おわりとはじまり
何故その申し出に自分が頷いたのか、後々まで疑問だった。
「もうすぐ着くからね~」
深い森の中、うさぎは連れ立って歩いていた。少し先を歩くのは、矢萩という放浪が趣味(としか、うさぎには思えない)男。大きな荷物を苦もなく背負い、矢萩は慣れた風に昼なお暗い森の中の道を進んでゆく。
踏み固められ、草が少ないことで道と知られるような……そんな、地元の者しか使わないような、細い道だった。しばらく歩いていても、誰一人として通りかからない。
だがうさぎは不安に思うこともなく、ただ、そうかとのみ答えた。同じく背中に背負った、わずかばかりの荷が、かたりと音をたてた。
長い距離を歩くのも、知らない道を行くのも、それが何処に通じているのかわからなくても、うさぎにとってそれは不安材料ではないのだ。
その証拠に、道の端々にある見知らぬ草花に、時折興味深げな声をあげては立ち止まっている。目的地になかなか辿りつけないのは、そのためであるが、矢萩も急かしたりはしなかった。この辺は変わらないねえと懐かしそうに呟いている。
そう、ここは矢萩の故郷の近く。彼らの目的地はそこだったから。
「そうそう、着く前に、すごい物が見られると思うよ」
楽しみにしててねと矢萩が振り返って笑い、うさぎははて何だろうと首を傾げた。
縁、もしくは腐れ縁と言っても過言ではなかろう。
互いにあちこち移動しているにも関わらず、うさぎは何度も矢萩と会うことになった。
初めは奇遇だねえと笑っていた矢萩は、それが何度となく続くと、「ねえ、これって運命だよね!」などと嬉しそうにふざけたことを言い出す始末だった。
その痒い発言は、すぐさま黙らせたが、暴力反対と矢萩が喚いていたことなど、背筋を這ったサムイものに比べれば、いかほどのものか。
まあ、互いにお茶が好きで、珍しい茶葉を手に入れるのも好きでとなると、再会する可能性もなくはないなとうさぎは思っていたが、まあその程度だった。
遠い時間の先で、また会うことがあれば違った話もできるかもしれない、その程度の、微かな期待、楽しみのようなもの。
けれど、それが度々続き、しかも毎回繰状態じゃないかと疑いたくなるほど、騒がしく落ち着かない矢萩と話をするのは、かなり忍耐とエネルギーを使うものであった。
まこと、毎回会うたびに、とても楽しそうで、人生楽しんでます!と口に出して言わずとも、雰囲気でそれとわかるような変な男だった。
そう、一度会って話をしたら、忘れられないような。
「初めて会ったときは、もう少しマトモに見えたんだがな」
頭痛をこらえるような仕草で、手を頭にあてるうさぎに、なんのこと~と矢萩はバナナケーキをぱくつきながら先を促した。
「美味しい!うさぎ、君も早く食べなよ。すごく美味しいよ」
手放しに矢萩が褒めるので、店主の女性は有難うございますと嬉しそうに答えていた。
「よろしければ、おかわりはいかが?」
「あ、いただきます、ありがとうございます」
空いたカップに、琥珀色のお茶が注がれる。うさぎにも、どうですかと店主は尋ね、同じくうさぎももう一杯お茶をいただいた。
「それにしてもさあ、此処でも会うとは思わなかったなあ~」
そうだなとうさぎは頷いた。この街も、お茶の産地として有名だった。
ただ、うさぎにも言い分がある。本来の目的地は、この街の先なのだった。地図を見て、たまたまこの街の近くを通るなと思ったから、少し寄り道をしようと決めたのだった。
それが着いてみると、街のお茶屋で矢萩とばったり鉢合わせ。思わず回れ右をして店を出ようかと半ば真剣に考えたうさぎだった。目ざとい矢萩に、「あれ、うさぎじゃないか~君もこの街に来てたんだ~」と素早く寄ってこられ、時間あるならお茶でも飲もうよと、この店に引き摺られるようにして連れて来られたのだった。
そうして、午後のひと時、旅の疲れを癒すと共に、別の疲れが発生しそうな状況である。
「まあね。時々、先回りされてるように感じるのは気のせいかい?」
そんなはずはないとわかっていても、つい尋ねずにはいられない。
まさか、と矢萩は首を振った。
「まさか!君のほうこそ、俺の後つけてない?」
「この僕が、そんな暇なことすると思うかい?」
「いいや、全然思わないけど~」
あははと矢萩は笑う。
「それくらい“偶然”に会うことが多いってことで~……ところで、さ」
一口お茶を飲んで、器をテーブルに戻す。笑みの名残がある目のまま、じいっと矢萩はうさぎを見つめ、尋ねた。
「探し物は見つかったかい?」
それは、顔をあわせる度に、矢萩が尋ねてくる問いだった。
まだ見つかってないとうさぎは答えたのだ。
そう、と答える矢萩の声に被せるように、うさぎは続けて答えた。
「でも……見つかるべきものなら、いつか見つけることが出来る、そう思えるようになったから、焦って探す必要は無くなったのさ」
そうなんだ~と矢萩は少し安心したように答えた。
それから、でも、と言葉を繋ぐ。
「でも、もし見つからなかったら?」
うさぎはひょいと肩を竦めた。それからずれた眼鏡をくいっと人差し指で押し上げる。
「見つからなければ……それは、もう、仕方ないよ。そういう巡りあわせだ」
諦めているわけじゃないよと付け加えると、うん、君はそうだろうねと矢萩は笑った。
そう、諦めるわけじゃない。彼女から引き継いだ時間守の仕事もあるから、そのお陰で有り余る時間を手に入れた。(もっとも、その前から、自分にどれほど膨大な時間が用意されているか、想像しなかったわけじゃないけど。時間守、を引き継いだ事で確定的となったのは事実。そしてその時間は、自分が誰かに時間守を引き継ぐまで続くのだ)
探し物が見つかるべきものなら、“その時”がくれば、いつか手にすることも叶うだろうと、そう思えるようになったのは、時間守であった彼女と。
うさぎはちらりと視線を横に投げた。
森の出口が近いのか、白っぽい道は道幅がひろくなり、彼らは並んで森の中を歩いている。矢萩は鼻歌を歌いながら、ごくのんびりと道をゆく。
「・・・・・・・・」
うさぎは視線を元にもどす。
面と向かって言うのはしゃくだが、確かに彼の言葉のお陰だった。
それは多分これからも、本人に言うことはないだろうけど。
何だか……悔しいというか、複雑な気分だから。
バナナケーキを食べながら、矢萩は尋ねた。
「そっかあ~じゃあ、もしかして、あちこち旅することもなくなるんだ?」
まあなとうさぎは頷く。
全く旅を止めてしまうわけじゃないだろうけど、今までのように旅暮らしということはなくなるだろう。何処か落ち着ける場所で、定住しようと漠然と考えていた。具体的な案や候補があるわけではなかったが。
「じゃあさ、きみ、ウチに来ない?」
その申し出があまりに唐突だったので、うさぎは面食らった。
「・・・・・は?」
「何その、鳩が豆鉄砲食らったような顔は~あのね、……あ、今気がついた」
手で口を押さえ、にんまりと笑う矢萩に、嫌な予感をひしひしと感じ、うさぎはその先は聞きたくないとばかり耳をむんずと押さえたが、すこし遅かった。
「これって、プロポーズみたい?な~んちゃって~」
えへへと照れたように笑う矢萩の頭を、本気で殴りつけたいとうさぎは手をわななかせる。その気配を察して、ちょっと待ったとばかりに矢萩は両のてのひらをうさぎに向けた。
「も~怒んないでよ。あのね、俺集めてきたガラクタとか日用品とかを売る店を始めたんだ。いい加減家に溜まってたし、これからも増えるだろうし」
それで、と視線だけでうさぎは促す。
目が冷たいなあと矢萩はぼやくが、うさぎは構っちゃいられない。
もしまたふざけた事を言おうものなら、今度こそ鉄拳制裁加えてやる気まんまんだった。
「それでね~店するのはいいんだけど、俺ずっとは居られないでしょ~?ほら、店するなら買い付けとか!あるでしょうが!」
それはただの大義名分以上には、どうしても聞こえなかった。
あちこち行くのが本来の目的で、買い付けは二の次だろうとうさぎは推測していたし、(おそらく、絶対に、真実に近い推測だ)矢萩も、それは見破られているよなあ と思っては、いた。
「……で?」
「それでね~店番として、来てくれないかなあって思うんだけど。駄目?」
ことりと“可愛らしく”首を傾げて矢萩はうさぎに懇願する。
今なら各種地方の珍しいお茶飲み放題!店番ないときは自由にしてくれて構わないし、俺が戻っているときは、旅に出られるし、ええとそれから。
指を折って特典を言い募る矢萩に、うさぎは次第に可笑しくなってきた。
先程までは気色悪いことを言われたので、寒気がするほど怒っていたのだが、一つ一つ矢萩が言うたびに怒りは薄れ、呆れてきて。
そして。とうとう、腹を抱えて大笑いしてしまった。
矢萩は当然ながら憮然とした顔で文句を垂れる。
「も~ヒトが真剣に言ってるのに~笑うこと、ないでしょ~?」
「ああ、悪い、っなっ……ははは……」
どうにも止まらなかった。
「も~笑ってればいいよ。で、どうなの?来てくれるよね?いいよね?」
わかったよ、行ってやるよと、うさぎは答えたのだった。
あまりに矢萩が畳み掛けるように言い募るし、肯定の返事しか要らないよと言う子どものようだったので。
そこがどんな所か聞きもせずに。
そうして。彼らは矢萩の故郷へと向かった。
この向こうなんだよと昼なおくらい森を行き、あと僅かでそれも終わろうかという時。
「ああ、やっぱり咲いていた。ほら、どうだい、綺麗だろ?」
森を抜けた先に広がっていたもの。それは。
「……花畑?」
「そ~。俺の生まれるだいぶ前にね、突然出来たんだって。で、誰も世話してないのに、こうして綺麗に咲いてるんだ。不思議なことに、この花は他の土地に持っていっても根付かないし、これ以上広がりもしないんだけど」
でも、とても綺麗だよねと矢萩は言った。
「この花見るとね、ああ帰ってきたなあって思うんだ」
そうかい、とうさぎは目の前に広がる花畑を見下ろした。
森に囲まれた空間。
そこに、切り取られたかのように広がる花畑。
美しい花が咲き乱れるさまは、天上の光景のようですら、ある。
この花を、この花畑、そして森に囲まれた空間から見上げた空を……うさぎは知っていた。
覚えていた。何故なら。
「この花は、他では見かけないね。この土地の変異種かい?」
ううんとね~と矢萩は指で頬をかいた。
「植物図鑑、こんな分厚いの調べてみたんだけどさ~どこにも載ってなかったよ。多分ここにしか咲かない花だろうってことで落ち着いたよ。それに、土地のものでも、こんな森の奥深くまでは来ないから、土地のヒトでもあまり知らないよ」
ここに、こんな花畑が広がっていること、さながら天上の光景のようであること。それは、此処までやってくる物好きたちのための……ささやかな秘密、楽しみであるのだった。
「この花に名前はあるのかい?」
誰かが名前をつけたかい?何処にも載っていない花ならば。
いいやと矢萩は首を振る。
「誰も名前をつけなかったよ。未だに図鑑にも載ってない、名前のない“花”だよ。ここにしかない花ならね~名前なくても、“あの花”でわかるしね」
「……そうかい」
うさぎは目を細めて花畑を見た。
あの日、ここで目覚めたときは、こんな穏やかな気持ちで、咲き乱れる花を見られるとは思いもしなかった。
むせるような花の香りと、色彩の渦に、気が変になりそうだった。
目覚めた途端、己を襲ったのは凄まじいまでの違和感。
己の手も足も……体中が、自分のものではないような気がして。
それなのに、自身には己の記憶が、一欠片もなかったから。
日が昇り、落ち、そしてまた上るまで、花畑の中心にある大石の所で、茫然と座り込んでいた。
これからどうしたらいいんだろう。自分は誰なんだろう。
どこへ行けばいいんだろう。
幸いなことに、いくばくかの知識と、自分でも何故こんなことを知っているのかと不思議に思う特殊な知識を持っていたから。自分を探す旅、己を知るものを探す旅に出たのだけれど。
あれから長い年月が過ぎて。それでも、その間、一度も足を向けなかったこの場所に。
「振り出しに戻る、か。こんな形で戻ることになるとは、想像もしなかったな」
矢萩が辿った道とは、違う道で此処を離れた為、迂闊なことにうさぎは何処へ向かっていたか、わからなかったのだ。
一番混乱していた時の記憶でも、あることだし。
「何か言った?」
「いいや、何でもないさ。とても綺麗だね」
「そうだろう?」
矢萩は自分が褒められたかのように、嬉しそうに笑った。
あの時は一人で呆然と見ていた風景を、今は落ち着いた気持ちで二人で見ている。
それは、なんとも不思議で……くすぐったいような気分にさせられるものだった。
ふたりで。いつか、そんなことがなかっただろうか?
誰かと二人で、広がる景色を、ただ、ずっと眺めていたこと。
おなじ風景の中、違うものを見ていたこと。
そんなことが。
「うさぎ?どうかした?疲れた?」
いいやとうさぎは頭を振る。手に掴もうとすれば霧のように消える、微かな記憶のような願望のような。それが自分が生んだ願望でも、うさぎはもう構いはしないのだ。
自分が作り出した……願い、のようなものでも。
「もうすぐ着くよ~。で、着いたらお茶でも飲もうよ。せっかく珍しいお茶手に入ったんだし、試そうよ」
うきうきと矢萩が言い、そうだなとうさぎも答える。
ただ、釘を刺すことも忘れずに。
「ただ、店の片付けと荷解き済ませてからだよ」
は~いと不承不承矢萩が答えたので、これではどちらが店主であることやら、とうさぎは内心ため息をつく。
「よ~し、じゃあお楽しみのためにがんばりますか~」
お~し、といささか力の抜ける掛け声をあげ、矢萩は道を進んでいく。
うさぎもその後をついて歩いていく。吹いてくる風が花々を揺らし、よい香りをふうわりとうさぎの鼻先まで運んできた。うさぎはふと振り返る。
花畑はそこに、静かに在った。
そして、これからも在り続けるのだろう。名前のない花、名前の必要のない花として。
それは、名前を付けられ、区別されるよりも……ひょっとしたら“特別”なことかもしれなかった。
「うさぎ~?」
先に行った矢萩が呼ぶ。うさぎの名前を。
記憶も名前も、何もかもなくしたうさぎが、戯れに……そして自嘲気味につけた“うさぎ”という名前を。
かつてそれは、ただの記号、他人が自分を呼ぶ、他人に自分を示すための、便宜的にしか過ぎないものであったけれど、いまは。
「ああ、今行くよ」
いまは、これが自分の名前だった。
花畑に背を向けて、ゆっくりとうさぎは道を歩き出した。
探し物が見つからなくても。そして、酷く焦ることがあっても。
時々、となりに誰かが立っていてくれるのならば。
それらを抱えたままでも、長い時間、過ごすことが出来るでしょう。
そのためには何が必要か、もうわたしは判っているから。




