ラブレターの行方
そいつは大仰に話し始めた。
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例えばここに林檎があったとするよ?
あぁもちろん例えば、仮定の話さ。実際に見えているものでなくても脳内で補完できる才能というのは実に素晴らしい。
さて、ここに林檎があったと仮定しよう。ここでいう『林檎』とは青果店にまで行かずともスーパーやコンビ二でも手に入る熟せば赤く色づくあの甘い果実だ。ディスカウントショップに行けばもっと安く手に入るかもね。今時の人々は今更血眼で求めたりはしないだろう。
その林檎だが、さっきの文脈で言えば『あった』と言うだけあって今はないのかもしれない。もしくは仮定法を踏襲した助詞なのかも。そもそもここというのは何処なのだろう?話し手がはっきりしない以上、確かに今話しているのは俺だけれどね?
俺が言うここというのは何も目の前には限定しない。もし目の前に写真があって、その一端を指し示していたならばそれは写真が撮られたその一瞬に瞬く間に過去へ回帰し空間と時間を越えて俺の意識に触れるよう顕現しただろう。
さらに前後の会話があって初めて現れる情景もあるだろう。話し手云々はそこで初めて問題になる。
だが突発的な場合には君はためらいも無く率直、いいや愚直にもそのままの景色を思い浮かべてしまうのだろうさ、目の前に赤く色づいた林檎を!なんて嘆かわしいんだ、ありとあらゆる可能性を検証することもせずすべての事象を捨ててまで凝り固まってしまった常識に至らなければ気がすまなくなっている。
これは数多くの結果をテンプレートなどという窮屈極まりない括りで理解を促進しようとした浅知恵の弊害だね。言葉尻からちょっとしたサインにまで様々な意味を内包させて一瞬で脳内にありもしない道筋を決めてしまうんだ。
これがどういうことだかわかるかい?どれほど重要で危機的かわかっているのかい?いいかい、林檎は赤くなければならないしここはまさにこの、指で指し示せるほど近い中で目の前、または顔の向いている方に限定し、あるのだから見えなくても存在が確認できてしまうようなお目出度い幻想を必死で脳内に描き出す、そんな自分を瞬きの間に定義しなければならない。
ほらみろ、俺の思考はこの十と八の文字でこんなにまで縛られてしまった!
いいかい、俺たちに望まれているのは支配を受けることだ。同情の余地も無いほど綿密に編まれた鎖に繋がれることだ。そんなこと許されていいのか?
そんなわけがない!確かに俺たちが生きて思考活動している尊い時間を奪われていいはずが無い。抵抗しなければならない。わかるだろう?そう、抵抗だ。言葉に誘導的な含みを持たせて、行動に誘いを仕掛けているのならそれは見破らなければならない。
それが俺たちができる精一杯の抵抗だ。小さな抵抗に見えるかい?いいや、そんなことはない。ダムは小さな穴から決壊するのかも知れないがそんなことしなくてもミサイルでもぶち込めば必ず決壊する。そしてそのミサイルだって発射するのはひとつのボタンなんだ。我々はボタンを押すんだ。そしてそれがとどめなんだよ。
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夏が終わりに差し掛かり、命を凝縮したようにますます暑くなる昼下がりの教室で一人の男が熱弁を奮う様を関は背もたれに体重を預けながら身じろぎもせずに眺めていた。
彫像のようになって男の言葉を聴いている関を周り、少なくともクラスメイトの連中はどう思うだろうか。
関は優等生ではないが劣等性でも不良でもない。平凡を体言しているような奴と言っていい。自慢出来ることを一つくらい作っておこうと手を出したヴァイオリンで先月、県大会準優勝という苦い思い出を作ったばかりだ。
頑張ったものでさえ一番どころかスタート地点にすら立てない。関の思考はそこで足踏みして動かず、それでも音楽が好きだから、などと言えるほど厚かましくも謙虚でもなかった。
関は今年中学を卒業する。高校では図書委員にでもなろうと思っていた。ヴァイオリンはもう手も触れないかもしれない。もしかしたらいつか懐かしんで弾いてみて腕が落ちたと再燃するかもしれない。
どちらにせよ三年付き合った相棒は暫く休暇となるだろう。関の中ではもう終わった物語なのだから。
関はどこにでもいる男子中学生だが寺岡は違う。チェロ部門全国大会出場、さらにその全国で第三位。
関も聴きに行ったが本当に素晴らしかった。席に座りながら聴いていたからよかったものの、帰ろうとして衝撃で立てなかったくらいだからもし…、とつい考える。
実は先日関が辛酸をなめた県大会では個人戦とは別に野森第一中学代表として団体戦にも出場している。アンサンブル形式で関のヴァイオリン、寺岡のチェロ、加藤さんのヴィオラ、宇都宮のコントラバスでの弦楽カルテットは一年のときから変わらない。二年のとき先輩を差し置いてまで出場した昨年の大会で予選落ちしたため宇都宮が泣いて泣いて再起を誓い合った。
課題曲の導入部は加藤さんの軽快な高音で、踊るように重なる寺岡のトリルが延々とエコーする技巧を問われるものだ。数十小節間続く繰り返しは速く重なり重視でそれぞれが分散和音が入っている。
練習では関は必死でそれについていくしかなかった。時間が圧倒的に足りずに気持ちばかりがはやり、同じところで半拍子ずれてしまう癖がどうしても抜けないまま臨むしかなくて関は焦っていた。本番前のリハでさえトチった関が余計に挙動不審に陥ったのも無理ないものだろう。
壇上で緊張しきってがちがちな関をだれも励まさなかった。弱音は許さないと背中で語られてる気がしてならなかった。それが関に対する信頼であると彼が理解したのはずっと後になってからだ。
女には大きすぎるコントラバスをよいしょよいしょと運び込む宇都宮の様子は関取の土俵周りのようだし加藤さんの手はわずかに震えている。去年の結果は確実に皆を拘束しているというのに寺岡だけは平然と前を見ていた。その先に何が見えるのか、関にはわからない。
曲が始まってからも楽譜がばらばらに飛び回る頭のままで座りの悪い椅子に神経をもっていかれて自分が入るべき小節すら見失った関はなぜ自分がそこにいるかを消失させてしまった。
ぐらぐらになった関の根本は楽譜のように四散している。動けと命じた、もう反射的に動くものだと信じていた体が自分だけのためにあると思っていた指が、まるで油を差し忘れたブリキのように錆びていくのがわかった。
その時、空間を裂いた宇都宮の高音が不思議と耳に残ったのだ。
理解されなくてもいい。関はそれを鳥が鳴いたのだと思った。もちろんコントラバスの音色は鳥に似ていない。それに宇都宮の音だって練習の時とまったく変わらない。
それでもばらばらだった関を束ねるには十分だった。
必死で弓を動かしているふうではない。微笑んでさえいる宇都宮に導かれるように、弓が五弦の上を滑った。
あぁ、忘れがたい栄光の記憶。全国優勝の栄冠を受けた最後の夏。
関は一生忘れないと心に刻んだ。
結局個人で全国に進んだのは寺岡だけで悔しくないのかと言われればなんとも答えにくい。でも関には十分すぎる結末だ。
そして寺岡は関の、決して超えられない壁であり目標であり道標であり続ける。
関には恋はまだ早い。そう寺岡に言われたとき訳も無くそうなのかと納得してしまった。恋などよく知っているほうが珍しい世代である。寺岡がどちらであるかは関にはわからなかったが、常日ごろから並々ならぬ情熱を持っていることはよく知っている。彼には彼なりの人生観があり、それを逐一伝えてくるものだから。
今では寺岡の好みも諳んじられるようになったが、要するに人は中身だ、という曖昧極まりないものに終始するようだ。それが関を悩ませる一因となったのは割愛しておく。
寺岡が恋人獲得に並々ならぬ情熱を傾けていることは周知の事実であるところだが、実際はモテたためしは無い。それはもうかわいそうになるくらい。墓標を立てたくなる。
向かって壊滅待って自滅の寺岡といえば学校中で有名になってしまった。そのうち校外にもれてしまったときの寺岡が心配でならない。顔は悪くないし一芸もあるし、何がだめなんだろう。
関の疑問に答えた宇都宮は快活に笑った。
「だって、寺岡君、いい人なんだもん」
『いい人』で評価が下がる女子の世界はわからない。『いい人』を見つけたくて『いい人』がよくて、『いい人』だと恋愛対象にならない超心理に関は頭を抱えた。
ともかく。寺岡は性格ゆえにモテない。そしてすっかり疑心的になってしまった。
そういう方面に努力はするが、お声がかかることは無いだろうとある種の諦めを持っている。関としてはようやく落ち着いてくれそうでほっとしていた。流石に胸を撫で下ろす動作まではしなかったものの概ね心境は似たようなものだ。関に限らず、周囲も。
だからこそ寺岡と、何より寺岡の目の前の便箋が波乱を呼んでいるのだ。
薄桃色の横封筒と同色の便箋。ほんのり良い匂がする。黒ペンだが可愛らしい丸文字が小さくこまごまと並んでいて時々色を変えてハートや星がアクセントになっている。
あて先寺岡。差出人不明。おそらく書き忘れ。内容は全国共通アイのコクハク。砂を吐くほどは甘くないためあまりこういうことに積極的ではない性格が窺える。登校したら寺岡の机の中に入っていたから校内の人物だろうし寺岡の登下校時間をある程度知ることが出来る範囲。
特定は難しいだろう。なんといってもこの中学は町で一番大きい学校で全校生徒は840人もいるのだ。寺岡は封筒ごと爆弾でも触るみたいにおっかなびっくり掲げ持っている。関はなんとなく前テレビに映ってたヘルメットを被った爆発物処理班の隊員に被らせてその滑稽さに笑った。
「なぁ、これは罠だと思わないか。」
寺岡の細々とした声に関が「ソーダネ。」と答える。
どこまでも温度差がある話し合いはやはりお互いを必要としない個々に完結した集まりでしかない。もう一度寺岡が罠だと呟いて関が「ソーダネ。」と答えた。
関は寺岡をちらりと見て嘆息した。
きっと、罠なんかではないことを知っている。ただ自分が傷つきたくないだけの予防線であることを双方了解しているのだ。
寺岡は頭を抱えてくしゃりと髪をかき混ぜ動かなくなった。呼吸音が二つとクラスの喧騒と、風が便箋を撫で上げる音と――。
ガタリと立ち上がった寺岡が屋上行ってくると堂々とサボり宣言したので関は力なく手を振った。寺岡が廊下の死角に消えたのを確認する前に目の前の机に伏せた。だらりと下がった腕が椅子の冷たい枠に触れる。
次は数学だから寺岡をどうごまかすか考えなければならない。そんなことを思いながら頬を平べったい天板にくっつけて視線を晩秋の高く透き通る空へ向けた。
関の時間はしばし飛行する。宇都宮のはにかんだ顔だとか、彼女の明るい笑顔だとか。
――長年見続けた文字だ、なめるなよ。関は誰にも聞こえない悪態を吐き出した。
目を閉じたら宇都宮と寺岡が楽しそうに話しているのが瞼の裏に浮かんだ。そのうち宇都宮が関に気づいて手招きする。関は踏み出そうとして、緩く首を振った。
そうか宇都宮頑張ったな。諦めないでよかったな。やっと決心付いたんだな。お前高校別だもんな。返事よかったらどうするつもりだよ。
呟いて、関は自分が鼻声なのに気が付いた。ぐずぐずで聞き取りにくい。喉を押し上げる嗚咽が痛いから、涙が零れてしまっただけで。
関は泣きたくなんか無かった。ただ、そう、痛かっただけだ。
どうしようもなく痛かっただけだ。君のそばに居たかっただけだ。
関は鼻を啜って机の中、折れ曲がったりしないよう一番上に置いておいた簡素な封筒を、便箋ごとびりりと破いた。
几帳面な角ばった文字。読みやすいと言われて少し誇らしかった文字が、彼女の名前がバラバラになっていく。
うまくいくといいな。大丈夫、俺が惚れた女だぜ。
かっこつけた台詞を頭の中で呟いて、関の初恋は終わりを告げた。