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吾輩、気まぐれ猫神にて。  作者: 葉南子@アンソロ発売中!
吾輩は見届け人である。

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6/10

吾輩は見届け人である①

 

 ちょうど、年号が明治から大正に変わった頃だっただろうか。

 吾輩はその日も気まぐれの赴くまま、街から街へと風を切りながら闊歩していた。


 当然、今のような便利な道具も光り続ける街灯もない。

 朝日がのぼれば人間たちは眠い目をこすって動きだし、夕日が沈めば街は闇に沈み、あとは寝るしかない。


 なんとも素朴で、なんとも生物らしい暮らしではないか。人間という種族も、この頃はずいぶん自然に近かった──と、吾輩は思うのである。


 さて、その大正の初め。

 にゃあお、と甘えた声を上げて魚屋から煮干しを頂戴した吾輩は、なかなかにご満悦だったのだが──煮干しよりも、ずっと興味深い匂いが鼻をかすめた。

 吾輩はぴくりと耳を動かし気まぐれに踵を返して、その匂いのする方へ向かうことにした。


 小さな家々の間を抜け、古い石畳の道をふらりと進むと、そこには──枯木の影に覆われた軒下の長椅子に、一人のくたびれた男が佇んでいた。

 齢五十といったところだろうか。放っている匂いからは、耐え難い孤独と虚しさが感じられる。真冬の凍てつく寒さが、それを強めていた。


 その匂いの後ろ。相反するように、家の中には様々な食事の香りや、温かい笑顔のぬくもりがかすかに漂ってる。それは間違いなく、幸福の残り香だった。

 孤独と幸福の香りが混ざり合ったその空気は、さながら発酵が途中で止まった酒のようである。とろりと甘美でありながら、鼻に抜ける酸味がひとしおの深みを添えていたのだ。


 ──なるほど、なるほど。


 この男のことが、だいぶ掴めてきた。

 吾輩は鼻先をひくつかせ、尻尾をくねらせながら近づいた。ここには猫の手を貸す価値がある、深い物語が潜んでいそうだ。


「にゃあお」


 できるかぎり愛想の良い声で挨拶してみた。


「……! 薄汚い野良猫めっ! あっちへ行け! しっ、しっ!」


 なんと、まあ。吾輩ほどの美猫に向かって、その言い草は失礼極まりないではないか。

 吾輩、こんな罵倒を浴びたのは数十年振りだ。


「にゃあお」


 さらに、もう一度。先ほどよりも猫撫で感を三割増しにした、甘ったるい声をひねり出してみせる。喉をコロコロと震わせ、尻尾の先だけを愛らしく揺らすという高度な技まで繰り出した。


 もちろん、吾輩にもプライドというものはある。

 本来なら人間ごときに媚びる必要など毛ほどもないのだが──こういう者には、ほんの少しだけ、とどめの愛嬌を刺してやるのが一番効くのだ。

 

「……このっ! あっちへ行けと言ってるだろ!」

「にぎゃあ!」


 がばりと立ち上がった男は、怒気をまとったまま竹ぼうきを振り上げ、吾輩を追い払った。


 ──むむむ。


 吾輩の愛嬌がここまで通じないとは、実に遺憾である。

 よもやこれほどの扱いを受けた吾輩に、素直に立ち去るという選択肢はない。

 若かりし頃の吾輩は、それはまあ自尊心が強かった。だからこそ、黙って退く、などという選択肢は初めから存在しなかったのだ。


 吾輩は再び軒下にしゃがみ込んだ男を、じいっと観察した。

 観察と言っても、猫神のやり方は人間のそれとは次元が違う。目だけではなく、鼻先、それに耳と足裏も駆使し、相手の過去すら拾い上げるのだ。


 まずは男の手。節くれ立った太い指だ。指の腹は硬い木に触れ続けた職人特有の張りかたをしている。

 すんすんと鼻を向けた爪の隙間には、いまだに樹脂の匂いが染み込んでいた。


 ──なるほど、なるほど。


 これは、棟梁だった男の匂いだ。雄々しいほどの体躯からも、それは間違いないはずだ。


 ──この家も、自分で建てたものだな。


 ヒノキの香りだけではない。『誇り』という名の匂いが柱にまで染み込んでいる。

 だがそれは、無常にもすでに埃と孤独で覆われつつあった。


 くん、と季節外れの椿の匂いが鼻先をくすぐった。

 この家の空気とは明らかに違う。柔らかくて、女の手の温度を含んだ香りだ。

 

 匂いの元をたどってみれば──仏壇の横に、つげ櫛と一本の(かんざし)が並べて置かれていた。

 どちらも上等な品で、かすかに椿油が残っている。季節外れの香りは、ここからきていたのだろう。


 ──ふむ。


 どちらも丁寧に埃を払われているが、使われている形跡は見当たらない。

 さらに、その隣に置かれていたのは、うっすらと微笑んでいる一人の女性の写真。表面のガラスは何度も撫でられたのだろう、指の跡で薄く曇っていた。

 と、ここまで揃っていれば、吾輩でなくとも察せられるだろう。


 ──妻だな。逝ったは、ここ一年以内といったところか。


 この時代の人間は、今よりもはるかに寿命が短い。齢五十のこの男も、もう晩年に差しかかっている。残された時間はわずかだろうが、妻に先立たれてしまった男にとって、孤独は永遠のように長く感じるだろう。


 ──なるほど、なるほど。


 吾輩はさらに家の中を観察した。

 台所には、古い陶器の飯碗の欠片。魚の匂いがこびりついている。そして、柱に残るいくつもの小さな爪痕。無数に散在している柔らかい毛質の茶色い毛。

 過去に、この家には先客がいたことを示していた。


 ──残り香からして、こちらは二ヶ月ほど前だな。


 その先客の残り香は枯木の下、乾いた土の匂いに混ざって色濃く発せられている。

 つまり、この男は──妻を亡くし、猫も亡くし、この広い家の中でたった一人きり、ということなのだ。


 生きる目的も希望も、手元からぽろぽろとこぼれ落ちていった。残されたものを拾い直す力さえ、もう湧かない。

 人間とは、なんと(もろ)く、そして愛おしい生き物ではないか。

 吾輩は男の沈んだ孤独に、猫としての好奇心と、神としての役割が同時に疼くのを感じた。

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