を包み込んでいた。夕餉の後、正平達夫婦に、障子をはずした夏座敷で夕涼みをしようと誘われたのだ。
麦茶で喉を湿らせ、団扇で夜の冷気を胸元に送り込んでやると、心地よい気分に満たされていく。
「いい夜だ」
「いい夜ですね」
正平は気さくな男だ。出会ったばかりだが、おそらく表裏のない真っ直ぐな男だ。
仕事外で作る人間関係は心の均衡を保つのにとても重要だ。できれば今後も付き合っていきたいと思ってしまう。むしろ、ここを拠点にしても良いと思ってしまうくらいだった。
ただ、こういう暮らしも悪くないなあと思う自分がいる一方で、わずかな違和感を感じていることも事実だった。
その違和感は、浴衣の帯を締め直し、部屋の四方に半紙を貼り付けている時に益々大きくなっていった。
「顕現はしているはず、なんですけど」
ふわふわと魚が宙を泳ぐ姿が見えるので、結界も正しく作用しているはずだった。
だが、なんとも心許ない感触なのだ。
「ゆずさん、何故かわかりますか」
神社以来ずっと無口なゆずに問いかけてみたのだが、枕元にちょこんと座わり窓の外を見つめたまま動かない。
気になる事でもあるのかと頭を撫でてみると、僅かに目を細めただけで見つめる先は変わらなかった。
「あまり抱え込まないようにして下さいよ」
いくらゆずが神の眷属とはいえ、お膝元から遠く離れるとその力は大きく制限されてしまう。いつもならいらぬ心配だが、ここでは十二分にする必要がある。
一人で解決しようとせずに、相談してくれという意思表示だったが、返事は無い。
仕方ないですねぇとブツブツ言いながら布団にもぐり込むと、ゆずの前脚に触れてお休みを告げた。
その時、ふと綺麗な鼻筋が夭夭へ向けられたことに気付いた。
半紙の放つ淡い青の光が、ゆずの毛並みを幻想的に青白く浮き上がらせている。
夭夭は、何かを伝えるかのような美しい瞳に、ただただ見惚れるのだった。
― 5.わさびの力 ―
「結界というよりは…逃げ出したって感じですね」
朝起きて半紙を確認していた夭夭は、しっかりと帯を締め直してから独り言を呟いた。
当初は集落全体が何らかの結界に護られているのかと思っていたのだが、その場合でも以前から集落に住う妖は半紙に引っかかるはずだった。しかし、相変わらず今朝も半紙には一匹の妖も痕跡を残していない。
それに結界の中で、さらに結界を顕現させることは出来ないが『静寂の暴魚』は顕現している。
これらのことから、結界に護られているのではなく、付近から妖が一斉に逃げ出したと考える方が腑に落ちる状況だった。
「何か、あるんでしょうねえ。やはり」
ちゃぶ台の上で『空や』の柚子を丸かじるゆずを横目で見る。朝の挨拶は普通だったが、再び思考の海に深く沈み込んでいるようだった。
仕方なく独り布団を片付けていると、勢い良く襖が開いて正平が飛び込んで来た。
「お早う!起きたかい。ヨーさん」
「例え寝てたとしても、その声で起きますよ」
「起きてたんだから、いいじゃねえか。まあ聞けよ」
理不尽な事を豪快な笑いで押し通すところが、正平らしい。
苦笑いをする夭夭の前に、ドカリと胡座をかいて座る。手に持っているのは麻の布袋だ。
「一体何事です」
「美味い蕎麦が食いたくねえかい」
「は?蕎麦?」
「美味い蕎麦には何が必要だ」
「酒ですか」
「ちっがーう!山葵だよ、わ・さ・び!」
一瞬ゆずの耳がぴくりと動き、顔が向けられたのがわかる。
「山葵の力ってな凄いんだぜ。うちのは水山葵でな、渓流にあっから収穫すんのが大変なんだけどよ、蕎麦を何倍にも美味くしてくれんのさ。何よりも―」
正平の解説に熱が入りはじめたころ、ゆずがフラリと部屋から出ていった。これまで外で夭夭から離れることなどまず無かっただけに、その行動に夭夭は内心もの凄く驚いていた。
そのせいか、正平の話も上の空で返事をしてしまい、気が付けば長靴をはかされて山葵田へと駆り出されるハメになった。
「ということで、ゆずさんのせいですよ」
「それは、責任転嫁というものです」
夭夭は、歩き慣れない獣道をヒィヒィ言いながら登っている途中で、ゆずに愚痴をこぼしていた。スイスイと遙か先を歩く正平を恨みがましく見上げるが、待ってくれる様子は無い。
「それで、ゆずさんの用事は済みましたか」
「だいたいのところは」
「それは良かった」
深く追求することはしない。ゆずが確信を持ち、伝える必要があると判断したら、必ず話すだろうと思っている。
「それはそうと、夭夭さん随分遅れてますよ」
「これ以上早く歩けるもんですか!」
ぜひぜひ喘ぎながらも、なんとか目的地にたどり着き、そこでバッタリと倒れた。ひんやりとした空気が、火照った身体を冷ましていく。
足下から沢を流れ落ちる水の音が響き、サワグルミの枝の間からチラチラと光が踊る様子を見ていると、わずかに気力が戻ってくるようだった。
「情けねぇなあ。都会人は」
「いやいやいや、都会人とか関係ないと思いますよ。正平さんがおかしいんです」
「こんくらい、子供でもできらあな」
「ならその子供もおかしいんですよ」
「なんじゃそら」
しばし転がりながら正平の動きを眺めていた。
斜面に広がる天然のワサビ田は、山から滲み出す湧き水に覆われ、見事に育っている。その中から根の太いものだけ慎重に選び、引き抜いていく。
夭夭も何本か収穫を手伝ったが、結局ほとんどを正平が行ってしまった。
「ところでだ」
「なんでしょう」
「ここまで来て、山葵だけ採って帰るなんてなあ、素人なわけよ」
「はあ。これ以上何をするんです?」
「決まってんだろ、せっかくの山葵だ。アレを食うのよ、アレを」
「アレですか」
「アレだ」
一時間後、櫛に刺された岩魚がたき火の周りに並べられていた。そして脇の方では小振りな岩魚がこんがりと焼かれている。
道中、何故山葵を採るのに竿が必要なのかと尋ねたのだが、秘密だと教えて貰えなかった理由が、ようやくわかった。つまるところ、この男は人を驚かし、そして喜ばす事が好きなのだ。
「山葵で食う岩魚は最高だろ」
「美味いですね、これまでで最高に美味い」
お世辞抜きで、心の底からそう思う。
それほど岩魚と山葵の取り合わせは良かった。それにカリカリに焼いた小振りの岩魚を使った骨酒も。帰り道が心配なので夭夭は控えめにしたが、持ち帰ってまた飲みたくなるほどの味だった。




