エピローグ
わたしには世界と天秤にかけられる程大切な人はいないし、身を切られるほどの辛い永遠の別れもまだ経験していない。料理をはじめとする家事は、やったことがほとんどなくて出来ないし、アルバイトの経験もない。これといった特技も才能もない。
あるのは、時間と未来の可能性。たったそれだけ。
「でもね、それでいいと思えたんだ。それに、「聞き上手」ってのは才能と言えなくもないじゃない」
予備校のない日を訊きだし、―夏休みに入って以来なので―約半月ぶりに会った彼氏―嵯峨悠仁―に、この二ヶ月ほどにあった出来事を語ると、わたしはひとまず彼の反応をうかがった。
「そうだね。そこに気付けるなんて、いい体験が出来てよかったじゃないか。それに、周りもいい人がたくさんいてうらやましいよ。おれの周りは大学受験でギスギスした奴ばっかりだからさ」
こういう、他人のことでもちゃんと喜んで祝福できる所が好きで彼と付き合っていることを再確認できて嬉しかった。
「それなら、嵯峨くんも今度『和』においでよ」
そう言って誘ってから、言いにくかった本題に入る。
「あのね。それで、その……和佳ちゃんと話してから決めて、親とも相談したんだけどね」
怖くなり途中で言葉を切って表情をうかがうと、悠仁は「ん?」とだけ首をかしげてから笑顔で先を促した。
「……わたし、パ、お父さんの所に行くことにしたの」
緊張のあまり、つい普段通り「パパ」と言いそうになってしまった。流石にこの状況でそれはないだろうと慌てたけど、悠仁は気にした様子もなく
「火口のご両親って、確かニューヨークに転勤しているんだよね?」
と訊いてきた。
「うん。だから、向こうの大学に留学しようかと思うの」
別に日本の大学でも何ら不都合はなかったけど、だったらいっそ完全に新天地に旅立ってしまうのもアリかも知れないと考えたのだ。それに、ずっと離れて暮している両親に対する親孝行にもなる。と思ったというのもあった。
「そうか」
怒るわけでも、どうでもいいわけでもなさそうに悠仁は呟いた。
「だから『別れて』って言っているわけでも、逆に『待っていて』って言いたいんでもないの。ただ、その……」
自分でも、悠仁に何を言いたいのか解らない。
ただ、留学はもう決定事項であると、それだけは伝えたかっただけで。
「未来は誰にも判らないしね。なるようにしかならないさ」
その一言に救われる。出来るなら彼とずっと一緒にいたいとすら感じた。けれど彼の言うとおり、「未来は誰にも判らない」 だから
「嵯峨くん。わたしね、カウンセラーを目指すことにしたの。応援してくれる?」
それだけを告げる。最後の一押しを彼からもらいたいと思ったから。
「大丈夫。火口なら、立派で誰もに信頼させるカウンセラーになれるに違いないさ。適職だよ」
彼の笑顔と力強い言葉に勇気をもらう。
「ありがとう。嵯峨くんも受験頑張ってね。勉強以外の相談にならいくらでものるよ」
「勉強はだめなのかよ」
「だって、わたしより成績がいい上に塾にも通っている人に、何を教えられるっていうのよ」
「それもそうか」
こんな、些細で穏やかな言い合いができるのはいつまでだろう。
「先は判らないんだから、今を精一杯楽しめ。ただ、先はちゃんと見続けるんだぞ」
悠仁はわたしの考えを見抜くのが上手い。だから、彼といる時のわたしには不安になるヒマはない。
「何それ。矛盾してない?」
笑って返す。でもその通り。未来のために、今を精一杯生きよう。
「先、かあ。さしあたり、和佳ちゃん達の赤ちゃんの性別でも賭けようか。生まれる頃はまだ日本にいるし」
出産予定日は2月なので、多少遅れようと余裕で卒業前だった。
「お。いいね。それじゃおれは―」
「また孫が男の子だったら優耶さんが嘆きそうだから、わたしは『女の子』の方ね」
悠仁の言葉をさえぎって選んでも彼は怒らない。
何だか、そんな余裕な様子が悔しくて、今度わざと怒らせてみようかとも思ったがすぐにやめた。下らない上に、不愉快なことに時間を割くよりなるべくなら楽しく過ごしたい。
「なら、おれが『男』だな。何賭ける?」
「そうねぇ……」
できるだけ長く、この幸せが続きますように。賭けの代償を考える振りをしながら、そう祈ってみた。
結局、賭けはわたしの勝ちで、優耶さんにとって初の女孫は「幸果」と名付けられた。
「変わった名前だね」
と、名付け主で父親になった恒くんに言うと、
「字面はいいだろ。それに、千佳姉から音もらったんだよ」
と返された。確かに、「幸せの果実」だと思うと可愛い気がした。
「そっか。そうやって、受け継ぐことで続く未来もあるんだね」
生まれたばかりの幸果ちゃんの顔をのぞき込みながら、「死」は終わりだけど終わりじゃないのかもしれないな。そんな風に考えた。
△▼
終わらない。
形を変えて続いてゆく。
けれど、同じものは二度と生まれない。
「だからわたしはたった一人。他の誰でもない、かけがえのない、それぞれ違うところを持った。この世に生きる総ての人が、そんなたった一人の君。
そう気付かせてくれた人達がいる。だから、次はわたしの番」
fin




