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ネバーエンディング・サマー

作者: 夏野ほむわ

夏休み最終日の宿題の手を止めて、家の奥深くにある古びた大きな本棚の一番上にある本を手に取った。その本にはとある夏の日のことが書かれていた。

 この道の先に、何があるのだろう。僕にはわからない。けれど、空が無駄に青いから進みたくなる。もっと、自由になりたい。この先に、その自由がある気がするのだ。


 夏の終わり。風に揺れる教室のカーテンの隙間からは光の束が射し込み、白い雲を抱えた青い空が見える。夏の終わりに相応しく、少しだけ暑い。心の中にあるこのよくわからない感情を、どうにかしてすっきりさせたくて、僕はただ考えていた。考えれば考えるほどその気持ちは強くなるのに、それでも僕は考えてしまう。人はどうして、こんなにも複雑なのだろう。

 空も雲も山も風も、みんなあんなに自由で、大きくて、憧れる。いっそ死んでしまいたい。死ねば、このモヤモヤした気持ちもなくなるのではないか。僕はそうして、格好いい死に方を考える。

 でも……考える度に、君の顔が浮かんでくる。今一番来てほしくない君の顔が。僕がもし死んだら、と考える。君の顔も声も何もかも、思い出せなくなってしまうではないか。それは嫌だ。別に好きな訳じゃない。一生一緒にいたいという訳でもない。いつか離れ離れになってしまうこともわかっている。けれど、今は隣にいたい。僕は君と話せない。恥ずかしくて、照れてしまうから。結局君とは、楽しげな話なんて一度もしないままもうすぐ枝分かれだ。

 この無駄に騒がしい教室が空だとしたら、僕は雲。空から離れたくても、離れられない。

  時間を止めたい。流れる雲を止めたい。ずっとこのままここにいたい。けれど、無理だ。そんなことはわかっている。


 ふと音が聞こえなくなり、夏風に揺れていたはずのカーテンが膨らんだままピタリと止まる。僕は周囲を見回した。皆、目を開けたり、ペンを持ったりしているだけで動かない。まばたきさえしていない。

 僕は椅子から立ち上がった。普段ならば、突然の行動を起こせば注目されるはずだが、誰も僕の方を見ない。教室に掛けてある時計の針が、十時五十二分で止まっている。

 カーテンを開け放ち、外の景色を見る。日の光が眩しくて、目が眩む。目が光に慣れてくると、僕はようやく現状を飲み込めた。

 人も車も流れる雲も、何もかも全てが止まっている。再び時計を見る。止まったままの指針。僕は確信した。

 時間が止まった。

 でももし時間そのものが止まってしまえば、僕も動けなくなるはずだ。それなのに……。

 僕は自分の胸に手を当てる。鼓動が、一定のリズムを保ちながら聞こえてくる。目が乾く。まばたきをする。僕は……。

 動いている。

 音がする。

 温かい。

 僕だけが生きている。

 ……いや、誰も死んではいない。逆だ。このままずっと時間が止まり続けたら、いずれ僕は今と全く同じ景色に囲まれたまま死ぬ。

 嫌だ。死にたくなんか……。

 不意に僕は少し前の自分の気持ちを思い出した。僕は死にたかった。格好いい死に方を考えていたはずだ。

 僕は自分を鼻で笑う。実際に死が目前に迫ると死にたくないと思ってしまうなんて、都合のいい脳だ。

 死にたかったことを思い出すと、いっそこのままでもいいかな、なんて思う。一番求めていた自由を手に入れたのだから。

 何をしようかなと、あえて大きめの声で言い捨ててみる。もちろん誰も反応しない。ただ僕の声が、他の音に飲まれることなく耳の奥に残っている。

 何をしようかな……。今度は心の中で呟いた。そして、今さらになって思う。僕には何も残されていなかったのだ。時間の流れを失えば、何もすることがなくなる。所詮僕はそんな人間だったのだ。……でも。

 何かに出会いたい。確かに、このまま青い空の下で死ぬのも気持ちいいかもしれない。このよくわからない感情から解放されて、自由に空を飛ぶのも悪くない。けれど、こんな無機質な僕に初めて喜びをくれた君のような人になるのも何もしないよりはいいかな、なんて思う。

 僕は振り返り、窓際の席の君をじっと見た。ペンを持ったままの手で頬杖を突きながら窓の外を見つめる君は、一体何を考えているのだろう。

 君の顔は可愛いとも思わないし不細工だとも思わない。美しいとも思わないし、そうでないとも思わない。ただ、僕を引き付ける何かがある。そこにいるだけで周囲の人は集まってくるし、僕とはまるで正反対だ。

 僕が君のような人になるということはつまり、今の自分と正反対になるということ。無理かもしれない。途中で折れるかもしれない。けれど僕はどうしても、君になりたい。もっと近付けると思うから。気持ち悪いだろうし、そもそも君は僕に好意を抱かれていることに気付いていないのかもしれない。……いや、気付く訳がない。僕はまだ、何も伝えていないのだから。いつかまた時間が進み始めて、君と話す機会があれば、そのときはちゃんと伝えよう。そのために今は、何かに出会いたい。……なんて、思ってみたりする。

 違う。思ってみたのではない。僕は……。

 僕は衝動に駆られて教室を飛び出した。

 走る。ただ走る。踏み出せば、響く足音。

 音はそれだけ。

 階段を駆け降りる。最後の二段は飛び降りた。

 自分の下足箱の前に立つ。靴を履き変える。全身が落ち着かず、うまく履けない。

 十五秒くらいかかってやっと履けた。そもそも十五秒という時間は今この場に存在しない。というより、そんなことはどうでもいい。

 僕は外に出た。本当に音一つしない。空は広くて青く、白い雲を抱えている。時間が止まって風がないからか、ただ夏の終わりだからか少しだけ暑い。このよくわからない気持ちについて考えるとき、いつも見ていた青空。いつも悩まされてばかりいるのに、今回はなぜか心が洗われるような気分になった。しかし、完全に綺麗になった訳ではない。洗い流されたのは表面だけで、洗い切れなかった重い塊は未だ、心の中だ。

 僕は大きく深呼吸をして、晩夏の空気を少しだけ感じる。前に出した右足にチクリと痛みが走ったのは、青春の毒が回ったせいだろう。大分重症だな、僕は。

 校門を出て右か左、どちらに曲がろうか悩む。その結果僕は左に曲がった。何となく左に行きたかったからだ。

 そして僕は自分の左側に広がっていた景色を見て、一つのルールを決める。

 曲がり角で悩んだときは、気が向いた方に行く。

 それだけ。曲がり角がいくつあるかはわからない。けれど、大切なルールだ。

 僕は歩き出した。何かに出会うために。

 正面に広がった景色は、見慣れた町だ。時間が止まっているから風は吹かない。やっぱり暑いけれど、それくらいで丁度いい。

 

 不意に、自分の右側に曲がり角が現れた。少しだけ奥を見ると、狭くて小さな道だった。けれど、行ってみたい。

 昔から、こういう不確かな物事に手を伸ばしたくなる悪い癖がある。僕はそれを今の時期特有のものであると思い込んでいるからか何か失敗しても落ち込んだりしない。むしろ若気の至りという便利な言葉で、綺麗に片付けてしまっている。

 そんな遊び心半分で、僕は右に曲がった。誰もいない。生活音さえしないから、道の小ささが余計に心に染みる。でも道が小さい割りに、見上げる空は大きい。飛んでいる二羽の小鳥も、空中で止まって動かない。

 少し歩くと、道が三つに分かれた。どの道に行こうか悩み、例のごとく気分が右に向いたから、僕は右に曲がった。

 道は暗い。けれども僕は進む。全ては何かに出会うため。この道には、その出会いが感じられる。

 そしてやはり、出会った。それは突然だった。路地裏で、一人の女性が三人の野蛮そうな男に囲まれている。もちろん時間は止まっているから、僕がこのまま見続けていても何も起こらない。……でも。

 見過ごしていいのだろうか。

 時間が進み始めたら、この女の人はどうなるのだろう。僕には想像もつかない。

 もしも時間が止まっていなかったら、この光景が見えた瞬間に僕は引き返すだろう。

 けれど今は時間が止まっている。

 ヒーローごっこしている子供たちの言葉を借りれば、無敵だ。

 今からあの男全員を、一発ずつ殴ってやってもいい。

 そうだ、変われる。

 僕は今、君に近付ける。

 暴力は最低だ。でも、この三人の男も暴行を加えようとしていたのだから、殴られることくらい平気なのだろう。

 僕はゆっくりと近付き、男三人を一人ずつ丁寧に殴った。一人は右腕を振り上げたまま、一人は舐めたような表情のまま、また一人は変態じみた笑みを浮かべたまま、まるで人形のようにその場に倒れた。

 人生初の正当防衛だ。

 止められた時間が、僕の背中を押す。

 嬉しかった。

 始めての正当防衛。

 何だかとても響きがいい。

 右手はまだ少し痛むけれど、それすら勲章のように思える。

 その後僕は交番から警察官を担ぎ、倒れた男のすぐ横に置いた。苦手な肉体労働で汗はかいたけれど、時間が再開するのが楽しみになった。


 警察官を運びながら思ったことがある。再び時間を進ませる方法についてだ。見当なんてもちろんつかなかった。でも今は、まだそういう感じでもいいかな、と思う。決して楽観視していい状況ではないが、僕自身この自由をもう少し楽しんでいたい。

 路地裏を抜け、大通りに出た。平日であるのにも関わらず人で溢れ返っている。基本的に僕は人が嫌いだ。人が集まる場所にはなるべく行かないようにはしている。でも、やはり学校は仕方ない。君がいるからいいかな、とは思ったりする。けれど、気持ち悪いと思う点は多々ある。最近鳥肌が立ったのは、学年全員が集められた時だ。ふと周囲を見回すと、全員同じ服を着て同じ文字が書かれた紙を同じ姿勢で見つめている。その時僕は、気持ち悪さと疑問を同時に抱いた。何だか、とある異質な宗教集団かと思えてしまうのだ。そして、なぜ平気なのだろうかと思う。個性の欠片もないではないか。

 それに比べて、街行く人々は何て素敵なのだと思う。それぞれが個性を主張し、雑踏の渦に飲まれるものかと自分を表現している。大人の理解力の低さには呆れる。でも、自己表現が上手い人が多いという点に関しては、尊敬すべきだと思う。

 こんな風に調子に乗り、ただのオブジェクトになった人を肩で避けながら止まらない足を進める。何となく、俳諧師芭蕉の気持ちがわかるような気がした。でも、僕には目的地が無い。僕の中の松島は、一体どこなのだろう。

 大通りを抜け、住宅地に出た。午前中の静かな住宅街にどこか懐かしい思い出じみたものを甦らせながら、僕はコンクリートの真ん中を行く。

 この場所は覚えている。幼い頃、補助輪付きの自転車をガラガラ鳴らしながら、当時の友達と一緒に駆け抜けた。この辺の道は環状になっていて、何も考えずに何周も何周も走ったのを鮮明に思い出せる。

 あの頃は、毎日が冒険だった。お化けとピーマン以外は何も怖くなかった。

 ある日、遠くまで行き過ぎて道に迷ったことがある。空にはオレンジと青のグラデーションがかかっていた。心細くて、目の奥が熱くなるのを必死に堪えながら、友達と自転車で帰り道を探した。その途中で見つけたあの風景は、まだ子供だった僕の心を震わせるほど、素晴らしかった。

 一気に視界が開けてオレンジ混じりの草原が広がったかと思うと、その遥か彼方には……。

 寂しくて、眩しくて、真っ赤な夕陽。

 こんなのは見たことがない。

 ただそこにあるだけなのに、どうしてこんなにも言葉が出ないのだろう。

 隣にいた友達も、その光に瞳を照らされていた。

 刹那に変わるその景色が、僕たちの焦りや不安を地平線に引きずり込んでいった。

 結局その日は空が紺色になってしばらく経ってから家にたどり着き、母親にこっぴどく叱られた。けれど、泣きながらも頭の中から夕陽が離れなかったのを覚えている。

 そんな、心のどこかにしまったはずの思い出を掘り起こしながら、住宅街を歩く。靴底とコンクリートのこすれ合う音が、単調に聞こえる。相変わらず空は透明で青い。


 しばらく何もないまま、どれくらい歩いただろう。ほとんど同じ景色の繰り返しで、面白味の欠片もない。途中で戻ろうかと思ったこともあった。でも、空の青さが僕を引っ張っていくようで、歩みを止められなかった。簡単に言えば、流れに乗り続けたのだ。時の流れは怖い。気付けば僕をここまで運んでいる。この場合は時の流れではなく無意識の流れか。

 歩いていくと次第に家は減り、山が多くなった。人も車もほとんど見なくなり、知らない内に歩道もなくなっていた。周囲を完全に山に囲まれると、本当に道の先がわからなくなった。どうにかして気を紛らわすために、僕は車道のど真ん中を歩くことにした。

 歩きながら、道の真ん中を歩くことも自由なのかと考える。僕は少し考えて、違うだろうと結論した。これは自由ではない。普通の人は道路の中央を歩かない。それが、社会の常識として定着しているからだ。よって、道路の真ん中を歩くこと自体、社会の規則を破ることと等しい。確かに僕は自由になりたい。でも、ルール違反をしてまでそうなりたいとは思わない。法則に背いて得られる開放感など、本当の自由ではない。しかし僕には、本当の自由などわかりもしない。……曖昧だな、自由って。


 僕は歩く。ひたすら歩く。空は青く、雲は白い。聞き慣れた自分の足音がやけに大きく聞こえる。どこか懐かしい土っぽい匂いが僕を包む。時間が止まっているから風はない。

 不意に視界が開けた。山の中の道路を歩き続ける内に、随分と高い所まで来たらしい。一本に続く長い坂道の下には、どこまでも広い都会化した街が見える。すぐそこにある坂を降りれば、退屈なこの道に何かしら光るものを見つけられるだろうか。

 僕は坂に足を踏み入れた。坂を少し下るだけで一気に車や人が見えるようになる。都会に来たという感覚がとても新鮮だ。ずっと向こうには高く昇った入道雲が見える。音がしないのに、都会特有の騒音が耳に戻ってくる。

 坂を降りると、本格的に都会感が増した。ビルに見下ろされ、信号機はかなり奥の方まで並んでいるように見える。その下には何台もの車が置かれていた。そして何より暑い。恐らく蝉が鳴いていただろうと推測できるくらいの暑さだ。苦しくて呼吸もしにくい。

 往来二車線ずつの道路が十字に重なる大きな交差点を通りかかる。巨大な横断歩道が人で埋め尽くされ、まさに雑踏という感じだ。僕は人混みに飲まれる前に、入り乱れた街中を抜けた。

  そして少し歩けば、巨大なビル群に入る。建設途中の高層ビルも多く見られ、臆病者の僕は見上げながら歩かないと安心できない。時間が止まっているからあり得ないとはいえ、あの高さから物体が落ちてきたら例えそれが石ころであっても危険だ。

 僕は足早にその場所を抜け、比較的人の少ない住宅地に入った。なんだろう。随分前からではあるが、右足に違和感がある。踏み出す度にチクリと刺すような痛みが走るのだ。別に歩くことに支障が出る訳ではないから特に気にはしなかったけれど。

 もう少し奥へ進み、静かそうな場所に来ると、さっきまでの暑さはどこに行ったのだろうという感じで、「緑公園」と書かれた小さな噴水がある公園や木漏れ日が当たるベンチなどが見かけられるようになった。相変わらず空は青く、遠くに見える入道雲が暑苦しさを和らげている。

 ふと、家と家の隙間の向こうに、海が見えた。恐らくはこの緩い下り坂の先に海があるのだろう。どことなく潮の香りがする。風がないのに匂いがするのは元々この場所に「潮の香り」があったからだろう。僕はそれを追うように、坂を下り始めた。


 坂の中腹。もうすぐ海に到着するというくらいの場所で突然、僕の右足が強く痛み始めた。唐突の出来事に対応できず、僕はそのまま倒れた。

 痛みに喘ぎながら、炎天に焦がされたコンクリートの熱を感じる。痛みは治る気配を見せない。それどころか、徐々に強くなっている。もはや立ち上がれないほどに痛みは増していった。僕はこの場で死んでしまうのだろうか。何もできずに、このまま。……嫌だ、認めない。

 まだ死にたくない。

 僕はそう切実に思う。格好いい死に方とは一体何だというのか。なぜ僕は死にたいと思っていたのか。僕が求めていた本当の自由とは死ぬことによって得られるものなのだろうか。どこまで行っても、どれだけ探しても、僕が思い描く理想の自由なんて存在しないのではないだろうか。

 僕は勝手に解釈する。

 格好いい死に方なんてない。

 僕が死にたかったのはこのモヤモヤから逃げ出したかったから、というだけ。

 死んでしまえば求めていた自由さえ感じられなくなる。

 そして、廻り続けるこの世界に、僕が探し続けていた自由は存在しない。

 でも……それでもいいから、行くあてのない旅でも構わないから、僕は自由を探し続けていたい。

 そのために、今願うのはただ一つ。

 もう一度、自分の足で歩きたい。

 僕は立ち上がろうとした。だが、既に右足は動かせなくなっていた。痛みが、徐々に僕の下半身を侵食していく。

 痛みが腹の辺りまで来ると、僕の下半身は地面に張り付いたように動かなくなった。僕は最後の力を振り絞り、緩い坂の途中で仰向けになった。青い空が見える。入道雲が見える。飛行機雲が見える。こめかみを、温かい何かが伝う。僕は、泣いてたまるかと息を吸い込んだ。聴こえるのは、心臓が脈打つ音と呼吸音。この音を、この景色を、いつまで感じられるだろう。

 君の顔を思い出してみる。可愛いとも思わないし、不細工だとも思わない。美しいとも思わないし、そうでないとも思わない。そんな顔だったはずなのに、なぜだろう、思い出せない。

 結局僕は、何かに出会えたのだろうか。

 そんなことを考える内に、腕や首の辺りまで動かせなくなる。僕は残された網膜と鼓膜で、この夏の終わりを精一杯感じようとした。

 しかし、それと時を同じくして、僕の中の時間は全て止まってしまったようだ。


 次の瞬間、今まで歩んできた道の景色が走馬灯のように脳裏を駆ける。最後に学校の自分の席が見えると、僕は何もない草原に置かれた。風がサワサワと草を撫でる。

 意識下で存在する体が動くと、僕は直感した。ここは体が来る場所ではなく、時間の停止によって全てを止められた人間の意識のみが来る場所だ。

 立ち上がった僕に、夏の終わりに相応しい涼しい風が優しく当たる。僕は、純粋な青空と高く昇った入道雲を見上げた。

「ねぇ、時間の歪みって知ってる?」

 その声に僕は振り返る。そこに見えたのは、紛れもない君の姿だった。

「え? あ、いや……し、知らないよ……? 」

 そうか。君も時間を止められていた。ならばこの場所にいても何ら不自然なことはない。そうではあるけれど、やはり急に君を前にすると僕は焦ってしまうようで、斜め下を見ながらついどもってしまった。

「知らないなら教えてあげる」

 そう言った君は僕の近くまで歩み寄り、風ある草原に座り込んだ。艶やかな黒髪がふわりと風になびき、いつかの日を思い出す甘い香りがした。僕はなるべく君の方を見ないようにして座った。

「ええと、時間の歪みっていうのはね、止まった時間の中で動き続けると引き起こされるの。そうね……例えば、学校のクラスの中で異質な存在ってどうしても浮いてしまうじゃない? そして浮いてしまえば、出る杭は打たれる状態になるよね。それと同じで、止まった時間の中でも体の中で時間が流れ続けると、それを何とかして止めようとする力が働くの。その力がちょっとした違和感になったり痛みになったりするってこと。それを時間の歪みって呼ぶんだ。……私の言ってること、わかる?」

「……わ、わかるのはわかるんだけど、君はどうしてそんなにこのことについて詳しいの?」

「え、だって……」

 そう言って君は下を向いた。実際のところ、君の話を全て理解できたわけではない。それどころかほぼ理解できていない。話の途中から頭が疑問で一杯で、ほとんど中身を掴めなかったからだ。

 そして君はそのまま何も話してくれなくなった。タブーに触れてしまった気がして、後悔が募る。しかし、言えない理由とは一体どんなものなのだろうとも思う。それからしばらく君は口を開かず、僕はただ考えていた。

 そんな僕と君との間に流れる沈黙を、一陣の風がかっさらう。聞こえてくるのは確かに音だ。けれどそれは声ではなく風の音。僕はこの沈黙を声で破らなくてはならない。

 何を言えばいい? 僕が君に対して言うべきこととは何だ? そう自分に問う。思い出せ、あったはずだ。僕は自分の歩いた道を一つ一つ振り返る。その中に答えがあると思ったからだ。そうして振り返る内に、僕の脳内に浮かぶ絵は学校の教室へと移り変わる。

 ふと僕は、閃くように思い出した。……僕はそれを伝えるために何かに出会おうとしていた。その道の果てがこの草原ならば、僕が出会いたかった何かはもうここにあるではないか。そして君が言えない理由こそが、その「何か」だ。

 僕はゆっくりと息を吸い、丁寧に言葉を紡いだ。

「君に伝えたいことがある」

 強く、涼しく、懐かしい風が、僕の夏を駆け抜ける。僕が歩んだあの夏は、あの瞬間のまま永遠に終わらない。


 この道の先に、何があるのだろう。僕にはわからない。けれど、僕が出会いたかった何かはもう、ここにある。どうやら夏空は、僕を待っていたようだ。そんな流れ出した時の中で僕は、あの夏の続きを今日も紡ごう。

本を閉じると、ひんやりとしたこの場所が懐かしく思えた。無駄なく並べられた本棚の上から見える景色は、僕をどこか遠い空を見ているようなふんわりとした気持ちにさせた。

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