表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/8

クローズドサークル

「もしもし正己? 和佳です。悪いけど、今日うちの夕食頼める?」


ある梅雨の最中の夕方。和佳は正己に夕食の依頼の電話をかけた。

3歳の時に母を病気で亡くし、姉の成実と共に仕事で手一杯だった父に代わり木佐貫家や火口家で面倒を見られていた正己が、「自分に出来る事」として料理を始めたのは、小学校で家庭科が始まった頃だから、かれこれもう7~8年前のことになる。


『ん~。いいよぉ。ちょうどこれから買い物するとこだったんだ。何食べたい?』



大学を卒業したはいいが就職が決まらなかった佳大に、親は所有するマンションの一つである深草第一の管理人となり、家賃は総てやるから、それを使って喫茶店を運営しろと命じた。以降九年間、どうにかやっていけているのは、フォロー役の和佳が付いていたからに他ならない。

けれど和佳は当時高校三年生で、大学受験はどうにか校内推薦で地元の大学に入れたものの、就職活動は兄の面倒を見る片手間では少々無理があった。そのため、夕食を週の半分ほど正己や昭栄の母に委託し、今もその名残が残っている。


「それは何でもいいけど、二人分多くお願いしたいの」

『了解。お客さんでも来るの?』


その客が何者かによって作る内容も変わってくるだろうから、それは当然の質問だった。


「客、というか、姪と甥…『わかった! それじゃ!』


ためらいがちに和佳が答え終わる前に、勢いよく通話を切られた。


「…絶対何か妙な勘違いしたわね。あの子」


正己の得意技は「聞き間違い」と「早とちり」。しかも何故そんな方向に考えが及んだのか解らないことが大抵だが、この時の内容は和佳にはアリアリと想像できたのだった。





帰宅した和佳が乾燥機から出した洗濯物をたたんでいると、まず昭栄が帰ってきた。そしてその数分後。


「ひろ兄の隠し子もう来た  」

「……あぁ、うん。やっぱりこうきたか。そうだよね」


駆け込んでくるなり開口一番予想通りのことを言った正己に、和佳は頭を抱えたくなった。


「どしたの和佳ちゃん? ねーえー、まだ来てないの? いくつ? どんな子?」

「え? 和佳ちゃん? 何隠し子って?」


着替え途中で、制服のスカートのままの昭栄までもが、部屋から顔を出した。


「いや、あのさ。お兄ちゃんの子じゃなくて―」



    ピンポーン



息巻く女子高生二人に圧倒され、和佳が説明―というより弁解―し始めようとした矢先に、チャイムが鳴った。


「……2人ともちょっと待ってて。――はい。どなた様ですか?」

千明(ちあき)です。カギはもうもらってますけど、荷物運び込んじゃっていいですか?』


インターホン越しに聞こえたのは、話題の当人の声。


「別にわざわざ確認しに来なくてもよかったのに。ああ、でもちょうどいいわ。ちょっとあがっていって。どうせ荷物そんなにないし、車出してるのも父さんかハルでしょ?」


口頭で説明するよりも実際会わせるのが早いと考え、ドアの向こうの人物を招きいれた。


「そこのスーパーの袋抱えてるのが、今日の夕食を作ってくれる隣の金城さんちの正己で、制服のスカートのままなのが、うちで預かってる火口昭栄ね。ちなみにあんた達に貸した部屋の、前の住人の娘さん。……きえ、マサ。この二人がうちの姉の子で、千明と千治(ちはる)


ざっくりと紹介すると、女子高生二人は目を丸くして固まっていた。一方そういった反応をされることに慣れているらしい千明は、にっこり笑って挨拶をした。


「こんにちは。和佳さんの姪の水嶋千明です。こっちは双児の千治くん」


尚も二人は固まっている。しかしそれも仕方のないことだった。何しろ


「すいません。あの、チアキ…さん達年齢は……」


少し間が開いて、ようやく口を開いたのは昭栄だった。


「秋で20歳ですよ。えーと、『きえちゃん』でいいのかな?」

「あ、はい。構わないです」

「そっか。なら、私のことも、さん付けとかしなくていいよ」

「……和佳ちゃん、お姉ちゃんいたの? しかも二十歳の子供いるってどんだけ歳離れてんの? あとさ、ワタシ一回も――」

「やほー。ウチのボケマサが迷惑かけてない?」


ぎこちなく和気あいあいとし始めた「あき」二人と、和佳に詰め寄る正己の問いをさえぎるように、成実が入ってきた。


「ナルさん久しぶりー」

「久しぶりて、三日前に顔見てんじゃんかチャッキー」

「それはナルさんがお店来てただけでしょ。あの時は珍しく忙しかったから、本当に顔見ただけじゃないの。あと、いつも言ってるけど『チャッキー』はやめて」

「いいじゃん別に。所で、そのシャツ、色も素材も、ものっすごい下と合ってない」

「あぁ、そうだ。るーくん。これ返す。もう寒くないし、このままだとるーが風邪引くよ」


千明は明るい青のワンピースの上に羽織っていたモスグリーンのシャツを脱ぐと、後ろで黙っている千治に手渡した。そこまでの一連の会話を聞いていた正己は、今度は姉に詰め寄った。


「え? 何? なっちゃん知り合い? しかも結構仲良し?」

「千明『(なごみ)』の店員だしね。それに、きえが越してくるちょと前までは、年に何度かこっち来た時に一緒に遊んでたから」


喫茶「和」は佳大の喫茶店で、成実は週に何度か入り浸っていたが、高校生二人はあまり行かない。だから店員である千明を、成実が知っていて二人が知らないのは無理もない。それは解る。しかし、


「……覚えてない。あと、何であきちゃんが引っ越してくる前まで?」

「ま、10歳児と6歳児の記憶力の差ってやつだな。しかも6歳児はアンタみたいなボケ娘。でもってアンタ二人のこと『和佳達の従妹弟』だと思ってたみたいだし」


そりゃねぇ、ガキにタラちゃんとワカメちゃんの関係は理解できないだろうし? と付け加えた成実は、妹のもう一つの問いには答えなかった。


「後でちゃんと詳しい説明するから、とりあえずマサは買ってきたものを冷蔵庫に入れに一旦帰って、きえは 着替えを終わらせなさい。双児は荷物を運び込んじゃって、ナルは……好きにしてていいか」


事態を収めにかかった和佳の表情は、何故か少し苦々しげだった。



△▼



改めてその日の夕食時。木佐貫兄妹と昭栄、金城姉妹におまけの恒平という、いつものメンバーに双児を加えての場の話題は、やはり双児の両親についてだった。


「姉さんは千佳(ちか)ちゃんで、お義兄さんは冬希(ふゆき)さん。知り合ったのは、実は僕らが生まれる前なんだよね」


双児の父である水嶋冬希は、大学に入学してから父親が倒れたとの報せを受けて九州の実家に戻るまでの10年程を、木佐貫家が所有する別のアパートで暮らしていた。その頃に木佐貫姉弟と土屋兄弟(恒平には少し歳の離れた兄が二人いる)と知り合い、何かと世話を焼いていた千佳と、彼女が高校に入学した辺りから付き合いだしたのだという。


「お姉ちゃんはお兄ちゃんと8歳、あたしとだと13歳違いで、高校卒業後すぐ結婚して、20歳で二人を産んだの」

「冬希さんは千佳姉の更に一回り上だったから、よく叔父夫婦だって勘違いされてたな」

「母さんと冬希お義兄さん、9歳しか違わないものね」


つまり双児誕生時の各々の年齢は、祖母41歳・父32歳・母20歳・叔父12歳・叔母7歳だったわけである。

そして、このように並べた限りでは、義理の親子よりも姉婿と末っ子の差の方が誤解原因に思えるが、実はもう一つ要素があった。


「しっかも夏帆(かほ)と冬希だしなぁ」


木佐貫三姉兄妹の名前には全員「佳」の字が付くのだが、文字で書かれたものを見ないと少々判り難い。

それは「かほ」の「か」が夏の字なのも同じことのようだが、木佐貫家の門柱には



木佐貫 義高

    夏帆



という表札がかかっているので、「かほ」=「夏帆」として認識されていることが多く、そこに「ふゆき」ときたら「冬」の字を浮かべ、姉弟だと誤解するに到ったわけである。


「実家が温泉旅館でね。世間一般がお休みの時に忙しい仕事だから、長いお休みの時は私達だけこっちに預けられていたんだ」


金城姉妹と遊んだのは主にそういった時にだった。


「ん? あれ? もしかして『ち”や”ちゃん」と「はるくん』?」


和佳の話を聞いている内に、正己が何か思い出したような声を出した。


「そうだよ。アタシが千明のこと『ちゃー』って呼んでたから間違えて覚えてたんだろ。どうせ」


何故か成実は妹にキツイ。そしていつも通りに正己が姉に食って掛かる前に、和佳が話題を逸らす―と言うより元に戻す―ように


「何しろ九州だからそう気軽には行き来できなくって、お姉ちゃん達がこっちに来るのは一泊二日で年に一、二回って所だったから、マサが覚えてなくても仕方ないよ」


と言えば、恒平と佳大が


「おまけに、チビ共をお前らと遊ばせて親二人は実家でまったりしてること多かったしな」

「姉さん達もたまの休み位はゆっくりしたかっただろうし、母さん達と積もる話もあったみたいだからね」


等々大人サイドの事情を付け加えた。



「ところでー、何であきちゃんが引っ越してきて以降千明ちゃんたち来てないの?」


何気ない正己の問いに、場の空気が凍った。

あえてそこに触れるのを避けていた大人3人が固まり、成実は苦々しげな表情になって一瞬妹を睨みつけてから天を仰ぎ、痛みを堪えるように顔を伏せた千明を、千治が庇うように自分の肩に引き寄せた。


「僕、かな。一番詳細まで覚えているのは」


自分が失言したらしいことしか判らない正己と、どうしていいかわからずオロオロと周りの様子をうかがう昭栄に、アイコンタクトで相談したらしい大人組の内、最年長の佳大が重い口を開いた。



「端的に言うと、事故で亡くなったんだ。今から11年半前の、1月9日。……家族4人で乗っていた車が猛スピードで曲がってきた車に正面衝突されてね。運転席と助手席の姉さん達はほぼ即死。後部座席の二人はハルくんが重傷を負いはしたけれど無事で、その後半年近く入院していた」


そこまで言うと、佳大は一度双児の表情を窺った。千明は千治の腕にしがみついてぎゅっと目をつぶっていて、千治は千明を気遣うように見下ろしていたが、一瞬顔を上げ目線だけで先を促した。


「旅館は、冬希義兄さんの妹さん夫婦が継いで、退院後は隠居した水嶋のお祖母さんと暮らしていたんだけど、そのお祖母さんも、二人が中学生の時にお亡くなりになって、今度はうちの両親が引き取ろうとしたんだ。だけど、『二人だけでやっていける』って断られたんだ」


千治にしがみついたままの千明から、「別に、おじいちゃん達と暮らすのが嫌だったわけじゃないの」と呟く声が聞こえた。


「でも、母さんたちにとっては唯一の孫で、かつ娘夫婦の忘れ形見なわけだから、その主張は聞き入れたくなかったわけよ。それで、色々揉めた結果『目の届く範囲で暮らす』『何かあったら自分たちを頼る』を条件に、二人暮らしを許したの」


現在双児はかつて冬希が暮していたアパートに住み、千治は祖父の知人の自動車修理工場、千明は「和」で働いていることでその条件を満たしているらしい。


「今回しばらくこのマンションで暮らすことになったのも、それが理由なんだ」

「アパートの隣の部屋が小火出して、こいつらの部屋の一部も燃えたんだと。それで、工事終わるまで実家かここか選べって言われたそうだ」


木佐貫兄妹の実家は、マンションから徒歩十五分ほどの場所にある一軒家である。


「何で、恒くんがそこまで知ってんの?」


はたと気が付いた正己が、訝しげに問うた。過去のことを知っているのはまだしも、何故最近のことまで。という意味らしい。


「ああ、それはな『恒、どうせヒマでしょ。荷物運ぶのに車出したげて』と、夏帆さんに有無を言わさず命じられた時に聞いたからだ」


木佐貫家(双児含む)では、男性陣よりも女性陣の方が圧倒的に強い。そしてその中でも最強を誇るのが夏帆で、彼女は自分の身内だけでなく、時に土屋兄弟でさえ顎で使う。曰く

優耶(ゆうや)とは友達だし、忙しい時に面倒見たのあたしですもん。半分息子みたいなものじゃない」

だそうである。因みに土屋三兄弟の母・優耶は和佳の勤め先の総合病院で外科医をしており、夏帆とは学生時代の知人である。


「さ、これで事情は解ったでしょ? この話はこれでおしまい。さっさと食べ終えて、お風呂入っちゃいなさい。アキ達はまだ部屋の片付け残ってる? 残ってるなら、お兄ちゃんでも恒でも好きに手伝わせちゃっていいわよ」


場の空気が少し和んだのをきっかけにして、和佳が締めに入った。けれど、それまで黙って話を聞いていた昭栄が、一つ引っかかりを覚えていたことを口にした。


「千明さんが『アキ』だからわたしを『あき』って呼ばないの?」

「え?」

「まぁちゃん以外、わたしのこと『きえ』って呼ぶじゃない。ずっと不思議だったの。ここのみんな以外にそんな風に呼ばれたことないから」


実は11年間ずっと気になっていた。とは言えないのが昭栄の性格である。


「うーん、あたしは意識したことなかったわ。最初の頃は『昭栄ちゃん』だったし」

「僕もここ任されるまではあんまり関わりなかったからなぁ」


昭栄の葛藤に気付かず、兄妹が正直な所を呟けば


「ナルだろ。そういう変わった呼び方考えんのは」

「あー覚えてない。でも多分そう」


などと平成コンビがどうでもよさそうに返した。


「恒平くんは今でこそ『千明』とか『アキ』って呼ぶけど、前は『ちゃー吉』だったよね」

「そういやそうだな。ちゃー吉とハル助にナルとマー坊だったな。確か」

「何でなっちゃんだけ普通なの? しかも恒くん今もあたしだけ『マー坊』じゃん」


どうも浮上したらしい千明がまぜっかえせば、正己が恒平に噛み付いた。そんなやりとりを見ている内に、昭栄は自分の長年のわだかまりが実はどうでもいいことなのではないかと思えてきた。




これが一つ目。



▽▲



「いらっしゃいませー。おや、きえちゃん。珍しいね、どこ座る? 空いてるよー」


双児が深草第一に身を寄せ始めて最初の日曜日。昭栄が喫茶「和」を訪れると、本当に働いていた千明が、満面の笑みで迎えてくれた。


「え、別にどこでも・・・」

「……静かにコーヒーが飲みたい。まったりしたい。誰かと交流したい。どれ?」


単に本当に千明が働いているのか見たかったのと、よく考えると殆ど「和」に来たことがなかったからたまには……と思っただけで、それ以上の明確な目的のない昭栄が口ごもると、早口で端的な選択肢が投げかけられた。


「あ、えっと、まったり?」

「じゃあ、窓際の席はほとんど空いてるから」


ほぼ反射で返せば、「それ以上は自分で選べ」という意味を込めた指示をされる。


「う、うん。ところで、他の選択肢だとどこだったの?」

「静かにだったら奥の角。交流したいんだったらカウンターに常連さんいるからその隣。かな。はいメニュー」


その指示に従いながらふと湧いた疑問を口にすると、やはり少し早口の答えが返ってきた。


「えーと、今日のおすすめで」

「今、メニュー見てないでしょ。ダメだよ。さっきの席のこともだけど、そんな主体性なさすぎなのは」

「え、でも・・・」


常日頃「佳大はコーヒーを淹れるのだけはうまい」といった類のことを和佳・恒平・成実辺りから聞いている昭栄的には、「多分どれを頼んでも美味しいのだろうからコーヒーの種類は判らない以上、おすすめでいいや」といった考えに到るのは特におかしなことではない。そのため、千明に責められて多少困惑していると


「例えば、ナルさんは『すっぱいのは嫌だ』って絶対にモカは飲まないし、常連の平さんはバナナ嫌いなんでバナナが入ってるのは頼まない。エドさんの席は大抵カウンターの端っこで、愛子さんはそばアレルギーだから念のためハチミツがアウト。それからえっと…とにかく、他にも人それぞれ何かしら好みはあるもんなんだから、とりあえず考えようとしてみなさいな」


少々早口気味とはいえ、解り易く例を羅列して千明は説教を続けた。


「……。そういう言い方、和佳ちゃんそっくり」


もちろん言われた内容も理解したが、それ以上にパッと見は全く似ていない叔母と姪の共通点に驚いてつい声に出してしまった昭栄に、今度は千明が目を丸くした。


「和佳さんと似てるって言われたのは初めてだわ。……うん。いつも夏帆ばぁやお母さんに似てるとは言われるけど、やっぱり和佳さんはなかった」


確かに、千佳のことは知らないが、夏帆と千明とは顔立ちもしゃべり方もよく似ている気がする。けれどそれ以上に、昭栄たちにとって馴染み深いのは和佳の方で、


「その、例とか選択肢をポンポンって挙げて言い聞かせる感じが、同じだと思うの」

「あぁ、そうなんだ。私としては、そういう所は完璧に夏帆ばぁ譲りだって気がしてた。…お母さんもそうだったからさ」


つまり木佐貫家の女性の特徴ということだろうか。そんな風に昭栄が考えていると、声が聞こえていたのか奥から佳大が顔を出した。


「それねぇ、多分母さんに似たっていうのもあるけど、僕や父さんにイラついたっていう説もあるみたいんだ」

「大さん『説』って、誰が言ったのよ」

「ん? ああ、恒くんが姉さんと和佳ちゃんに叱られてる僕を見て」


とぼけたしゃべりの佳大と、それに突っ込みをいれる千明の会話は、やはり普段の大和兄妹のものによく似ていると昭栄は思った。


「だったら、私は何なのよ。義じぃとも大さんとも滅多に会わなかったじゃないの」

「アキちゃんの場合はハルくんじゃないかな。ハルくんがしゃべらない分ってことで」

「あ、確かにそれはあるかも。るーの意思確認するのに、沢山訊いてた時期あるしなぁ」


ここでまた一つ、昭栄は引っ掛かっていたことを口にしてみた。


「千明さんって、千治くんのこと『るーくん』って言うんだね」

「まあ、ね。けど、私以外はそう呼んじゃダメよ?」


口調は軽いのに、薄く笑う千明の笑顔がとても怖く昭栄の目には映った。




△▼



喫茶「和」を訪れた翌日の月曜日。昭栄は家のカギを忘れたことに学校に着いてから気が付いた。

普段カギを忘れた時の対処法は


1.マンションから徒歩五分の「和」の佳大に借りに行く

2.兄妹のどちらかが帰宅するまで金城家に転がり込む(姉妹のどちらかがいる場合限定)

3.15分歩いて木佐貫家(実家)にカギを借りに行く

4.恒平にカギを借りる(家にいるかバイト先が近い場合のみ)


のどれかである。しかし喫茶「和」の定休日は月曜日で、月曜の昭栄は午前中しか授業がないが、金城姉妹は二人共夕方過ぎまで学校。そのため、1、2番の選択肢は不可。4番は、恒平の今のバイト先は若干遠いので却下。3番も、夏帆か義高が在宅しているか分からないので、あまり確実ではない。となると全滅のようだが、休みの日の佳大は大抵の場合家にいる。だから、この日も大丈夫だと思っていた。けれど、予想に反して彼は出かけており、カギもちゃんと閉められていた。となると他にどうしようもないので、実家の方の木佐貫家に行こうとしたが、そこでふと階下の千明のことを思い出した。


3年近く前まで自分の住んでいた部屋のチャイムを昭栄が鳴らすと、ややして「……はい」という千治の無愛想な声がインターホン越しに返ってきた。


「あ、えっと、火口です。カギ忘れて、今日はひろ兄も出掛けてるみたいで家に入れないから、誰か帰ってくるまで置いてもらえないかと……」


昭栄がしどろもどろになりながら申し訳なさそうに現状を訴えると、ドアが開き仏頂面の千治が顔を出した。


「メイ寝てるから静かに」


内心「無表情で、ぶっきらぼうな口調が常態だと判ってても、やっぱりちょっと怖いな」などとと思いつつ、とりあえず部屋に上がった所で、千治と会話をするのは初めてではないかと気がついた。まず機会も話題もなく、千明がいる時は彼女が千治の分まで先回りして喋るからだ。

そのため部屋に上げてもらったはいいが、互いに黙りこくっていて何となく息苦しく感じた昭栄は、ひとまず最初の数分は、以前自分達が住んでいた頃と今の部屋の違いを観察してみた。それで判ったのは、一時的に身を寄せているだけだからなのか、元からなのかは知らないが、物が異様に少ないことと、両親の部屋だった和室で千明が寝ているらしい事くらいだった。

次に、さり気なく千治の観察をしてみた。黙って本を読んでいる彼を見て判ったのは、昭栄が知っている彼の親族―母方の祖父母・叔父・叔母・姉―の誰とも似ていないことだけだった。ちなみに、千明は祖母の夏帆とよく似ている。

そして、ヒマをつぶすための本は持っているが、今日の登下校の電車で読み終わったばかり。携帯ゲームは校内持ち込み禁止。携帯電話は電池残量が微妙。となれば、本当に手持ち無沙汰で仕方がなくなった昭栄は、意を決して千治に話しかけてみることにした。


「……千治くんは、千明さんのこと『メイ』って呼んでいるんですね」


実は、部屋に上げてもらった時に耳にしてから、ずっと気にはなっていたのだ。


「ん? ああ」


千治が一瞬嫌そうな表情を見せた理由に気づかず、昭栄が何の気なしに


「かわいい呼び方ですね。えーと、わたしもそう呼んでみてもいいですか?」


そう訊くと、千治は不快感を全面に押し出して昭栄を睨み


「駄目だ! 絶対に呼ぶな」


と声を荒げた。その様子に、昭栄は「和」での千明の笑顔と同じ空気を感じた。一見全く似ていないこの双児は、互いに関する執着と独占欲だけを同じくする。


「……千明さん、お休みの日は結構ねぼすけさんなんですね」


話題をそらすつもりで当たり障りのなさそうなことを言ったつもりなのにまた睨まれ。そうするともう、何なら言っても大丈夫なのか判らないので、昭栄は再び黙りこくることしか出来なかった。

カギを忘れて家に入れず双児の所にいることは、佳大達にメールで伝えた。着替えはこの後出掛け直す用もないので、制服でも特に問題はない。ただ、昼の時間は過ぎているので、空腹を覚えてきた。そんなことを昭栄が考えていると、おもむろに千治が立ち上り台所に行くと、冷蔵庫から何か(おそらく麦茶)を取り出し、コップに注ぐと和室に向かった。


「う~。おあよ、るーくん」


漏れ聞こえた声から察するに、どうやら千明が起きたらしい。


「ん」

「ありがと。……今何時ぃ?」


千治が差し出した麦茶を受け取り、時間を訊く声がする。


「一時、前」

「じゃあ、お昼何にしようか」

「何でもいい。簡単なやつで」

「りょーかい」


寝起きだからか、千明の声がどことなく甘い響きを持っているように聞こえ、


「それと、カギ忘れたって火口さんが来てる」


心なしか千治くんの声も、自分に接していた時より柔らかい感じがするなぁ。などと昭栄が考えていると、二人が部屋から出てきた。

その姿に昭栄は目を丸くした。何故なら、寝乱れてクシャクシャの髪に身に着けているものはキャミソールとショーツのみ。という姿の千明が、千治の腕に抱きついていたのだから。

しかし双児は当然といった様子で、まだ眠そうな千明を椅子に座らせると千治がブラシと着るものとを持ってきて、髪をとかしてもらいながら千明はシャツを羽織った。


「さて、きえちゃんはそうめんざるそばざるうどん。どれがいい?」


とかしてもらった髪を軽くまとめ、シャツと長めのスカート姿の上にエプロンをつけた千明が笑顔で訊いた。


「え?」

「いや、お昼ご飯。食べてないんでしょ?」


まだ衝撃覚めやらぬ昭栄を逆に怪訝そうに窺う辺り、どうもアレで日常らしい。


「あ、えっと、じゃあそうめんで」

「了解。他に付け合せとかないけど勘弁してね」


女子二人がそんな会話をしている間に、千治は―特に指示されていたわけでもないが―鍋を出して湯を沸かしていた。



昼食後。千明が洗い物をしている間に千治が洗濯を始め、終わると軽く部屋の掃除をしだした。


「るーくん、ちゃんとシワ伸ばして広げて干してよ。こないだまたシワまみれだったよ。…きえちゃんそこどいて。で、そっちは進行方向だから、ひとまず別の部屋に行ってもらえるとありがたいかな」


テキパキと指示を出しながら家事をこなす千明の様は、やはり和佳とよく似ていた。特に、客だろうと居候だろうと、気心知れている相手なら容赦なく使う―昭栄は洗い終わった食器をしまうのを頼まれた―辺りが実に。

掃除を終えると、次は買い出しらしく、洗濯物を干し終え、同じく千明に「どいていろ」と言われて別室に

追いやられた千治に聞いたところによると、家事と買出しは殆ど休日に済ませるそうだ。


「そうだ、きえちゃん。ひろさん達まだ帰ってなくて家は入れないなら、私の服着る?」


出掛けるのに制服のままはなんだから。と千明がしてくれた提案をありがたく受け、昭栄は彼女の服を借りることにした。


「千明さんって、衣装持ちなんですねぇ」


それは、衣装ケースに詰め込んだままの服の中から着替えを選ばせてもらった時、その衣装ケースの数が意外に多かったので自然に出た言葉だったのだが、千明は何故か苦い顔をした。


「半分がお母さんの形見で、三分の一が夏帆ばぁの古着なんだ」


言われてみると、確かに古いデザインや妙に年季の入ったものも多かったし、何より統一性が今一つなかった。

そして残りも夏帆が「和佳に買ったはいいけど似合わなかった」「自分で着るにはちょっと若すぎるデザイン」「千明に似合いそうだと思った」などで買い与えたものが殆どらしい。


「えーと、わたし悪いこと言っちゃいましたか?」


何やら最近双児相手だと失言が多いような気がしてきた昭栄が恐る恐る千明の顔色を窺うと、先ほどの苦い顔から一転


「気にしなくていいよ。多分お母さんたち生きてても、お下がりばっかだったと思うから。ほら、何しろ夏帆ばぁの趣味は、買い物と人に何か贈ることじゃない」


そんな、別の意味での苦笑が返ってきた。因みに、夏帆のこの趣味は娘と孫達には受け継がれなかったが、佳大に衝動買いの傾向が出ている。


▽▲





「メイ! 帰ってこい! 俺は生きてる。生きて、お前の傍にいるんだ。こっちを、俺を見ろよ! なぁ、メイ。……俺を、一人にするな」


いつも通り、学校帰りに病室に顔を出した木佐貫兄妹が目にしたのは、最後の方はもう泣き崩れそうになりながらも、絞り出すような声で、反応のない千明にすがりついている千治の姿だった。


その日彼に何かあったのか、それとも単に限界が来ていただけなのか、詳しい状況は余人にはわからない。

けれど、普段滅多に感情を露にしない千治が、ベッド脇で声を荒げて掴み掛からん勢いで千明に迫り泣いていたのは事実だった。


「るー、くん? なあに? 泣いて、るの?」

「!」


虚ろだった目に僅かな光が戻った千明が、千治の頬に手を伸ばして語りかけた。


「メ、イ?」

「うん」


呆然とする千治に、千明が薄く微笑って応えた。


「メイ! メイ。メイ・・・」

「……るーくん。いたい」


名前を呼びながらきつく千明を抱きしめた千治に、千明の呟きは届いていない。病室の入り口付近にいた和佳達はそう見て取り、少々無粋だとは思いつつも


「ハル。気持ちは良く解るけど、放すか、せめて力をゆるめてあげなさいな」

「そうだよ。アキちゃん、『痛い』って言ってるよ?」


と言って引き剥がそうとしたが、千治は嫌がってより力を込めた。


「ああ、もう。わかったわ。離れたくないのね。でも、アキ苦しそうだから、もう少し力を――」

「いいの、和佳ちゃん。平気。でも、るーくんのお顔見たいな」


気遣う二人に、千明は掠れた小さな声で断りをいれ、それから千治にささやきかけた。その途端千治は千明を解き放ち、向き直ると今度は手を強く握り締めた。


「るーくん。ごめんね。私はもう、どこにも行かないよ。だから、るーくんもずっと傍に居てね」


弱弱しく笑いながら千治の手を反対の手で握り返す千明に、黙ったまま何度もうなづくだけの千治。

今も変わらないこの構図が確立されたのは、おそらくこの時だった。




△▼




「アキちゃんは、ハルくんみたいに目に見えて判り易くはないけれど、本当はハルくんより、執着心も依存の度合いも強いんだ」


いくら上辺は明るく社交的に振舞おうと、千明は千治だけを拠り所に、千治の拠り所として、辛うじて「こちら側」に留まっているだけの危うい存在なのだと、年長組は捉えているという。


「きえ、あの子達が部屋を一つしか使っていないのに気が付いた?」


深草第一の間取りは、洋室二つと和室一つにダイニングキッチン、バストイレ別。の3LDKである。


「そういえば、お掃除の時に追いやられた洋室には、荷物が少し置いてあっただけかも」


その、元は昭栄の部屋だった洋室の掃除の時には、すでに掃除の終わった居間に居たので、昭栄は和室にももう一つの洋室にも入っていない。なのでてっきりもう一つの洋室を千治が使っているのだと思っていたのだが、確かに考えてみると少しおかしい。


「わざわざ、隣じゃなくて離れた部屋を選ぶって、あまりしないと思わない? それも、あんなにお互いべったりなのに」

「そう、だよね。ここも、わたしがくるまでひろ兄と和佳ちゃんが隣同士使ってたよね」


洋室の片方と和室が隣り合っているので、大抵の家族はその二つをそれぞれ夫婦部屋と子供部屋などにして、残りの一つを書斎や物置に使っており、佳大が現在使っている洋室も以前は物置だった。


「・・・・・・今は確か、触れていなくても気配さえわかれば隣の部屋でも大丈夫な筈だけど、念の為と習慣で未だに一緒に寝てるみたいなんだよね」


珍しく遠い目をした佳大がボソリと爆弾発言をした。


「は? ひろ兄、今何て・・・」

「ハルが居ないと、アキは悪夢を見るの。それで、退院後数年間は片時も傍を離れなくて、中学に上がる頃には、命日と寝る時と車に乗る時以外はどうにか平気に、高校時代で同じ部屋に居さえすればアキが寝ていてハルが起きているのでも大丈夫になって、今は隣の部屋までが許容範囲らしいわ」


苦虫を噛み潰したような顔で和佳が付け加えた説明で、昭栄は双児の過剰なスキンシップと、ほぼ下着姿の千明に千治が動じなかった理由は少し判った気がした。そして、片時も離れないのに比べれば、アレは充分マシな部類に入るのだろう。とも思った。


「まぁ、それでも傍から見て異様な以外には、とりたてて害はないからいいのよ。一緒に寝ている程度は」

「どういうこと?」


先程より更に苦い顔で、溜め息と共に呟いた和佳の言葉の意味が、昭栄にはうまく取れなかった。


「きえちゃん、昨日お店で『るーくんって呼んでもいいか』ってアキちゃんに訊いて、ダメって言われたよね」

「うん」


アノ笑顔は怖かった。けど、何の関係が? などと昭栄が考えていると


「それと、もしかしてハルくんにも同じ様なこと言ってみたり」

「しました。で、にらまれました」

「そうだろうね。でも、にらまれたり釘を刺されたところで引き下がれば大丈夫」


苦笑いで問いを重ねる佳大の意図が解らないまま、ひとまず昭栄が問われたことに答えると


「5~6年前だっけ? 水嶋のお祖母さんが亡くなって、こっち来てすぐだから」

「そう、だね。中学3年に上がるちょっと前だったと思うよ」


兄妹はお互い溜め息混じりに確認しあい、和佳が説明を始めた。



「アキは、絶対にダメだと言っているのに、ハルを『ルーくん』て呼んでまとわりついていた同じクラスの女子をボコボコにしたことがあって、ハルもアキに『めいちゃんって呼んでもいい?』とせまった余所のクラスの男子に殴りかかったことがあるの」


どちらの場合もお互い止めず、何も言わなかったという。


「軽い気持ちでの言動で、そこまでされた相手も気の毒といえば気の毒だけど、あの子達にとっては『当然のこと』で『自業自得』だから、あたし達もフォローがすごく大変だったわ」


二人の保護者である木佐貫夫妻が、どうにか解るように学校側に説明し、殴られた女子の兄が恒平の知人だったので、そちらには和佳が恒平と一緒に弁明に。男子の方は佳大が千明を連れて謝罪兼釘を刺しに行ったらしいが、双児自身は一切反省はしていないという。


「それ以降は学校中で有名になって、高校でも同じ中学だった子が一人以上はいて、噂を広めてくれていたから、同じことは起こらなかったし、今ではお互い他人の前では滅多にそういう呼び方しないからいいんだけど……」


何となく、和佳が言わんとすることがわかった。


「まぁちゃん。だね」


あの、早とちり失言娘なら近いことをやりかねない。それを昭栄に防げということだ。


「本当はナルに頼みたいけど、マサは特にナルの話はきかないから」


金城姉妹は別に仲が悪いわけではない。が、成実がしょっちゅう正己を小馬鹿にするので、正己は成実の話は話半分にしか聞かないことがほとんどとなっている。つまりこの姉妹は、他人を介さないとまともな情報伝達が出来ないのである。


「……。頑張るね。けど、和佳ちゃん達の方でも千明さん達に注意しといて、一応」


正己は、じっくり言い含めても妙な受け取り方をすることがあるので要注意である。


「わかってる。……ほんとにいつも悪いわね。マサへの説明係頼んでばっかりで」

「ううん。いいよ。気にしないで」


成実の話はちゃんときかないし、恒平は成実と同じくおちょくるタイプ。佳大では暴走を止めきれず、和佳は途中で諦めたくなることがしばしばあるので、結果として小・中と行動を共にすることが多く、ポイントを心得ている昭栄にお鉢がまわってくるのだ。

 

それはつまり、頼りにされているのかもしれない。何となくそう思えたこと。




多分、これが二つめ。



▽▲



工事が終わり、双児が元のアパートに戻るまでの一週間。正己が口を滑らせて大変なことになりもせず、昭栄は千明とはそこそこに交流し、千治とも多少は言葉をかわすことがあった。

そしてその後も、「和」や近所でたまに会えばとりとめのない会話を交わす程度の付き合いになったある日の夜。近所のコンビニに向かう途中で、昭栄は千明に行き逢った。


「千明さんこんばんわー」

「ああ、きえちゃん。こんばんは。どこか行くの?」


声を掛けると、笑顔で返事が返って来た。


「はい。ちょっとコンビニまで。千明さんもコンビニですか?」


まだ開いている店もあるが、これから出掛けるには少々遅い夜の九時。どこへ行くのかと何の気なしに問えば


「ううん。私は仕事。・・・といっても、いわゆる『夜のお仕事』じゃないよ」


そう言い残して千明は行ってしまった。



帰宅してそのことを佳大に話すと、千明は24時間営業の託児所の夜シフトで働いているのだと教えてくれた。


「18歳になってすぐ位から働いてるから、もう1年半になるかな。うち(和)と託児所の掛け持ちで週4日。こないだきえちゃんがカギを忘れた日みたいに、お休みの時は半日くらいまとめて寝てるようだけど、正直過労か睡眠不足で倒れてもおかしくない生活をしてるから心配なんだよねぇ。なのにどっちも辞める気ないみたいなんだ」


実を言えば千明は祖父母叔父叔母+αにかなり甘やかされている。というより、周囲は甘やかしたいのに、本人がそれを謹んで辞退して無理をしている。と言った方が正しいかもしれない。


「アキちゃんはハルくんの言うことしかきかないから、ハルくんから無理しないように言ってもらおうとしても、ハルくんは『メイが辞める気がないと言うなら、俺に止めるいわれはない』とか言うし。……ああいう頑固な所は姉さんそっくりなんだもんなぁ」


口調はとても三十歳を過ぎているとは思い難いものだが、内容は珍しく「叔父さん」ぽい。そのことが何故か悔しくなってきた昭栄は、少しだけ話題を逸らすことにした。


「お姉さん、千明さん達のお母さんってどんな人だったの?」

「顔はアキちゃんよりツリ目だけど母さんほどキツくなくて、性格は母さんのマイペースさと和佳ちゃんの面倒見の良さを併せた感じかな。あと、すごく行動派。何しろ高校生の時に『卒業したら会いに行きます!』って冬希義兄さんにプロポーズして、本当に押しかけ若女将になっちゃった人だから」


水嶋冬希の父親が倒れ、彼が就職先のホテルを辞めて実家に戻ったのは、冬希が29歳で千佳が17歳の時のことだったという。その後一年間、千佳は父の伝手でホテルや旅館などでアルバイトをして知識や経験を多少身につけて嫁入りしたらしい。

なお、余談になるが、冬希が大学卒業後直ぐに実家に戻らなかったのは、「最低十年は、修行として務め上げるまで帰ってくるな」と父に命じられていたからだという。


「……一般的な感覚で考えると、よく認めてもらえたね。高校卒業したての女の子が、旅館の跡取りのお嫁さんって」


つい、ボソリと率直な感想がもれた。


「そうだねぇ。でも、お義兄さんも千佳ちゃんのこと色々話してたみたいだから。それに、妹の嘉智子(かちこ)さんって人が、かなり協力的だったらしいよ」


冬希と二つ違いの嘉智子は、十歳も下の自分を「お義姉さん」と呼んで立ててくれ、旅館の仕事についても色々教えてくれた一番の味方だと、帰郷するたびに千佳は話していたという。


「そうなんだ。……ひろ兄、普段はお姉さんのこと『千佳ちゃん』って言うんだね」


昭栄が先程から、何故かどうでもいい些細なことの方に気付くのは、無自覚に少々心がささくれ立っている所為だろうか。


「ああ、時々ね。何しろ結婚してこっちを離れた時、僕まだ10歳だったし。だから、もっとちいちゃかった和佳ちゃんや恒くんなんかは『ちーちゃん』なこともあるよ」


それは、兄や幼なじみの世話を焼いている、しっかり者の和佳しか知らない昭栄には、にわかには信じがたい発言だった。けれど、よく考えてみると和佳は、恒平の兄の良太と秀司を「良ちゃん」と「秀ちゃん」と呼ぶことがある。


「あれ? そういえば和佳ちゃんは?」


話題に出たことで、ようやく彼女がいないことに気が付いた。確かコンビニに出掛ける前には家にいて、明日の授業の準備をしていたはずである。


「恒くんに誘われて飲みに行ったよ。確か、きえちゃんが出掛けた五分くらい後だったと思う」


何でもないことのように佳大は答えた。しかし


「一昨日も飲みに行ってなかったっけ?」

「行ってたね」

「それと、その三日くらい前も」

「いや、その日は優耶おばさん夜勤だしって言って、恒くんの部屋だったはず。で、その前が……」


二人が飲むのはそう珍しいことでもおかしなことでもないが、それにしてもここの所は頻繁すぎる気がしてきた。そして


「何でそんなにひろ兄が詳しく覚えてるの?」


特に「どちらが誘った」だの「どこで飲んだ」など、何故把握しているのだろうか。


「うん。まあ、色々あってね」


一瞬、佳大は何故か遠い目をして苦笑した。それから「僕そろそろ寝ようかな」などとあきらかな逃げの体勢で自室に行ってしまい、一人リビングに取り残された昭栄は、仕方ないので自分も部屋に引き上げることにした。



今まで自分が思っていた人となりと実際は、ちょっと違うのかもしれない。そう気付きかけたこと。




これが三つめのきっかけ。



▽▲


夜の仕事に向かう千明と行き逢い、年長組―佳大・和佳・恒平―について少しの違和感を覚えた週の木曜日。

昭栄は帰宅して、着替えるとすぐに水嶋家に向かった。彼女達の住むアパートと深草第一は、実は徒歩で5分程度の距離にあり、その気になればすぐ訪ねられるのだ。


軽くノックをすると、すぐに「はい」と千明の応える声がした。


「昭栄です。ちょっとお邪魔してもいいですか?」


木曜なら「和」も託児所も休みで、比較的のんびりしている筈だということは、事前に和佳から聞いていた。

ただし、何故千明の予定を訊いたのかの理由は話していないのだが。


「どうぞ。ちょうど今さっき買い物から帰って来たところなんだ。きえちゃんナイスタイミング」


部屋に上がりひとまずダイニングのイスに着くと、すかさず冷えた麦茶が出された。流石は旅館のお嬢兼喫茶店員だと昭栄は思った。


「ごめんねぇ。洗濯物取り込んじゃうからちょっと待ってて」


そう言いながらも千明は、干してあった洗濯物をたたみながら取り込み、更に自分のものと千治のもの、タオル類などを分けて置いていく。


「……手際いいね」

「そう? 慣れてるからじゃないかな。あと、夏帆ばぁに思い切り仕込まれたから」


テキパキと動く様に感心して昭栄が呟けば、千明は笑顔で何でもないことだと返した。


「でも、わたしには出来ないもん」

「うーん。それはやってみたことがないだけじゃない? 和佳さんって、実は私と同じく『自分でやった方が早い!』とか思って、任せようとしても途中で取り上げちゃうタイプだから」


少しふてくされてみせると、苦笑しながら意外なことを言われた。


「え?」

「多分、きえちゃんや正己ちゃんの前ではそういうところ見せないようにしてるんじゃないかと思うけど、せっかちで意地っ張りな面もあるからねぇ」


そういえば、先日佳大も「和」で同じ様なこと言っていたのを思い出した。


「ところで、今日は何の用? 別に用事がないと来ちゃいけない。とは言わないけど、珍しいね」


思考の渦に呑まれかけた昭栄の顔を千明が覗き込んだ。


「えっと、訊きたい事があって来たの。……今日、千治くんは?」

「るーくんなら、恒平くんの甥っこの自転車直してるよ」


恒平の兄達には、併せて3人の子供がいる。しかし全員男なので、祖母に当たる優耶のここ数年の口癖は、

「夏帆ちゃんはいいなぁ。あたしも女の子欲しい」

である。


「何で千治くんが子供の自転車修理を?」

「頼まれたから。たまにあるんだ。この間も義じぃに曲がった柵を直すの頼まれてたし」


それ以外に一体どんな理由があるのかという顔をされてしまった。


「……訊きたい事があるのは、るーになの?」


少し怪訝そうに訊く千明の顔に微かな独占欲が見て取れたのは、木佐貫兄妹から聞いた話があったからかもしれない。


「千治くんだけじゃなくて、二人に。出来れば一緒に訊きたくて」


これは嘘ではない。けれど、実際は千明一人が相手でもあまり差し支えない。何故なら、どうせ千治はほとんど口を開かないだろうことは解っているのだから。


「そっか。それじゃ少し待ってればもうじき帰ってくると思うよ」

 


その言葉から五分と経たず、本当に千治が帰って来た。彼が手を洗い汚れたシャツから着換え終えると、昭栄はようやく本来の目的である話を始めた。


「簡単に言うと、大筋は進路相談みたいなものなんですけど……」

「私達に? きえちゃん称徳だよね。あそこって進学校だからほとんどの生徒が大学進学じゃなかった?」


同じ称徳のOGである和佳や、一応あれで大卒の佳大ならともかく、高卒でフリーターと自動車修理工である自分達に訊いてどうするのかといぶかしがられた。


「……それは確かにそうなんですけど、その、大学に進んだ所で、やりたいことが見つかりそうもない気がして。それで、色んな意見を聞いてみたくなったんです」


半分は本音。けれど残り半分は違う。訊きだせるかは判らないが、双児から彼らの関係について聴きたい。昭栄はそう思って、水嶋家に来たのだった。


「んー。それこそ、和佳さんとか大さんとか恒平くんみたいな、一応社会人な人達に訊いた方が良い気がするけど? でなきゃ、明確に進む道の見えている、ナルさん達とか。……ああ、それともそういう身近な人達にはもう訊いたから、私達に?」

「いえ、まだ。というか、みんなにはこんなこと訊けないから……」


なまじ付き合いが長い所為で、昭栄は「みんなと違って何も出来ない自分」がコンプレックスであることを言えないでいる。先日ようやく訊けた呼び方のことのように、言ってしまえば案外すんなりと受け入れられ楽になれるかもしれないが、逆に気に病まれでもしたら、それ以上いたたまれないことはない。そんなジレンマで、今の昭栄は一杯だった。


「そう。……まぁ、話しても別に構わないけど、その前にアドバイス」


うつむいた昭栄の顔の前に、千明がピッと一本指を立てた。


「案ずるより産むが易いから、当たって砕けてみるのもまた一興」

「??」


茶目っ気たっぷりに笑う千明の言葉の意味が、よく解らなかった。


「……要は、訊いてみりゃ答えてくれるかもしれないってことだ」


ボソリと千治が付け加えたのを受け、千明が更に続けた。


「ヒントもあげよう。そうだな……さっきも言ったけど、和佳さんは結構意地っ張りだから、弱音やグチはなるたけ吐かないようにしてるけど、捌け口がないわけじゃない。大さんだって、色々と苦労はしてるし悩みもある。恒平くんはコンプレックスの塊。ナルさんはああ見えて実は家族思い。ってなとこかな」


話題の糸口か、それぞれの隠している面についてなのかは今ひとつ判らないが、とりあえずそれ以上は千明に訊いても答えてくれないだろうことは解ったので、昭栄は話題を少し戻すことにした。


「ええと、千明さん達が今のお仕事に就いた理由は?」

「るーは義じぃの紹介で、私は夏帆ばぁの伝手。『目の届く範囲』が二人暮らしの条件だから」


そういえば、初日にそんな話を聞いたような気がした。


「託児所も、ですか?」

「うん。柏原保育園っていうんだけど、あそこの園長と夏帆ばぁが知り合いなのよ」


実は、かつて千佳・佳大・恒平・和佳が通っていた保育所が数年前から24時間になったのだが、千明もそこまでは知らなかった。


「どうして掛け持ち始めたんですか? ひろ兄が『過労寸前だ』って言ってましたけど」


千明は、少し記憶を辿って考えるような仕草をしてからポツリと


「18になって夜働けるようになったし、るーがいない部屋に一人は寂しかったから。それに、疲れきっていれば、夢も見ないで眠れるもの」


薄く微笑いながら、隣に座る千治の肩に頭を乗せ、もたれかかった。


「高校、るーは働きながら定時に通ってたけど、私は全日だったからね。『和』のバイトも、19時閉店で締めまでやっても精々20時前。『たった2~3時間程度一人で過ごすのが嫌で、5時間働くなんて馬鹿じゃないの』とは、ナルさんに言われたなぁ」


軽く自嘲気味に笑う千明の髪を無言で千治はなでていた。その、自然で優しい空気が昭栄は少しだけうらやましくて「いいなぁ」とついこぼれた羨望の言葉に「何が?」と言って千明が身を起こした。


「千明さんには千治くんがいて、千治くんには千明さんがいる。そういう、唯一無二の関係」


この双児ほど深いつながりではなく、和佳と佳大や和佳と恒平。場合によっては成実と正己ですら羨ましく感じることが、昭栄にあった。そんなつもりで照れ笑いを浮かべつつ素直に白状したのだが、急に目の前の双児は険しい表情になり、千明が「昭栄って彼氏居る?と訊ねた。


「え、まあ、うん。一応」


何故突然そんな話になったのかは解らないが、千明の剣幕に負けて、昭栄は戸惑いながらも、付き合い始めて一年弱の、同じ高校に通う彼氏が居ると答えた。


「そう。私には居ないし、居たこともなくて欲しいとも全く思わない。もちろん、結婚願望も欠片ほどもないわ。……もしも誰か一人以外と絶対に関わってはいけないと言われたら、私はるーを、るーは私を迷わず選ぶ。世界と一人を天秤にかけろと言われてもそれは同じ。るーのためなら何だってしてみせるけど、そのことによってるーと離れなければならなくなるのなら、絶対に嫌」


険しい表情から一転。目だけが笑っていない、張り付けたかのような笑顔で淡々と語る千明に、昭栄はどことなく薄ら寒いものを感じた。


「私は、千治を愛している。それは恋愛感情ではないけれど、家族愛でもない。あえて言うなら、歪んだ自己愛ね。……二卵性の双児は『ただ一緒に生まれただけのきょうだい』と言うけど、私達は一卵性の双児と同じかそれ以上に、『半身』であり『片割れ』なの」


にぃ。と口元を歪ませて嫣然とした笑みを浮かべる千明にもはや恐怖さえ覚えてきた。そんな昭栄の胸の内を知ってか知らずか、


「こんな狂気じみた関係を、羨ましいとお前は言うのか?」


千治が千明を引き寄せながら問い掛けた。

その態度が昭栄には、何となく挑発されているというか、わざと見せ付けられているように思えなくもなかったが、それでも語った内容はおそらく本音で、これが彼女の根底にある本性なのだろう。それをにこやかで人懐っこい仮面の下に隠していたのだから恐れ入る。


「……羨ましいですよ? そこまで本気でのめりこめることが。もっとも、そんな風になりたいとまでは思えませんけど」


虚勢を張って何気ないようなふりをして返せば、千明はキョトリと目を丸くして、それから盛大に吹き出した。


「あんた、結構肝据わってて面白いわ。もっと気が弱くて、控え目な子かと思ってた」


千治の腕の中で、ケタケタと声を立てて笑う千明の変化の激しさにはイマイチついていけないが、


「とりあえず、褒め言葉だと思っときます。でも、これくらいじゃないと、まぁちゃんやなっちゃんの相手務まりませんから」


何となく、胸を張って答えてみると


「強烈だもんねー、あの姉妹。……って、正己ちゃんについては良く知らないけど」



千明の笑顔につられ、気がつくと昭栄は金城姉妹に関する苦労話や兄妹、恒平、学校の友人や彼氏の話などを披露していた。


「やっぱり、そうやって色んな人に関われてる方が幸せだと思うよ。きえちゃん、なんだかんだ言ってもみんなのこと好きでしょ?」


楽しそうに昭栄の話を聞いてくれていた千明が締めくくった。


「うん」

「それに、きえちゃんもみんなから好かれてるよ。私が保証してあげる」


はにかみ笑いを浮かべる昭栄に、千明は優しく微笑みかけてから付け加えた。


「大丈夫。訊いてごらん? きっと、みんなもきえちゃんが訊いてくるのを待ってるはずだから」

「ありがとう」



「一歩引いて傍から見ないと見えないこともあるからね。がんばれ。私なんかでよけりゃ、いくらでも相談だろうがグチだろうが無駄話だろうが付き合うから、またおいで」


帰り際の千明の言葉に、昭栄はまた一つ勇気ときっかけをもらったような気がした。




△▼



彼らの関係は、互い以外を必要としない閉じた輪(クローズドサークル)

世界は二人きりで完結してしまっている。

 

けれど、輪の外から見守っている人達がいる。

その存在を、彼らはちゃんと知っている。


彼らは背中合わせ。もしくは互いに向きあっている。

だから、目線をそらせば外の世界が見える。

時折チラリと横目で見て、すぐにまた向き合う。


傍目だからこそ見えるものもある。

見えたものを、さりげなく教えること。

それが見守ってくれている人達へのせめてもの恩返し。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ