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吾輩、気まぐれ猫神にて。  作者: 葉南子@アンソロ発売中!
吾輩は見届け人である。

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吾輩は見届け人である②


 吾輩はもう一度、今度は背後からそっと男に近づいた。

 

 漏れるため息。丸まった背中。かつて現場で若い衆を一喝し、梁の上を渡り歩いていたであろう棟梁の面影は、これっぽっちも感じられない。

 だからこそ、猫の手を貸すタイミングというものは、こういう影の隙間にこそ転がっているのだ。


「にゃあお」


 吾輩は静かに声をかけた。

 猫撫で声ではない。寂しさの底に落ちかけた人間を、すくい上げる声だ。


「……!」


 驚きと拒絶。だが、わずかに救いを求める気配が男の背中でふるりと揺れていた。


「こいつ……! 家の中まで……!」


 男は眉間に深いしわを寄せ、勢いよく竹ぼうきをつかんだ。その動作には、棟梁だったときの威勢(いせい)がかすかに残っている。

 それでも二度目は身を引かず、吾輩は男を見据えた。


 ──ふむ。打つ気はないな。


 怒りの匂いよりも、戸惑いの匂いが勝っている。


「にぁあお」


 同じ声色で返してやり、くるりと身をひるがえす。そして、ついてこいと言わんばかりに台所へ向かった。


「にぁあお、にゃあお」

「おいっ! いい加減に……!」


 男の手が、ぴたりと止まる。

 吾輩が向かったのは、先客が使っていた古い飯碗の前。ひっそりと置かれているが、埃は払われている。

 だが、もう誰も使わない飯椀だ。


「にゃあお」


 吾輩は踏み込む覚悟を示すように、一声だけ鳴いた。


 ──これは、諸刃の剣。


 怒らせるかもしれない。だが、閉ざされた思い出の蓋に手をかけるのは、この一手しかない。

 そして──男の喉がぎゅっと鳴ったのを、吾輩は見逃さなかった。


「……にゃあお」


 ここが勝負どころだ。

 吾輩はころころと喉を震わせ、甘く、そして救いの手を差し伸べるような声をあげた。


「……腹が減ってるのか?」

「にゃあお」


 本当は煮干しを食べたばかりだが。ここを逃す吾輩ではない。


「……待ってろ」


 男はしぶしぶ立ち上がる。足取りは重かったが、拒絶の気配は薄れていた。

 慣れた動きで戸棚を開け、ひとつまみの餌を手にする。その仕草には、かつて誰かのために台所に立っていた癖が残っているようだった。


「ほれ」

「にゃあん」


 吾輩は大げさにならない程度に喜びを示す。

 

「……美味いか?」


 吾輩は答えず、ただ口を動かす音だけを立てた。

 それで十分だ。こういうときは、行動で示せばいい。


「……そうか」


 誰かの姿と重なったんだろう。

 男がぽつりと呟いた声には、あたたかかった記憶の残り火が滲んでいた。


「それ食ったら、もうどっか行けよ」


 吐き捨てるように言って、男は再び軒下に腰を下ろした。

 その背中は、先ほどよりほんの少しだけ伸びている。枯木へ向けられた男の視線は、過ぎた遠い日々を思い出しているように柔らかかった。


 ⁂


 翌朝。

 男は昨日のように軒下に腰を下ろし、ぼんやりと枯木を眺めていた。

 地面についた霜が庭を白く縁取っている、年の瀬の寒空の下。男の吐き出した息が、朝の空気に霧散していく。凛とした殺風景な景色の中、この男は一体なにを思っているのだろうか。

 五度目の深い息が朝光に溶け込んだ頃──


「にゃあお」


 と、知らぬ存ぜぬと気まぐれを装うように、吾輩は姿を現した。


「……また来やがったか」


 言いながらも、昨日のように竹ぼうきを手に取らない。むしろ、吾輩のほうに手を伸ばしかけ──途中で我に返ったように引っ込めた。


 ──ふむ。なかなかの頑固者、といったところか。


 棟梁時代に鍛えられた性格や人格のせいもあるのだろう。素直になれぬ男の不器用さが、引っ込めた手先からひしひしと伝わってきた。

 吾輩は男の隣に丸く座り込んで、毛づくろいを始めてみせる。

 男は迷った末、ひとりごちるように呟いた。


「……腹、減ってんのか?」


 言ってから、自分ではっとしたように眉をひそめる。


「いや、違う。違うからな。昨日やったのは……アレだ、一時の気の迷いで……」

「にゃあお」


 吾輩はわざとらしく、飯椀のほうをゆっくりと見やった。男の口元がわずかに歪む。


「くそ……。なんで俺が猫に気を遣わなきゃいかん……」


 そう悪態をつきながらも、台所へ向かう足取りはやけに早かった。


「ほらよ」


 昨日と同じ餌を皿に置くと、男は視線を逸らしながら言った。

 

「頼むから、仏壇の前でだけは暴れるなよ。あれは、その……大事なんだ」

「にゃ」


 了解、というより「心得た」とでも言うべきだろう。吾輩は短く返事をした。

 

 たぶん、男は自分でも気づいていない。

 昨日まで枯木みたいだった声が、今は少しだけ温度を帯びていることに。

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