きみに、誰も見たことがない花をあげる
「きみに、誰も見たことがない花をあげるよ……なんて、もう覚えてないよ、ねえ」
椎名が師の研究室で片付けものを手伝っていた時、花瓶(このモノが乱雑に散らばった部屋からよくぞ見つけ出したものだと思ったが、あるいは何処かから花瓶ごと持ってきたのかもしれない)に生けられた花に目が留まった。
うず高く積まれた本や紙の束(それこそ塩の柱のように、部屋の四隅といわず、壁際にはびっしりともう一つの壁のように)で、移動するときは抜き足差し足で動かなければならない師の研究室には、まことに不釣合いだったから、余計に椎名の目を引いたのかもしれない。
喩えるなら……荒れ野に極彩色の花が咲いたごとく、異質な“花”は目立ったから。
そして。とてもきれいな、そして見たことがない花に、ふと昔の事を思い出したのだ。
「きみに、誰も見たことがない花をあげるよ」
泣くばかりで、“彼”を困らせていた自分を宥めるためか、“彼”はそう約束してくれた。
何がそんなに悲しくて寂しかったのか、今となっては少しも思い出せないのだけど……そう約束してくれた時、とても嬉しかったことは、よく覚えている。
多分それは、今となっては“彼”の中で、なかったことになっているのだろうけど。
なかったこと、どころか。
「あたしの事も、もう昔そこに居た人、って扱いになってるのかなあ~……ああ、自分で言って滅入ってきた……うう」
「椎名、その花がどうかしたかい?凄い目で睨んでいるようだが」
本の影から(本棚の影から、でないところが凄まじいのだが)師が声をかけてくるまで、椎名は花とにらめっこをしていた。何となく決まりが悪くて、椎名はそそくさと中断していた片づけを再開する。
「別に、何でもありません」
「そうかい?おお、足の踏み場が出来た!」
これで物を倒さないで移動できるぞと喜ぶ師に、椎名は呆れた顔でため息をついた。
「師匠。喜ぶにはまだまだ早いですよ!あたしの野望としては、床の本もすべて本棚に収納して、きちんと分類することなんですからっ!」
「ああ、君のそれは、野望で終わるよ。何ならこの杖を賭けたっていい!」
「……師匠、自信満々で言うことじゃないでしょう……てか、そんなことに杖賭けないで下さい……」
師匠が得意そうに掲げたのは、魔法使いの身分証にして力の行使に必要な、大事、なはずの、杖だった。
うるさ型の、他の長老たちの耳にでも入れば、椎名のように呆れるだけでは済みそうになかった。
そうかい?とまるきりとぼけたふうに首を傾げたあと、師は「これ食べるかい」と焼き菓子を手のひらに差し出してみせた。一体いつの間に取り出したのかと思うくらいの、早業である。
いただきます、と椎名は持っていた本をひとまず置いて、菓子を貰った。
ずっと片づけをしていたので、少し休憩したくなったからだ。貰った菓子をもくもくと食べながら、近寄れるようになった窓際から下を見下ろした。 行儀が悪いけれど、見咎める人がいないのでいいだろうと。
何処もかしこも石造りの魔法使いの建物。鉢植えなどで緑をあちこちに配置してあっても、どこか冷たい印象があって、長年ここに居ても、いまだ椎名は馴染めずにいる。ぼんやりと下を行きかう人を見ていたとき。一際鮮やかな色彩が目に飛び込んできた。あ、と椎名は小さく声をあげた。
「おや、あの子がいるね」
「……ええ」
美しい衣装を幾重にも重ね、手に杖を持つ集団の中に、彼は居た。
金糸銀糸、色糸をふんだんに使い、また染め文様織文様も美しい衣装は、高位の魔法使いであることを示すもの。
“彼”は若くしてその地位を得ていた。
彼女の幼なじみで、ある時までは兄弟のように育った、“彼”。
「元気でやってるようだねえ」
同じように窓際へと来た師匠は、のんびりと笑った。
「……そうですね」
椎名は少し複雑だった。
椎名が杖を授けられたのは、つい最近のことだ。“彼”はとうの昔に杖を授けられ、魔法使いの塔始まって以来の逸材と言われ、様々な逸話に事欠かない。
なんだか、昔一緒に居たことがあるなんて、嘘みたいだ。時々椎名はそう思う。
「あの子とお前を預かったのが、ついこの間のように思えるんだがなあ」
時間の経つのは早いものだ。何度か繰り返した言葉を、このときも師匠は口にした。椎名は少し笑っただけで、何も答えなかった。ただ、遠くから彼の姿を見ていた。
今はもう、見ていることしか、出来なかった。
「ところで、この部屋には不似合いな花、一体どこから持ってきたんです?」
「ああ、これかい?貰ったんだよ。この辺には咲かない花だそうでね」
貰ったって、誰にですかと聞きかけて、椎名は口を閉ざす。
誰かが扉を叩いたからだ。どうぞ、と師匠が声をかけると、背の高い、見知らぬ青年が入ってきた。
「こんにちは、お言葉に甘えまして、お邪魔しました」
「おお、よく来てくれた、どうぞ寛いでくれ」
ちょっと師匠待って下さい、と椎名は内心悲鳴をあげた。
師匠が勧める長椅子の上には、片付け途中の本の山が、鎮座ましましていたのだ。椎名は慌ててそれらをかき集め、とりあえず客人が座れる場所を確保した。
まったく、師匠はこんなことにちっとも頓着しないんだから!客人はおっとりと、「お気遣いなく」と微笑んでいる。ますますいたたまれない。
なんとか体裁を整えたところで、客人と師匠に座ってもらう。
「この子が椎名、わたしの弟子だよ」
「はじめまして、椎名と言います」
「で、こちらが真柴さん。あの花をくれた人だよ」
ふうん、一体何をしている人なんだろうと椎名が思っているとき、それでね、と師匠は続けた。
「時間守をしている人なんだ」と。
椎名は驚いて、まじまじとその人の顔を見てしまった。
時間の流れが滞らないように見守る役割を担うその人に、椎名が会うのはこれが始めてだったのだ。