となりに居たいヒト
ああ、何処か行くのかしら、あれは礼装よねえ。
最近、よく外に出ていくわねと、師匠の研究室の窓から下を見下ろし、彼の様子を眺めるのが、彼女の習慣になってしまっていた。
掃除の途中だったので、使い込まれた箒を手にしたまま。
金糸銀糸を縫いこんだ、裾の長い衣装は煌びやかで、それは彼にとてもよく似合っていた。
似合っていると、面と向かって言った事もないし、おそらく今後も、言う機会なんてないだろうけど、と椎名はため息をついた。
幼なじみであったけれど、それはとうの昔の話。
彼にとってそんな過去は、まるで無かったものの様に……彼女と視線が合うことはない。
こんなふうに、手など届かない距離で、見つめるのが精いっぱいだ。
そして彼女が見ていることなど、彼は気づいてもいないだろう。
もし仮に視線に気づいていても、彼を見つめる目は沢山あるから、その中の一つ、そんな取るに足りないもののような感じで。
もう、ここ何年も、彼と話なんてしていなかった。
話しかけた言葉が空に浮くたびに、彼から何も言葉が返らないたびに、渡すことが出来なかった言葉を飲み込むたびに心が重くなり、そうしてその重さに耐えかねて、彼女は彼に話しかけるのをやめた。
見つめるだけなら……自分が傷つくことはないから。届かない距離をやるせなく思いはしても。
あ~あとため息を再びつく。目を上に転じると、窓に切り取られた空は、腹が立つくらい晴れていて、いっそ布に染めたいくらい。こんな天気のいい日なんだから、考えたって何にもならないこと思うのは止めようと椎名は頭を振った。
物思いにふけっていたせいか、背後からかけられた言葉に、すぐに反応出来なかった。
「わたしなら君の隣に居られるのにねえ。わたしが君の隣で立っていてもいいかい?」
それに何故、頷くことが出来なかったか……椎名はかなり後になるまで、わからなかった。
箒をぎゅっと握りなおして、椎名は振り向いた。
入り口のところに、最近ここへ出入りするようになった、時間守の真柴が居た。本気か軽口か、椎名には判断がつかなかったけれど。
さあ、あたしはちゃんと笑っているかしら?
椎名は自分に言い聞かせ、明るい声を出す。
「あら真柴さん、いつ来たんですか?」
「ついさっき。先生は?」
さほど広くないとはいえ……師匠の研究室は樹海のように障害物で見通しが効かない。
本の柱が出現しかたと思えば、ガラクタの海が広がる。これでも、だいぶマシになったんですっ、と初めてここに足を踏み入れた真柴が驚いている横で、思わず椎名は口走っていた。
だって、助手がいて、この有様なのかって思われるの、嫌じゃないですかっ。
ああ椎名、それフォローになってないよと師匠はにこにこ笑いながら言っていたっけ。
そう、師匠はどう思われようと気にしない。他人の評価を欲していない。 それはある意味すばらしいと思うけど、何事も程度問題だと、いたちごっこのように片付けと収集の攻防が続く事に、椎名は頭を抱えていた。
「入れ違いですね。会議に行かれたの。しばらく戻って来られないと思うんですが……どうします?」
じゃあ帰ると彼が答えてくれるのを、椎名は期待していた。けれど。
「じゃあ待たせてもらってもいいかな?」
「……どうぞ?」
彼は師匠の知人で、とても親しい人のようなので、椎名があれこれ言う筋合いはない。師匠がここへ通すという事は彼を信用しているということ、なのだろうから。
もっとも、師匠は見られて困るものは、ちゃんと“鍵”をかけてある。収集癖もあるし片づけられない師匠だけど、その辺りは流石にきちんとしていた。
「あたし、片付けしなくちゃいけないんで、少し埃たちますけど」
「ああ、気にしないでいいよ」
鷹揚に手を振られては、それ以上言い募る言葉が椎名にはなかった。
ため息を押し殺し、床に積み上げられた本を手に取る。この間少し片付いたと思ったら、なんと師匠は箱一杯の本を買ってきてしまったのだ。
取りあえず関連分野ごとに分類して整理しやすいように置いている状態だった。
それら以外にも、分類して押し込めるぞと意気込んでいた、本の整理もまだ終わっていない。
ガラクタ類の片付けも手付かずだ。師匠のものだから、椎名が「……これって、がらくたでは?」と思っても手出しするわけにはいかない。
生ものは師匠にきつく言って、持ち込みを禁止させたので、腐敗や黴の心配からは解放された。
だって、一度と言わずあったのだ。モノをどかしたあとに、うぞうぞっと這い出てきたものが。虫くらいでは悲鳴をあげたりしない椎名だけど、流石に驚いて飛び退ってしまった。あれは心臓に悪かった。
その辺り師匠も反省したらしい。何よりである。
黙々と手を動かす椎名だが、何とも言えない居心地の悪さを感じていた。 壁に寄りかかったまま、じっと真柴が見ているからだ。それも、何か言いたげな雰囲気で。早く師匠、戻って来てくれないかなあと椎名が思っていた時だった。
「ねえ……君はいつまで、そうしているつもりなのかな?」
「……なんの事ですか?」
「私にしときなよ。彼は君のほうを向くことはないよ」
「……何気に失礼で、おまけに自信過剰な言葉に聞こえるのは、あたしの気のせいですか?」
椎名は再びため息をついて、真柴の方を振り返った。
真柴は相変わらず読めない表情で、じいっと見つめてきた。
そうだった、この人は相手をじっと見つめて、目を逸らさない。
時間守だと言った。
時間が滞りなく流れることを見守り、また手助けする仕事。一般にはあまり聞く事のない……おそらく、自分たち魔法使いよりも、稀少である存在だ。殆どの人たちはその存在すら知らない。
当たり前のように在る“時間”それが、今後も当たり前のように存在すると……信じている。疑ってもいない。
魔法使いがいなくても、魔法がなくても人々の生活が困ることは少ないけど……“時間”がなければ、何も存在しえないのに。
真柴は、さあ、君がどう感じるのか、私は君じゃないから、わからないけどと言い添えて。
「でも、私の本心だよ。どうかな?」
「そう言われてもですね、あたし、あなたに会っていくらも経ってないんですけど」
「うん、この間初めて会ったばかりだよね。それで?」
「“あなたにする”為の判断材料、少なすぎると思いません?」
「そうかな。時間かけても、駄目なものは駄目だし。こういうのは直感と思い切りだよ」
「残念ながら、あたしは両方とも持ち合わせがないので。謹んでお断りします」
「そう~?自分で言うのも何だけど、わたしってお買い得だと思うよ?」
「だから、何でそれ自分で言うんですか~その時点で台無しですよ。でも、一つ聞いていいですか」
「なんなりと」
「なんで、あたしにそんなこと言ってくれるんです?それって、あたしが」
言いかけて、椎名は視線が次第に下に落ちてしまうのを止められない。
なに、と優しい声で促されて、椎名は目を上げた。真柴は驚くほど優しい表情で待っているから。せめてちゃんと目を見て、言おうと思った。
「……あたしが、可哀想だから、ですか?」
振り向きもしない彼を、追い続けるあたしが、哀れですか?
可笑しいですかと。
真柴は首を横に振ると、穏やかな笑みを浮かべた。
椎名には何故真柴がそんな事をいうのかわからない。考えられるとしたら、それしかなかった。
「違うよ。言ったろう?直感と思い切り、これだって」
わたしは君がいいなあって思ったんだ。理由が他に要るのかい?
「いいえ……それで、十分です」
ありがとうございますと言ったら、真柴には苦笑いされた。
振られたのにお礼言われちゃったよと。振るも振らないも、そういう相手と考える余裕もないのにどうしろと、と椎名はぐるぐると考える。
「ええと……お友達として、お茶でも飲むのは、どうですか?」
「お友達ね……今はそれでいいとしよう。お茶は勿論歓迎さ」
「じゃあちょっと待ってて下さいね」
椎名はお茶の準備を始めた。とっときの茶葉があるのだ。先生と二人、楽しみに少しずつ飲んできたお茶。
せめてそれを入れてあげようと思った。
お茶をいれている間、椎名は独り言ですから、と前置きをして話し始めた。
「あたしと彼、今はろくに話も出来ないんですが……幼なじみって奴なんですよ。師匠に拾われて、ここに来たんです。ほんと小さい頃は、何をするにも一緒でした。話もしなくなってから、何年経つのかなあ……」
独り言、と椎名が言ったから、真柴は相槌も打たず静かに聴いてくれる。
「きっかけが何だったか、あたしにはわかりません。あるときから彼が返事をしてくれなくなりました。あたしはそれでも話しかけたけど、次第に視線も合わなくなって。あたしがそこに居ないみたいな。居て、話しかけているのに、無いものとして扱われるのは、流石に悲しくなっちゃって」
ティーポットを温めた湯を捨て、茶葉をいれ、新たなお湯を注ぐ。カップを二つ、用意して、湯を注いだ。
「あたしはそれから、彼に話しかけるのは止めました。遠くから……多くの人越しから、あるいは窓越しから、見るだけにしたんです。距離と人を隔てているから、視線が合わなくても仕方が無い、声が聞こえなくても仕方が無いって思いたかったのかも」
自分が辛くないように、誤魔化してたの。
言葉も交わしたくない、目も合わせたくないほど嫌われたって思いたくなかったから。
「もうわかってはいるんです。いい加減思い切らなきゃって。でも、ねえ……」
なかなか、思い切ることも出来ないのよ。笑ってしまうでしょう?
「元のようになりたいわけじゃない、好きになって欲しいわけじゃない、ただ……話をしたいだけなのかも、しれません、ね」
今となっては、自分でもよくわからないんです。
カップの湯を捨てて、琥珀色の紅茶を注いだ。よい香りがあたりに漂う。
どうぞ、と差し出すと、真柴は礼を言って受け取った。
一口飲んで、ああ美味しいねと真柴は言い、椎名はそれならよかったですと答えて、自分もお茶を飲んだ。
ややして、真柴が言った。
「別に、無理に思い切る必要もないんじゃないかな?君の気が済むまで、思い続ければいいさ」
「そう、なんでしょうか」
「そうさ。すべては君の心次第……何が起こるかわからないんだから、彼が再び、君の隣に立つ日も来るかもしれない」
同じくらい、私が君の隣に立つ日が来るかもしれないって確率も、あるとは思うけどねと彼は付け加えた。
そうですね、と笑いながら、椎名は答えた。
どちらも……同じくらい、実現するのには低い可能性だわと……思いながら。
時はけして戻せない。
滑らかに流れる時間の、どこに転換点があったのか、知る術はない。
流れ去った時間の何処を探しても、答えは書いていないから。
だから……過去に戻りたいとは思わないの。
だから、せめて……少しでいいから。
あたしを見て、ちゃんと見て。
それで、話をしましょう。
何でもいい、話したそばから忘れるような。
そんな、他愛のない、話を。