ムジュン
見知らぬ誰かを見る、いぶかしげな視線。
それが、“彼”がワタシに初めて寄越したもの。
当たり前じゃない、“彼”はワタシなど知らないんだからと、胸のうちを滑り落ちていく氷のような……凍えそうな思いを味わいながらも、ねえ、笑えるもの、なのね。声は、表情は作れるものなのね。
何処の酒場にでも居るような、ちょっと話し好きで酒好きな、女だと思ってくれたらしい“彼”は、警戒していた表情を少し緩めて、それと同時にそっけなく横を向いた。
ねえ、あたし話し相手いなくて詰まらないの。あなた、相手してくれない?
知るか、他の奴にでも頼めばと、言下にて切り捨てたあと、彼はコップの中身を一息に呷って、席を立った。
その、以前よりも小さくなった背中を見送り、ワタシは顔を覆ったわ。
泣きたくなるかと思ったけど、涙は出なかった。
感情も振り切れてしまえば、笑い出したくなるものなのかしら。
大声で笑い出してしまいそう。
本当に、ねえ。ワタシは何故、こんなに驚いているのかしら。その資格すら、ないワタシが。
だって……彼がワタシを知らなくても当然なのに。
だって。彼の記憶を消したのは、このワタシなのに。
なのに、“覚えていてほしい”って、思うのは。
すごく酷くて、あさましいんじゃないのかしら、ね。
ねえ、と顔をあげて、空席の隣に問いかける。
片手に酒のなみなみ注がれたグラスを手に。
あなたは、あれからどうしていたの?
あなたが過ごしてきた長い時間の話を、ワタシに聞かせてはくれないかしら。
そうしたら。ワタシ、は……。
おなじものを見ていたはずだった。
同じ場所に立って、同じように顔を上げて。
同じものを見ていると疑いもせずに、笑っていた。
わたしは空に鳥が飛んでいるのを見た。
彼は雲が浮かんでいたと言った。
わたしは雲ひとつ無い晴天だったと言い、彼は鳥など見なかったと答えた。
あなたが受けた衝撃も焦燥も、嘆きも痛みも、いつかワタシに頂戴。
そうしたら……いつか。
遠い日のように、同じ風景を見に行こう。
たとえ、同じように、同じものを見ることは出来なくてもいいから。