四話 鉄鼠
今回は、これだけで完結のお話です。
カウンターの上で、ゆずの頬はヒクヒクと引き攣っていた。
身体は硬直し、脳がいくら指令しても尾一本すら動かすことが出来ない。血の気が失せた顔で見つめる先には、一枚の絵が置かれていた。
見かねた夭夭がそっとゆずを胸に抱き上げると、ようやく硬直した身体へと精気が戻ってくる。
「やっぱり駄目ですか」
「無理無理無理無理無理、全然無理です」
「絵でもそれとは、本当にゆずさんの鼠嫌いは筋金入りですねぇ」
困った顔でゆずの頭を撫でる。
カウンターには、大きな鼠の妖を独りの武士が退治している絵が置かれている。
ゆずの目に入らないよう、その絵を片手でひっくり返すと、飲みかけの焙じ茶に口を付けながら椅子に腰掛けた。
昨日六が持ち込んだ話は、鉄鼠と呼ばれる鼠のあやかしが絡んでいる可能性が高い。鉄鼠とは、恨みを持ちつつも絶命した僧侶が化けた妖と言われているため、知能も高く狡猾だ。
それだけでも厄介だというのに、ゆずがこの状態では妖力も期待できないだろう。そうなると解決の見込みは極めて薄い。
なにより、ゆずに無用な負担をかけたくは無かった。
「今回は見送りですかねぇ」
頭を撫でる度にみよりと伸びる細い目を見て癒されていると、珍しく来客を知らせるドアの開く音がした。それと同時に鈴音稲荷神社で拾った『遠音の鈴』の音が店に鳴り響いたことで、夭夭の意識がカチリと切り替わった。
りり、りん
普段は鳴らぬ鈴が清らかな音を発する時は、妖力を持った者が侵入した事を意味する。
ゆずを撫でる手を止め、扉へと目を向けると和装の女性が独り佇んでいた。
「いらっしゃいませ」
ゆっくりとカウンターから立ち上がった夭夭の首には、いつのまにかゆずが巻き付いていた。先ほどまでのおびえた様子など微塵も感じさせず、ただ静かに招かれざる客をジッと見つめている。
女性は一通り店内を見渡すと、ゆっくりと夭夭の方へと歩みを進めた。
この女性、不気味なことに一切足音がしない。
「何かお探しですか」
「ええ。年若い美しい山伏さまを」
女性の返答に、ぽかんと口をあけてしまう夭夭。
まあ骨董店に来て山伏を所望する客というのは、人生で初めてなのだから、仕方が無い。
「うちは骨董店なので、なまものは売ってません」
「夭夭さん、夭夭さん、これ安珍・清姫のくだりですよ」
ゆずがそっと耳打ちをする。
安珍・清姫伝説とは、熊野参拝に来た美形の僧侶に一目惚れした清姫が夜這いをかけて迫るが、体よく騙されて逃げられた事に腹を立てて蛇に化けて焼き殺すというものだ。目は血走り、髪を振り乱し、裾をまくって裸足で安珍を追いかける清姫の挿し絵は大人が見ても恐ろしいもので、夜トイレに行けなくなること請け合いである。
「さすがゆずさん、学がありますね」
「夭夭さんが、妖に疎すぎるんです」
「しかし、そんな恐ろしい妖が、一体うちに何の用です。出来れば穏便にお引き取り願いたいんですけど」
「あは!噂の『空や』がどんなものかと気負って来てみれば、蛙みたいに怖じ気付いてるじゃないか。所詮男なんてみんなそんなものなんだわ!さあ、さっさと『空やの柚子』とやらを出しなさい」
和服の女性は、ちろりと赤い舌を見せる。口元からは焔が見え隠れしていた。ギョロリと見開かれた目が夭夭を睨みつけると、上半身が蛇へと変化していった。
身じろぎせずその変化を見守っていた夭夭を、怖じ気づいたと取ったのか、蛇女は横柄な態度で話し続ける。
「大人しく差し出せば、命だけは助けてあげる」
「柚子を使って何をするつもりです?」
「一口食べれば膨大な妖力を得るっていうじゃない。それで全ての僧侶を喰らい尽くすのよ」
「そんな物騒なことに使われるのは、お断りですよ」
ふうとため息をつきながらカウンターに伸ばした夭夭の手には、一本の『羊羹』が握られていた。鉄鼠の話をした時に六が持参した土産で、後でいただこうと楽しみに取っておいたものだった。
蛇女は羊羹を見てキョトンとしているが、首に巻き付いたゆずの目は誤魔化されない。
また禄でもない言葉遊びを考えているに違い無いからだ。
「夭夭さん、一応聞いておきます」
「なんですか、ゆずさん」
「それ、羊羹ですよね」
「いえ、栗羊羹です」
「…」
ゆずは思う。
飄々した態度で羊羹を蛇女に向かって差し出す姿が、ちょっと格好が良いだけに尚更始末が悪い。羊羹では駄目で、栗羊羹?とてつもなく下らない言葉遊びに違いない。聞かずともすぐにわかることだと諦め、ゆずは妖力を差し出すことにした。
「何をコソコソと話し合ってるのよ。イチャつくんじゃないわよ!何よ、どいつもこいつも。こうなっったら店ごと焼き払ってやるわっ」
「ちょ、冗談じゃありませんよ」
焦った夭夭は、蛇女が暴れ出す前にと慌てて術を行使する。
「雪すさぶ凍土の姫、依り代をもってかの妖力を凍らしめよ。ちょっと勿体ないですが…繰妖寒、そうあれかし」
突然視界が真っ白な雪に覆われ、何も見えなくなった。
雪の山奥に投げ込まれたような感覚をおぼえ、夭夭はたたらを踏んでしまう。その時、足元からギュッと雪が圧縮される音が鳴り、思わずぎょっとした。
どうやら、術者を巻き込み、五感全てを歪めてしまうほどの幻覚を生み出すあやかしを顕現してしまったらしい。
(あ、あれ?私ちゃんと『姫』って言いましたよね。小さな雪の精を呼んだはず、なんですけど…一体どうなってるんでしょうか)
相変わらず、ゆずの妖力を使うと事が大きくなると苦笑する。しかも今回は自分にも影響を及ぼすので、タチが悪い。慌てて結界を張ろうと懐から黒豚を取りだそうとするが、指が思うように動かない。そうこうするうちに、言葉を発することも出来なくなっていた。
(こりゃ、ちょっとヤバいのを呼んでしまいましたかね)
抵抗しようにも、夭夭程度の妖力では太刀打ち出来そうになかった。
薄れゆく意識の中で、高笑いする妖艶な女の声を聞いたような気がした。吐く息が凍り、次第に肺が浸食され始めると、安らかな眠りがやってくる。
そして、世界は凍てついていく。
「夭夭さん!」
ブラックアウト寸前、怒気を孕んだゆずの声が世界を切り裂く。
わずかに聞こえた女の悲鳴と共に羊羹が破裂すると、氷の世界が一瞬にして消え失せ、『空や』の風景が戻って来た。ゆっくりと五感が正常に戻っていき、首に巻き付いたゆずの温もりが命を実感させる。
「げほっ」
「大丈夫ですか。よかった、戻ってきましたね」
「死ぬかと思いました」
「自分の術に巻き込まれるなんて、どうしたんです。夭夭さんらしくない」
「はは」
私はそんなに凄くないんですよ、と心の中で呟く。ただ、ゆずの妖力が巨大であり、それをうまく制御するための言葉遊びを知っているというだけの事で、夭夭自身は平凡な解師の才能しか無いと思っている。
「面目ない。それで、蛇女はどうなりました。ああ、さすがに凍ってますね」
「そりゃ雪女なんて大物を顕現させたんですから、当たり前です。相変わらず容赦ないですね」
「それは私のせいじゃ…まあいいです」
店の中を見回すと、特に壊れた物はなさそうだった。雪女の術は生物や妖にしか影響を及ぼさないのだろう。後かたづけをしなくて済んだのは不幸中の幸いだが、氷の彫像となった蛇女の後処理を考えなくてはならない。
頭を悩ませていると、大声をあげて駆け込んで来る男の姿があった。
「大変だ!」
「あ、六さん」
息を切らせて飛び込んできた六は、すぐ横に立つ氷の彫像にも気が付かないほどの慌てようだ。まずは椅子に座らせて、冷たくなったほうじ茶を飲ませる。
「そんなに慌てて、どうしたんです」
「大変なんだって、夭ちゃん。さっき話した鉄鼠が、誰かに喰われちまったんだよ!」
「ああ、その件はお断りしようかと思って―え、喰われた?」
「そうなんだよ、まあ聞いて驚くなよ。鉄鼠ってのはもともと僧侶の怨霊が巨大な鼠になったって言われてるわけなんだが、こいつが何かに追われるように逃げ回ってる姿が目撃されたらしいのよ。でだ、何と追い回してる奴ってのが…」
「あ」
「あ」
「な、なんだよ、夭ちゃん。ゆずちゃんまで変な顔して」
「いえ、何だか顛末がわかってしまって」
「彼女、生まれ変わってもまた裏切られたんですね。ちょっと同情します」
キョトンとする六をよそに、二人は氷の彫像に向かって憐憫の情を込めた視線を送るのだった。




