ネガイゴト 2
紙くずのように魔術師の塔が崩壊していくのを、宙に浮かんだまま魔女は笑みを浮かべて見下ろしていた。
傍らには、彼女が願いをかなえる代償として、己の心を差し出した、かつての子どもがいた。
己が、彼女の願いを叶えるための手足に過ぎなかったと、最後まで気づかない愚かな子ども。
「さあ、全部壊して。跡形もなく消しておしまい」
それこそが、彼女の望み、なのだから。
地面が波打ち、全てが崩れ落ち、跡形もなく彼女の前から消えうせると……そう信じて疑わなかった、次の瞬間。彼女の笑みは凍りついた。
胸の中心に氷の杭を打ち込まれたように、冷たい痛みが彼女を襲う。
「これは何?何が起こっているの?」
身のうちから凍りつくようなそれは、次第に指先へと広がってゆき、彼女は己の体を抱えながら呻く。
それでも彼女を追いやった……認めなかった魔術師の塔が崩壊するのを見届けようと顔を上げた瞬間。
目を疑った。
吹き荒れていた嵐は次第になりを潜め、地鳴りはやみつつある。
なぜ、と呟き、彼女は傍らの青年の腕を取る。彼女の支配下にある彼の力で、この地は崩壊するはずだったのに。
けれど。彼は糸の切れた操り人形のように、すうと目を閉じ……同時に解けた力場から、地表へと落下していった。
「わたしの呪が解けた?そんなはずは……っ」
驚く彼女の耳に、声が聞こえた。
「私を覚えているかい?と言っても、流石に覚えてないよね。何しろ、会ったのは君が生まれた時だからね」
生まれたばかりの、友人の子ども。瞳は星の光が映える漆黒だった。
名付け親にと請われ、どんな名を贈ろうかと何日も頭を悩ませた。この子の将来に幸多かれと、それだけを願い名前を……一番初めの、大切な贈り物をした、そのはずだった。
その名を、こんな場面で呼ぶことになると、あの時想像もしなかったけれど。
名を呼ぶと、彼女の顔が驚愕に歪んだ。今では誰も知るはずのない彼女の真名。それを自分が何故知っているのか、と。
「その人の真名を知るのは、本人を除いては両親だけ。でも、もう一人忘れてないかい?名づけ親のことを」
「……まさか」
「その、まさか、だよ。私が君の名付け親さ。こんな形で再会するとは、思わなかったけどね」
真柴は彼女をずっと探していた。多くのものを失った彼女が、気紛れのような残酷さで周りの人々を傷つけていくのを……取り返しのつかない罪に塗れていくのを、知っていたから。
それでも、彼女を探すことは、真柴の力では足りなかった。今日この時までは。
「わたしの名付け親など、とうに死んだと思っていたわ」
「私は長生きなんでね。生憎だったね」
「わたしの真名を握ったからと言って、勝ち誇るのは早いわ!……力の最後の一滴まで搾り出して、この地を破壊しなさいっ」
逆来、さかきと叫んだ名は、しかし、彼に……榊にはもう届かなかった。
「逆来っ、何故、わたしの命に従わない?」
「いくら呼んでも無駄よ。だってそれは、彼の真名じゃないもの」
地表に落下してきた彼を、地面に激突する寸前で救い上げ、波うち、ひび割れた床に下ろした。
僅かな間にやつれた顔で、彼は目を閉じたまま、ぐったりと横たわっている。
椎名は彼の冷たい手をとり、体温を分けるように両手で包み込んだ。
こんなに近くに居るのは、一体何年ぶりなんだろう。こうして触れるのも。
魔女と対峙した真柴の言葉には、とても驚いたが、それよりも椎名は彼のことが気がかりだった。呼吸が浅く忙しなく、とても体温が低い。凄まじい破壊の力を振るった後だから、なんだろうか。目は閉じたまま、時折苦しそうに眉を寄せる。
どうしよう、とぎゅっと彼の手を握り締めていたとき……魔女が苛立ちも露に、彼の名を呼んだのだ。
「逆来」と。「真名」を持つことが出来なかった自分たちが、師匠に貰ったもう一つの名前。
ああ、とその時、椎名はようやくわかった。
彼はその名を魔女に渡してしまい、“願い”と引き換えに何かを失って……そして魔女の支配下に堕ちてしまったのだ。
彼が何を願ったかは知らない。
何を引き換えに差し出したのかも。ただ、その名、は。
「いくら呼んでも、無駄よ。一度切れた糸は、もう繋がらない。だってその名は、“仮名”だもの」
「ああ、だから彼は、完全に支配されていなかったんだ。時々、躊躇うふうな様子もあったから」
それで納得したよと真柴は呟く。
「”仮名“ですって?」
魔女の声に、椎名は答えた。思い返すのは二人だけで生きていた日々だ。世界には二人しかおらず、だから。
「真名どころか、あたしたちに名前などなかったから。要らなかったから。……名前で区別する必要も、名前で何かから守られる必要も、なかったのよ」
此処には子どもの健やかな成長を願い、魔除けの一種として真名を贈る習慣があった。その名前は両親とその本人、もしくは名付け親しか知らないものだった。普段呼ばれる名前は「呼び名」である。
けれど、稀に真名を持たない者も居る。真名を貰う前に親と別れてしまった子どもなどがそうだ。
そして、「椎名」と「榊」も。
今の名前は、出会った師匠に貰ったものだ。
二人だけの世界では、区別するための名も、呼びかわす名さえも要らず、ただ気紛れに様々な音で、互いを呼んだ。
それだけが、おそらく名前の代わりだった。
「……そう。だからあなたには、私の力が効かないのね」
彼の名も、真名でないなんて、今まで気づかなかったわ。
もし完全に支配できていたら、もっと完璧に破壊できたのね。残念だわ。
うつくしい顔を苦痛にゆがめながら、平然と恐ろしいことを魔女は呟く。
魔女に支配されていた榊。それは一体、いつからだったのだろう。
椎名のことを省みることなく、一人駆けていったあのときから?
言葉が届かなくなり、視線すら合わなくなった時から?
どこまでが彼女の知る榊で、何処からが魔女に歪められた榊だったのだろう。椎名にはわからなかった。
今はただ、悲しいと思った。その“力”により榊は此処で高い地位を得、己の望むものを得ているように椎名には見えていた……それが、魔女に利用された結果だとしたら。
榊は何処にいるのだろう。今まで、何処に、居たのだろう。
椎名の声が、言葉が届く榊は、どこで眠っていたのだろうか。それとも、もう何処にもいないのだろうか。
椎名はいまだ冷たい彼の手を握り締める。
あなたが目覚めたとして、わたしは“あなた”だとちゃんとわかるだろうか?
「真名を握って、それで私の力を奪ったつもり?」
それだけで、私を支配できるとでも思うのか?
「いいや、私は臆病でね。一つだけじゃ安心出来ないんだ……どう、体が重くないかい?君の体の時間を、十数年進めたよ」
時間守は、時がとどまることなく、よどまず流れることを見守る存在。
その力をもってしても、過ぎ去った時間を戻すことは出来なかった。それは誰にも出来ないことだ。どんなに力があっても、おそらく“神”と呼ばれるほどの存在でも。
でもね、と真柴は目を細めて己の名づけ子を見た。彼女の体の中では、凄まじい速さで老化が進み……彼女を蝕んでいることだろう。
時を戻すことは出来なくても、進めることは出来るんだよねえ。
まあ、禁じ手の部類だけどと、真柴はこともなげに答えた。
「時間を……では、お前、時間守かっ」
「そうそう。真名の呪と時間守の禁じ手、二つともくらっちゃ、ちょっと勝ち目ないよねえ?」
魔女は胸を押さえながらも、艶然と笑い顔をあげた。
「時のしもべが、時に逆らうと?いずれ時間に復讐されるわね?」
真柴は肩を竦めた。時間守であっても……いや、時間守だからこそ、時間を蔑ろにする行為には重い罰が下される。己が守っている“時間”そのものから。それを十分に知りつつも、そうするより真柴には手立てがなかったのだ。
「いいよ別に。私は十分長く生きたし。で、君はどうする?まだ続けるかい?」
時間に支配されず生きる生き物などいない。
いかに強大な力を持とうとも、それだけは全てにおいて平等だった。
「ええ、続けるわ。わたしの望みを叶えるまで」
魔女は笑いながら両手を空に掲げた。何処ともなく現れた光の靄が彼女を包み隠していく。彼女は何処かで、負った傷を癒すのだろう。そうして再び、己の望みを叶えるために、此処に現れるのだろうか。
真柴は今は彼女が去るに任せようと思った。
彼女を完全に止めるには、力が足りない。しばらくの猶予が必要だった。 いずれ、決着をつける日が来るとしても。
「そうそう、ひとつ、言っておくわ。その子はもうすぐ異形に変わるわ。もう誰にも止められない。わたしにもね」
望みを叶えた代償に。女は笑い……靄の中にとけた。
誰もが呆然と壊れた地面に座り込んでいた。ある者は己の折れた杖を握りしめ、ある者は傷ついた者とともに身を寄せ合い。
己に降りかかる災厄は一旦去り、けれどいずれ……同じかそれ以上の災厄がやってくることを予感していた。嵐のやんだ空はどこまでも高く青く、地上で起きたことなど知らぬげに、いつもと変わりなく在った。
それはまさに、高みに何者かの存在が在るとして……それが地上に生きるものを気になど掛けてない事を知らしめる、そう思わせるに十分なほどの。
酷い虚脱感と、それを上回る不安とで、立ち上がることが出来ないで居た。
そんな人々が大勢居る中、真柴は静かに歩み寄り、そっと声をかけた。
泣きそうな顔で、目を覚まさない彼の手を握り締める、椎名に。
「……椎名」
「ねえ、目を覚まさないの。異形に変わるって、どういうこと?」
あの魔女は去り際に、不吉な言葉を残していった。望みを叶えた代償だと言った。
すがるような目で見上げる椎名に、真柴は首を振った。
「彼女の呪は消えたはず。けれど、長い間にそれは彼を蝕んでいて、体に染みこんだ毒は、もう消せないんだ。おそらく、その“毒”が、彼を違うものに変えてしまうんだろう」
巧妙に榊の望みと絡みついた毒は、他の誰にも見破れなかった。それゆれ、手の施しようのない時まで、手を打つことが出来なかった。椎名の顔が悲しみに歪む。
「そんな……何とかして、元に戻すことは出来ないの?」
残念だが、と真柴は首を横に振った。同じく床に横たわったまま、彼女の師匠も首を振る。
力を使い果たした掠れた声で、師匠はとても悔しそうに言った。
「気づかなんだ……いつ、榊があの魔女と取引をしたのか。それを見破れなんだ、わたしの落ち度じゃ」
榊自身の望みが、煙幕の役割をした。奥にひそむ魔女の望みを覆い隠し、そうして榊自身をも失わせた。
「そんな……」
一縷の望みも絶たれ、椎名は言葉を失った。次第に変わっていった榊。
それを不思議に、悲しく思いながらも、椎名もそれは、彼自身の変心によるものだと思っていた。
人は変わる。どんなに親しくしていても疎遠になったり、心が離れたりもする。
特にきっかけがなくても、違う流れにそれぞれが乗ってしまったみたいに、離れ離れになってしまうように。
彼が“変わり始めた”時に、もっと話をしていたら、今とは違った結果になったのだろうか。全ては仮定の話だけど。
結果は変わらなかったかもしれない。でも、あの時何もしなかったことを、今になって悔いることは、なかったはずだ。
彼女を痛ましそうに見つめながらも、真柴と師は、目を見交わして、頷いた。
異形に変わるという榊。このまま放っていてよいはずが、なかったから。
彼女にとって、さらに残酷な事を告げねばならぬ。言いたくはない、けれど、言わねばならない事だった。
真柴は彼女と視線を合わせ、言った。
「他の誰にも、彼を助ける事は出来ない。そして、異形に変じる前に、彼を殺さなければならない」
毒が回りきり、体だけでなく心まで、異形のものに変じる前に。
異形に変じて、強大な力を本能でふるわぬようにするために。
ひゅっと椎名の喉がなった。冷たい彼の手を握りしめる。
冷たいのは彼の手か自分の手か、わからなくなっていた。
それは、当然予想されるべき言葉だったにも関わらず、酷い衝撃を感じた。
「他に、方法はないんですか?彼を助けるための手立てはっ」
彼の顔が苦痛に歪むのも、体がとても冷たいのも、異形に変じる過程なのか。
椎名の師も真柴も、首を横に振った。
「もう遅い。彼の体は既に、変化を始めている。わかるだろう?彼の体の中で、二つの力がせめぎあっているのを」
椎名は頷いた。頷かざるをえなかった。
触れた手から、奇妙な波動が伝わってくる。
そして真柴や師の言うことも、わかってはいたのだ。ここまできたら、もう助ける手立てなどない。榊でないものに変わってしまう前に、と言うことも。
わかるけれど、認めたくなくて。
「とても辛いことだが、これ以上伸ばすのは彼にとっても辛いことだ。決断するなら今しかない」
いいねと真柴は静かに言った。椎名は目を伏せ、彼の顔を見た。
成長した彼の傍に、こんなに長く、こんなに近くに居るのは、多分初めてだ。多くの人ごしに、あるいは遠くを歩く姿を窓から……離れたところから、見るしか出来なかった。近くに居ても触れていても、彼は目を覚まさず、椎名を見ることも声をかける事もない。せめてもう一度。
「よい、真柴、それはわたしがやろう。師であるわたしがしてやれる、最後のことだ」
杖を支えに立ち上がった師が、覚束ない足取りで彼女たちの傍にやって来る。
「さあ……椎名。彼から離れて」
椎名は真柴の言葉に、従うことが出来なかった。
握り返さない手でも、合わない視線でも、椎名の名前をけして呼ばない声でも。
それでも。
「椎名」
促す声に、椎名は目を閉じた。思い返すのは、ともに居た日々のこと。
その時一緒にいた榊は、今何処にいるのか……とうに「榊」の中から消えてしまっていたのか。
それを知る術は、きっともう、ないのだ。
「……ごめんね……」
呟いて、椎名はもう一度、榊の手を握りしめた。昔呼んでいた、彼の呼び名とともに。
「……え……?」
ほろほろと涙が頬を伝う。
「……また泣いているのか?泣くなよ……」
空いた手で、榊は椎名の頬に手を伸ばす。その目は確かに椎名を見ていたけれど……他の誰かと間違えている?椎名はもう一度、彼の呼び名を呼んだ。
「ね、あたしだって、わかってる、の?」
榊は不思議そうに首をかしげ、椎名を見上げた。
「他の誰がいるんだ?変なこと、言う奴だな」
何か変な夢でも見たのかと、彼女の……彼しか呼んだことがない、かつての呼び名を口にするに至って、椎名は、これはあの彼だ、ああ彼が戻ってきたんだと思った。
椎名と視線も合わせなかった、名前も呼ばなかった彼じゃなく、かつて誰よりも一緒にいた、彼が。
たとえ、ひと時のことでも。
「変なんだ。ずっと、夢を見ていた気がするんだ。見回しても何処にもお前が居なくて。でも、今は居るね」
「うん、居るよ。あたしはずっと、近くに居たんだよ」
「そうだったのか?ならなんで、俺はそれに気がつかなかったんだろう……泣くなよ」
「泣いてないよ」
「……ほんと、泣き虫なんだからなあ……もう、泣くなよ。そうだ、約束したろう?誰も見たことがないくらい、綺麗な花をやるって。それ、やるから……」
誰も見たことがない、綺麗な花をあげる。
それはかつて、彼が自分に言った言葉。
泣いてばかりの自分を慰めるための……笑わせるための、他愛ない遠い約束みたいな。
叶っても叶わなくても、よいような。
少なくとも、自分はそれが果たされなくともよかった。
その、言葉だけで。
「だから、もう泣き止めよ」
長く待たせてごめんなと、榊は笑う。握った手は冷たく、榊の体は確実に変化しているのに。
それに、榊が気づいていないはずはないのに。
榊は細い息を吐いては、涙が止まらない椎名の頬をそっと拭った。
それとも、記憶も何もかも混乱しているのだろうか。彼の中では、魔女の毒に浸されていたときの事はなかったものにされているのだろうか。椎名にはわからない。
もうどちらでもいいと椎名は思った。
いま、ここに居る彼は、確かにかつての“彼”、榊と名乗る前の彼だったから。
「大丈夫だよ、そんなに待ってないよ。綺麗な花、楽しみにしてるからね」
彼は、すぐだよ、今度は待たせないよと笑った。
真柴は彼と彼女の様子を、すこし離れたところで見守っていた。
目覚めることなく異形に変ずるかと思われた榊が、ひと時であろうが、本来の彼に立ち戻ることが出来たのは彼女が名前を呼んだからだ。
真名もなく、名すらないと彼女が言った、彼と彼女の世界には、互いしか居なかった頃の、呼び名。
ありがとう、と椎名は笑った。子どものような笑顔で。
「ありがとう……ねえ、とても疲れているでしょう?少し眠ったら?」
「うん……そうするよ。また、あとでな」
「うん、またね……おやすみなさい」
明日が来ることを疑わない子どものような、他愛のない挨拶を交し。
彼は目を閉じた。子守唄のような優しい韻律で椎名が歌っている。
それはとても穏やかで、やさしい声だった。
最後の言葉を歌い終わって……椎名はベルトに差したナイフを抜き、彼の胸に突きたてた。
その、瞬間。
光が満ち、榊の体が消えた。光の中に溶けてゆくように。
眩さに目を細めながら、真柴は問いかける。
「椎名、これは……?」
「あたしの名前にかけて……“榊”を殺しました。もう、今まで居た彼はいません。記憶も力も、なにもかも失くして……全く別の存在に変わっています」
あたしの・・・“汝をしいする”その名にかけて。
それは椎名の“仮名”による魔法。
「“椎名”・・・で、“しい汝”か・・・」
真柴は呟く。彼は全く抵抗しなかった。
それどころか、進んで椎名の刃を受け入れたように見えた。
彼自身、元に戻れない自分に気付いていたのだろう。
が、別の存在に変わっているとは、一体。
首を傾げる真柴の耳に、悲鳴のような魔法使いの声が聞こえてきた。
「西の街に、異変が起こっています!星が堕ちたような!」
まさか、と真柴は椎名を見た。彼女は静かな目で真柴を見あげ、言った。
「異形に変わるのは止められなくても……何者にも、害をなさない存在であれば……在ることを許されるんじゃないかと思ったの。“榊”の毒に染まった部分を全て殺した。記憶も知識も、力も毒に染まっていたから、全て消えたわ。残りの部分が、どう変わったかは、あたしには見届けられなかったけど……どうなのかしら」
不安げに遠見をした魔法使いに、椎名は尋ねた。
「ええと……特に不穏な力は感じられません!姿は別のものに変わっていますが、あれは、一体……っ」
驚いたような声をあげた遠見に、なんだと師は問う。
「彼を中心に……なんと見事な、花が……花畑が広がっています……っ」
「……花?」
きみに、誰も見たことがない花をあげる。
ふわり、ふわりと。
何処から現れたのか……花が降った。
あとからあとから、雪が降りつむように。
茫然と立ち尽くす椎名の肩に、頭に……うつくしい色合いの、誰も見たことがない、花が。
ありがとう、と椎名は呟き、微かに笑った。
「本当に、誰も見たことがないくらい、綺麗な花ね」
「これが、時間守の証の時計。この螺子を巻き続けなければならないんだ……そうしないと、時間が止まってしまうからね」
はい、と手渡されたそれは、手のひらに収まってしまうくらい小さいのに、ずしりと重く感じられた。
古びてはいるが、美しい細工のほどこされた、小さな時計。
「螺子を巻くのを、止めようと思ったことはない?」
「そりゃあ何度もあるよ。でも、止めることは出来なかったな」
そう、と椎名は呟く。これからは、螺子を巻く役目は自分のものとなる。そうして、長い時を生きることになるのだ。
「椎名……今ならまだ間に合うよ。私にはまだ多少の時間があるから、他に引き継いでくれる誰かを探したっていい。だから……」
「だから、何?ねえ、これはあたしが望んだことなの。長い時を生きることが出来る、それがあたしの望み。そしてあなたは、誰かに時間守を引き継がねばならない。お互いの利益が一致してて、結構なことじゃないの」
そんな顔をしないでよと椎名は笑った。
あの時から、真柴は椎名の泣いた顔を見たことがない。
真柴の名づけ子との争いが一先ず終わった後。
魔法使いの塔はしばらく騒然としていた。
本拠地を襲われたことと、魔法使いとして功績をあげ、また将来を有望されていた者が、かの魔女の手足として使われたこと、その二つで。
彼の為した功績は全て、他の者の功と為り、彼の名前すら消された。
今はまだ、彼の事を見覚えている者がいるが、記録にすら残らない、名前も経歴も功績も奪われた彼は、存在したという証さえなくなってしまう。高位の者に、塔へ脅威を為した悪しき存在としてのみ、密かに伝えられるのがせいぜいか。
「長い時を生きたとして……いつか、倦んでしまうよ。それでも、いいのかい?」
「いいわ。それで、いいのよ。あたしは彼と約束したの。またねって。時間が過ぎて、いつか彼が時間に倦んでいたら……その時、少しでも笑って欲しいのよ」
記憶も力も、姿も失って。それは“彼”とは呼べない、違う存在であっても。
約束、したのだからと彼女は笑う。
彼の体に染みこんだ毒の影響か……彼は時間の輪から取り残された存在となっていた。いつ彼の生が終わるのか、誰にも予想できない。上層部には、椎名のした事に異論を唱える者が出始める始末だった。
それでも彼女が笑っているので、もう真柴に言えることは、何もなかった。
彼女の隣に立つのは……彼女が隣で立っていたいのは、ただ一人しかいなかったのだ。
たとえ、傍にいなくとも。
「いつか長い時に飽きたら、この時計を誰かに譲ってしまうがいいよ」
「ええ、引き継いでくれる、誰かを見つけたらね」
誰も見たことがない花。とても、うつくしい花。
あなたなら、それに何と名前をつけるの。
ただ唯一の花に。
それとも……何も名などつけないかしら?
唯一の“花”だから。
「ねえ、これを引き継いでくれないかしら」
「いいよ、それが、きみの願いなら」