初めての温もり
しくじった。なにでって、体育で。今日はサッカーの日で、俺はたまたまキーパー役になったんだ。走らなくてラッキーとか、そう思ってた自分が馬鹿だった。
ボールが来るまで暇だし、日々の疲れでつい、あくびが出てしまった。口を開けたその瞬間、俺の目の前にボールが飛び込み、そのまま……顔面に直撃した。あまりの衝撃に俺はぶっ倒れ、気付いたら保健室の天井。思い出すだけで恥ずかしいのに、倒れる瞬間、俺の視界に映ったのはあのわかめ頭だった。俺の無様な姿をもろに見られた、最悪だ。
(明日から変な目で見られるかもな……。あの金髪野郎とか絶対ゲラゲラ笑っていそうだ。菅沼は俺の無様な姿を見て引いただろうか……。はぁ……、考えてたら悲しくなってきた)
そういえば今朝も顔面を強打したな、それを思い出して俺は小さく溜め息を吐く。あぁ、今日は厄日だな……。昨日も大切な暇潰しがなくなるし…。目を覚ました俺は、白い天井を見つめながらもう一度、深い溜め息を吐いた。
「あ、気が付きました?」
「っ!?」
すぐそばで聞こえた声にびっくりして起き上がる。急に起きたせいで頭が痛い。
「あ、だめですよ。もう少し寝てないと……」
「な、何で……、お前が……」
「へ?」
痛む頭を押さえながら、声の主に目を向ける。やはり間違えではなかった。
わかめ頭でヒョロ長で骸骨みたいな眼鏡の男……、本物の菅沼……だった。
「な、何で、す、菅沼が……ここにいるんだ?」
「え?……えっと、僕保健委員ですし、今日は先生いないので…」
「……そ、そうだったのか……。知らなかった……」
「えっ……と、まぁ、昼休みぐらいしか活動してないし、影薄いですし……ね」
今まで保健室にお世話になった事なかったから……。仮病とかサボりとかしないし。
でも……、今度から昼飯時になったら行ってみようか……。
「……ちょっ、おい待て。お前さっき何て言った?」
「何って……?」
「先生が……いない、だと?」
「あ、はい、そうです。今日は出張なので……、だから僕が代わりに」
っと言うことは、今この場にいるのは菅沼と俺だけって事か?二人っきり?……嘘だろ?
「そんな事より、具合はどうですか?まだ痛みます?」
「…………………」
「き、聞いてますか?」
「……………………」
「あ、あの……」
頭が真っ白だ。いや、確かに話してみたいとか、猫になって可愛がってもらいたいとか、思った事あるけど……。でも、まさか実現する何て思ってもみなかった訳で……
「……僕じゃ、やっぱり嫌ですですよね?」
「……え」
「僕、見た目が悪いからよく避けられちゃうんですよ。……呪われそうとか何とか…。坂口くんも、嫌なら嫌って言って大丈夫ですから」
「はぁ?」
いきなり何言ってんの?俺何も言ってねーよ。勝手に先走んなよ、このわかめ頭。
「……おい、ちょっと」
「ほ、他の人、呼んできま……」
「ちょっと待てよ、俺、嫌とか言ってない!」
「……わっ!?」
どこかに行こうとした菅沼の腕を、俺は引っ張った。ここにいて欲しい、置いて行かないで欲しい……その一心で。
「あ、あの……?」
「黙ってて悪かった……、ちょっと驚いてただけ、だ。お願いだから…行くなっ」
「っ……は、はい。わ、分かり…ました」
「ならいい。……何だ、その顔は」
「い、いえ、坂口くんがそんな事を僕に言うなんて、思わなかったから……びっくりして。それに……、えっと」
「何?」
「腕、そんな掴まなくても……」
「あ……、ごめん」
菅沼に指摘されて、俺は慌てて腕を離した。無意識に強く握っていたようで、菅沼は掴まれていた箇所を軽く手で押さえた。
「い、痛かった……か?」
「いえ、大丈夫です……何ともなってないですから」
「そうか……、良かった」
「…………」
俺がそう言うと、菅沼は俺の顔をじーっと見つめた。
「……ど、どうした?そんなに……じっと俺を見て」
「いえ、何でも……。そ、それより、具合、どうですか?」
「……大分良くなったっぽい」
「そうですか。……じ、じゃあ一応、念のため確認しますね」
そう言った菅沼は、俺の顔を恐るおそる覗き込んだり、ペタペタと震える手で触ってきた。菅沼の手が温かくて、とても気持ちが良い。ふと視界に、菅沼の手が映った。その手には引っ掻き傷所々にあり、少し痛そうだ。思わず俺は、その傷だらけの手を取って
「……これ、あの猫がやったのか?」
そう尋ねていた。
「えっ…、…ね、……猫?」
「ほら、旧校舎の……、あっ……」
「な、何で……知って……」
ハッとして顔を上げた時にはもう遅かった。菅沼の顔が、みるみるうちに青くなる。俺は全身の血がサーッと引いた。
せっかく今まで隠してきたのに、これではパーじゃないか!
菅沼と一緒に話せて気が緩んだのか?俺、マジアホだろ。
「…いつから?」
「は?」
「い、いつから、知ってた……んですか?」
「……に、二か月ぐらい前、だ」
「……も、もしかして、昨日旧校舎に、い、いましたか?」
「…………あぁ」
「あの音は、坂口くん…だったんだ……」
終わったな、何もかも。俺だと気付かれていなかったら、またあの姿が見られたのかも知れなかったのに。これからは俺を警戒して避けるだろう。あぁ、本当に今日は厄日だ、最悪な1日だ。
「そ……、その事、誰かに言いました?」
「いや、言ってない。……それだけは断言出来る」
「じゃあ、何で……昨日あそこにいたんですか?」
「そ、それは……」
……言えない、猫と戯れる菅沼を見たかったからだなんて。ましてや猫を自分に変換したり、菅沼の顔を見て癒しと暇潰し目的でいたとか……絶対言えない。
「…………」
「……………………」
菅沼が俺を凝視する。その視線に耐えられなくて、俺は口を開いた。
「ね……ねこ」
「え?」
「ねこが、か……かわい…くて、……うらやましかった、から…つい……」
「…………」
菅沼から目を反らして、震える声を絞り出す。言ってから、自分が変な事を言った事に気付いて顔が熱くなる。あー、穴に入りたい。今すぐに。
(……つか、何か言えよ馬鹿。何で黙るんだよっ!?)
若干涙目になっていると、視界の端で菅沼が下を向いた。何事かと思い視線を戻すが、表情が読み取れない。元が骸骨みたいだから地味に恐ろしい。
何だよ、俺あいつの気に触る事言ったか?奴の眼鏡が光に反射して不気味に思いながら、俺は恐るおそる菅沼に声を掛けた。
「な、なぁ……、すがぬ…」
「く……、っく……」
「っ!?おいっ、どうし……」
「くくくくくっ、あははははっ!」
「!?」
菅沼の様子がおかしいので、咄嗟に奴の肩に手を掛けようとしたら、菅沼が腹を抱えて大笑いした。突然の事に俺は固まる。
「な、……なっ」
「ご、ごめん……、あまりにも坂口くんがっ、……か、可愛い事言うからっ……つい……、くくっ」
「えっ、……お、俺が、……可愛い?」
「だって、校内一の不良くんが……猫が可愛いからとか言うんだもん、何かイメージと違ってて……はははっ」
俺にそう説明しながら、尚も笑い続ける菅沼。さすがにそこまで笑われると俺もムッとする。大体、イメージって何だよ、イメージって。
「な、何だよ……悪いか?」
「そ、そんな事ないですよ!寧ろ。僕は、そっちの坂口くんの方がいいと思います」
「……そうか?」
「ええ。坂口くんはもっと怖くて近付きにくい不良っていうイメージがあったから……」
「…………」
そんな風に思われてたんだ……、やっぱ不良ってそんな感じだよな……。軽くショックを受けていると、菅沼が口を開いた。
「特に大きな怪我もないみたいですね。もう大丈夫です」
「……ありがとな」
「いいえ、これが僕の役目なので……。あっ、そうだ」
「ん?」
「これから、あの猫の所に行くのですが、坂口くんも一緒にどうですか?」
「……俺も?……い、いいのか?」
「はい、もちろんです!……あ、でも強制ではないので嫌なら……」
「行く。……嫌じゃないし」
俺が返事をすると、菅沼は嬉しそうに「では行きましょう!」と言って笑った。
旧校舎の片隅の茂みに、俺は初めて入った。これまでただ遠くでこそこそ見ていただけの景色が、今……目の前にある。
隣には菅沼が猫を抱いて頭を撫でている。これは夢なのかと、ちょっとまだ信じられない。
昨日地獄かと思われた着信は、この時のために鳴ってくれたのか。今まで頑張ってきた事が報われたのか?
隣で猫にじゃれている微笑ましい菅沼を見て、俺は思った。
「……可愛いな」
「でしょー?この子とっても可愛いんですよ!ねー」
ニャーン、と菅沼の言葉に返事をするかのように鳴き声を発した。やっぱり、この光景は癒される。
「触ってみますか?」
じーっと眺めていると菅沼が聞いてきた。ずいっと、俺の目の前に猫をやる。
心なしか、猫の表情が険しくなった気がする。
「なんか、俺よりも菅沼の方が良さそうだぞ」
「んー、結構長く二人っきりだったからかな?大丈夫だよー、この人怖くないよー」
何だよその説得、恥ずかしいな……。
「見た目はいかにも怖そうだけど優しい人だよー」
「……おい」
「あはは、ごめんなさい!ちょっと調子乗りました。こんな風に誰かと関わるの久しぶりだから嬉しくて」
猫の背中を撫でながらそう呟く菅沼。その言葉に、友達がいない寂しさが伝わってくる。俺は、無言で菅沼に手を出した。
「坂口くん?」
「猫……触らして」
「え、あ、はい」
そっと差し出された猫を撫でてみる。とても温かくて柔らかい。
「俺も……」
「え?」
「俺も、こんな風に誰かと関わった事……ない。初めてだ」
「そうなんですか?よく不良の方達といるの見掛けますが……」
「あいつらが勝手に付いてきてるだけだ。まぁ、あいつらといるのも居心地いいけど……」
「なら、いいじゃないですか」
「……でも、あそこには俺の欲しいものがない。むしろあげる側になってしまう……それが辛い」
猫を見つめながら、俺は呟くように菅沼に伝えた。こんな事を誰かに言うのが新鮮だ。でも、少しすっきり出来て悪くない。こいつ以外に言おうと思わないが。
「坂口くんって、不思議な方ですよね……」
「どういう事だ?」
「だって、普段の坂口くんは周りに壁張ってるみたいに無口で怖いのに、今は全然違うから……」
「……お前にだけだ」
「うん、やっぱりおかしいですよ。僕にだけだなんて……絶対おかしい。……か、彼女とかには話さないんですか」
「……いないし」
「えっ、嘘っ?!」
「マジだ。俺、女駄目なんだよ」
「へー、意外です。てっきり女性を食い漁っているのだとばかり……」
「お前は、偏見し過ぎだ。つか、校内一の不良にスゲーなお前。普通、不良相手にそんな事言えねーよ」
「うーん、坂口くんだから言えるのかな?僕の中では不良ではなく、可愛くてちょっとおかしな人になってますから」
「ぷっ、なんだそりゃ……」
菅沼の言葉に思わず笑ってしまう。本当に面白い奴だ。知らなかったな、こいつ……こんなに話せるんだ。こいつも教室では大人しい方だから、気付かなかった。とても楽しい。
(今日は頭を打ったり恥かいたりで厄日かと思ったけど……前言撤回だな)
そう思っていると、下からフーッという鳴き声が聞こえた。何だと思い下を向くと、猫が般若みたいな形相で俺に威嚇している。
「何だよ、嫉妬か?……いっつ!!?」
笑いながら空いている左手で頭を撫でようとしたら、指先を思いっきり噛まれてしまった。
「あ、こらっ!噛んじゃ駄目っ!」
菅沼はメッと猫を叱るが、余程猫の癪に障ったのか離れない。
(クソッ、いつも菅沼と一緒にいるんだから、たまにはいいじゃねーかよ!)
そう思って猫を見つめると、お前なんかにやらん!とでも言うようにフシャーッと声を上げた。その隙に指を抜いて猫から少し離れる。手を見てみると、噛まれた所から血がにじんでいた。
「だ、大丈夫ですか?うわー、血が出てる」
「……痛い」
「保健室に戻って消毒しましょう。このままではバイ菌が入ってしまいますので」
「いいよ、これぐらい俺でも出来る」
「ついでですよ。それに、ここに誘ったのは僕ですし……」
「……じゃあ、頼む」
「はい、治療は任せて下さい。では参りましょう」
そう言った後、猫に「また明日ね、もう噛んじゃ駄目だよ」と告げ、保健室に急いだ。
「とりあえず、そこの水道で傷口を洗って下さい。僕は絆創膏と消毒を持ってきます」
保健室に入ってすぐに菅沼は俺に指示をした。言われるがまま、近くの水道で猫に噛まれた場所を洗う。菅沼は棚を開けて絆創膏を探している。
「探すの、手伝うよ。暇だし……」
「大丈夫です。それに場所、分からないと思いますし……」
「う……、そうか……」
そうは言っても、やる事がない。菅沼はあっちで真剣に探してくれてるし。そう思い天井を見上げた。
目に映ったのは、白ではなく橙色。夕陽に染まったオレンジ色の天井だ。いつの間にかそんなに時間が経っていたのか。時計に目をやると、既に五時半を過ぎていた。
いつもならバイトに向かっている時間帯だが、今日は仕方ない。頭を打ったし、何より今はまだここにいたい。
たまには、俺だって休みたいのだ。今日ぐらい、いいだろう。
(……とりあえず、メールで休みの連絡を入れよう)
そう思い携帯を取り出す。バイト先にメールを打っていると向こうから、うーんという唸るような声が聞こえてきた。
メールを急いで送信し、菅沼の所へ駆け寄る。
「どうしたんだ?」
「絆創膏が見当たらなくて……、切らしてたかなー……?でも、まだあったと思うんだけど……」
またうーんうーん唸る菅沼。
「消毒だけやってもらえばいい。大した傷じゃないし……」
「うーん、でも……あっ!」
そうだ、と急に声を張り上げ菅沼は自分の鞄を探り始めた。
「あったあった、坂口くん」
「何だ?」
「絆創膏、ありました!……柄入りですが……」
そう言って見せてきたのは、可愛らしい動物が描いてある、ピンクの絆創膏だった。いわゆる、女の子向けって感じのやつ。
「すみません、これしかなくて……」
「…………お前の趣味か、これ?」
「……えっ、と…、昔妹に貰ったやつなんです。捨てられなくて……」
「妹がいるのか……、いいな。ちょっと羨ましい」
「あはは、とても可愛い妹なんです。顔なんか兄妹なのに全然似てなくて……」
「……そうなのか?」
「はい!坂口くんも、見たらきっとびっくりしますよ!……ただ、最近ちょっと反抗期で、家に帰って来るのも遅いんですよ……。本当に困った妹です」
ははっ、と小さく笑う菅沼。妹の事を大事に思っているのがすごく伝わってきた。
そんな風に思ってくれる人がいるのに、菅沼の妹は贅沢だと思った。俺には、そんな風に思いやってくれる奴なんていない。まだ会った事もない菅沼の妹に、俺は嫉妬した。
「坂口くん?」
「……何だ?」
「いや、何か……思い詰めた顔をしていたから、気になって……。大丈夫ですか?」
菅沼はそう言って俺の顔を覗き込む。俺は咄嗟に顔を反らして一歩後ろに下がった。
菅沼の妹に対する嫉妬を悟られたくない。
菅沼に心配してもらえて歓喜している顔も、見られたくないし。
「……、気の…せいだ」
「そ、それなら……いいのですが」
「それより、……て、手当てをお願いしていいか?」
「あ、そうでした!……坂口くん、この絆創膏でいいのですか?」
「あぁ、俺はそんなに気にしない。むしろ、そんな大事な物を俺に使っていいのか?」
「ええ、普段使う事ないですし、構いません」
「なら、それで」
答えた俺は、さっき座っていた場所に戻り腰を掛ける。菅沼の顔を見ても、特に変化ないようでほっとした。
菅沼は俺の前にある丸い椅子に座り、「手を出して下さい」と指示を出した。言われた通り、怪我をした左手を差し出す。
「こうして見ると変な噛まれ方をしましたね、薬指の付け根とか……」
逆に難しそう、とか呟きながら傷口をまじまじと屈んで見つめる菅沼。時々菅沼の息が手に掛かり、くすぐったい。そう思っていると、薬指の付け根に消毒液を掛けられてピリッとしみた。
少し唸っている間に、ピンクの絆創膏を巻かれ手当てが完了した。
「出来ましたよ、坂口くん」
「あ、……あぁ」
菅沼にそう言われ、手当てされた薬指に視線を向ける。骨張った手には似合わない、ピンクの絆創膏。
その絆創膏は菅沼の私物、という事を意識してしまう。何となく、くすぐったい気持ちになる。
「ありがとな、菅沼」
「いえいえ、これぐらい楽勝ですよ。それより、まだ痛みますか?」
「あぁ、大丈夫だ」
「なら良かった」
俺の返事に、菅沼はにっこりと嬉しそうに笑った。その顔が、あまりにも優しくて、思わず見惚れてしまった。
「坂口くん?どうかしました?」
「……へ?あ、いや、別になんもない」
「?」
不思議そうな顔で俺を見る菅沼。お前の笑顔に見惚れてただなんて、口が裂けても言えない。
「そ、そういや、もうこんな時間、なんだな……」
「えっ?……あっ、嘘、五時半!?」
俺が、誤魔化して時計に目を向かせると、菅沼は慌てて鞄を手に取った。
「何で、そんな焦ってるんだ?」
「晩ご飯の支度をしなくちゃいけないんですっ、買い物も今日中にしないと……」
「……菅沼が、飯を作るのか?」
「ええ、僕しか作る人いないから……」
「……親は作らないのか?」
「あはは、ちょっと訳あり何ですよ、僕の家庭」
菅沼の発言に、俺は驚きを隠せなかった。こいつも、俺と同じ……なのか?
「親……いないのか?」
「父親はいますよ。海外で働いているから、あまり会えないですが……。母は五年前に交通事故で……」
「……そっか。……寂しくないのか?」
「寂しくないって言ったら、嘘になります。でも、もう慣れました」
「……強いんだな、菅沼は」
「そんな事ないですよ。今でも時々、心細い時ありますし……。でも、妹がいるから泣き言いえません」
そう、はっきりと答える菅沼。その姿は、いつもの弱々しい彼と全く違って見えた。それは、とても眩しくて俺には届かない。
「やっぱり、菅沼は強いよ。……俺とは違う」
「え……?」
過去の思い出に縛られて、今もなお愛情に飢えている俺とは違う。父親の自殺、母親に捨てられた記憶……、俺には到底慣れる事なんか出来なかった。それを乗り越える強さなんか持ち合わせていない。何だか、自分が情けなくなり、俺は俯いた。
「坂口……くん?」
「…………」
返事をする気が起こらなかった。菅沼と俺との違いに、何となく壁を感じて、俺は押し黙る。さっきまで、あんなに楽しかったのに、今は少し辛い。親がいない境遇は似ているのに、こんなにも違うなんて……。自分は惨めな男だ、と心の中で思った。
「……っ!」
俺が黙ってしまった事に心配をしたらしい。菅沼は俺に近付いて顔を覗き込む。俺の顔を見た菅沼は、目を見開いて俺を凝視した。
「さ、かぐ……ち……くんっ」
「…………」
菅沼の声は震えていた。
「……菅沼」
そんな顔で凝視する菅沼を見たくなくて、俺は口を開いた。もう、今日は終わりにしたい。早く、一人になりたい。そんな気持ちでいっぱいだった。
「早く行かないと、買い物に間に合わないぞ」
「で、でも……」
「家で夕飯作るんだろう?もしかしたら、お前の妹が帰ってくるかもしれないし。……もう、帰ろうぜ」
捲し立てるように喋る俺の口。菅沼から視線を外し、俺はそう告げた。
「…………」
「なぁ、菅沼。……聞こえてるのか?」
「坂口くん、……ちょっとだけ、いいですか?」
「は?」
菅沼からの発言に、俺は奴を見上げる。菅沼は、小さく「すみません」と言いながら、俺に手を伸ばした。
(えっ…………)
ふわりと、頭に感じる重み。その重みは温かく、俺の頭を優しく撫でる。
「す、菅沼……?」
「ごめんなさい、坂口くんが泣きそうな顔をしていたから……」
撫でたくなってしまったのです。
そう呟きながら、菅沼は俺の頭を撫でた。心地よい感覚、温かい菅沼の手。その手は、冷えた俺の心を温めた。
「僕、坂口くんの事……、あまりよく知らないけど、これだけは言えるよ」
「な、何を……」
「坂口くんは、独りじゃない」
「……っ!」
「君を慕っている人達もいるし、坂口くんの好きな猫もいる。……あんまり頼りにならないけど、僕もいる」
「……菅沼も?」
「はい。……それとも、僕と友達は……嫌、ですか?」
自分を指差して困ったように笑う菅沼。そんな菅沼の顔が、だんだんにじんで見えなくなる。
「とも……だちに、なって……くれる、の?」
出てきた言葉は、普段よりも小さくて、酷く情けない。いつもとは全く違う、子供っぽい口調。それでも菅沼は、笑顔で応えてくれる。
「ええ、勿論です!坂口くんさえ良ければ……」
「……俺、不良だよ?」
「関係ないですよ」
「俺、……あんまりお前と喋れないと思う」
「そんな事気にしなくて大丈夫ですよ」
「俺、……多分お前に凄く迷惑掛けると思う」
「だから大丈夫ですって。……坂口くんは、僕だと……嫌?」
眉毛を八の字にしてまた笑う。俺は首を振った。
「嫌、じゃ……ないっ」
そう答えた瞬間、堪えていた涙がボロボロとこぼれ落ちた。俺の返事を聞いた菅沼は、微笑みながらもう片一方の手で俺の目元を拭う。
「そう言ってくれて、嬉しいです」
菅沼の一言が、菅沼の手が、菅沼の表情が、飢えた愛情を満たしてくれる。それは想像していたものよりも、ずっと優しく俺を包み込んだ。
(これが、俺が欲しかったもの……)
そっと、目元を拭う菅沼の手に触れてみる。痩せているからなのか、皮と骨しかないゴツゴツした手。でもその温もりは、いつまでも触りたくなるような温かさ。
(この手を、ずっと離したくない……)
すり、と菅沼の手に俺の顔を擦り付ける。とても、……心地の良い手。
「さ、坂口くんっ……」
「ん……?」
「さ、さすがにそれは……恥ずかしいで、す」
「……あ」
自分のしている事に気付いて、俺はサッと菅沼から離れる。男に顔を擦り付けられるとか、気持ち悪いってもんじゃないだろう。嫌われていないかと思い、恐るおそる菅沼の顔を見る。
「す、……菅沼」
「……なん、ですか?」
「顔、真っ赤……」
「っ……だ、だっていきなり、だったから……びっくりしたんです」
「……そ、そっか……」
「それに、坂口くんこそ、ひ、酷い顔ですよ。涙でグチャグチャ……」
「悪いか」
「……悪くないですが、せっかくの良い顔が台無しですよ」
「顔とか、別にどうでもいい。見てんのお前だけだし」
「ふふっ、それもそうですね」
顔を赤くしながら、菅沼は笑う。その顔を見たらいつの間にか涙が引き、ドクン、ドクンと俺の胸が鳴り響いた。
(……、……)
いや、この音は今が初めてじゃない。きっと……。
「……菅沼」
「はい、何でしょうか?」
「今日は……ありがとな」
「ふふっ、こちらこそですよ。この学校で友達が出来るなんて、思わなかったですし。……今日はすごく楽しかったです」
「俺もだ。……あの、さ」
「はい?」
「また、……こうして話してくれるか?」
「……ええ、勿論です」
眩しくなるような笑顔を俺に向けて、菅沼は当たり前のように答えてくれた。それが、堪らなく嬉しい。
「あ、そういえば用事あったんだよな……。引き止めて悪かったな」
「大丈夫ですよ、坂口くんの事色々知れましたし」
「……誰にも、言うなよ?」
「分かってますよ。では、また明日」
「あぁ。また明日」
そう挨拶をして、菅沼は保健室を出ていった。
(……また明日、か)
明日も菅沼に会える、また今度お話出来る……交わした言葉の数々に俺は胸が高鳴った。
菅沼は、とても優しくて温かかった。こんな俺を友達と呼んでくれた。今まで会話もろくにしてなかった相手なのに、菅沼は俺を受け入れてくれた。
とてつもなく……嬉しい。
(でも……)
さっき気付いてしまった。あいつへの気持ちが、ただの憧れじゃなくなった事に。いや、もしかしたらずっと知らぬ顔をしていたのかもしれない。
(この気持ちは、ずっと仕舞っておこう)
好き、っていう気持ちなんか……言えないから。