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吾輩、気まぐれ猫神にて。  作者: 葉南子@アンソロ発売中!
吾輩はモデルである。

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2/10

吾輩はモデルである①

 

 その日、吾輩はたいへん退屈していた。神とはいえ、暇は訪れる。むしろ神だからこそ、暇を持て余しているのかもしれない。


 ふらりと街を歩けば、ツンと刺さる冬の匂い。冷えきった空気は、悩みを抱えた人間によく似合う。幸福よりもずっと強い匂いを発するからだ。


 そんな折──吾輩の足は一軒の古いアパートの前でぴたりと止まった。

 絵の具の匂い。キャンバスの繊維。そして、絶望の色をつけた大きなため息。


 ──ふむ、この部屋だな。


 吾輩は窓をすり抜け、雑然としたアトリエへと忍び込んだ。


 そこには、ひとりの青年画家が机に突っ伏していた。

 筆は乾き、パレットは放置され、缶コーヒーだけが無惨に積み重ねられている。年齢は三十代半ばといったところだろうが──丸まっている背中からは、見た目以上の老いを感じた。


 ──カイト、という名か。


 無造作に散りばめられた書類の中から青年の名を知る。

 

「……もう無理だ。俺には才能なんてなかったんだ」


 呟いた青年は、手にしていた書類をぐしゃりと握りつぶした。


 ──なるほど、なるほど。

 

 だいたいの事情は、彼から放たれている負の匂いで察せられた。


 壁にずらりと並べられた絵画。カイトが描いたものだろう。猫の吾輩から見ても、技術的には美しい。だが──惹かれるものがない。

 大衆受けを狙っただけの作品ばかりで、描いた本人の生気は感じられなかった。むしろ焦燥や怒りなど、滲み出る負のエネルギーが、絵が増えるたびに濃くなっている。


 そんな中で、ひとつだけ吾輩の目を捉えた絵があった。

 床に置かれたキャンバス。埃はついていないから、決してゴミではないのだろう。


 ひょいと覗き見れば──うむ。なんとも、粗だらけだ。構図はあと一歩、色の乗せ方も荒い。

 だが、そこには確かに純粋な情熱が宿っていた。


 おそらく、カイトが絵を描き始めた頃のものなのだろう。どうしようもなくまっすぐな心が、そのまま残っている。

 夢を追い続けた者の香り。無垢でひたむきで、まさに生きている情熱だ。


 ──なるほど、なるほど。


 吾輩はすべてを悟った。

 最初は楽しく、無我夢中で描いていた。だが、いつになっても彼の個性が認められることはなかった。

 絵が上手くなった反面、受けを狙うだけの作品しか描けなくなった。

 それでも結果は出ない。コンテストの落選通知を握りつぶす手のシワだけが増えていく。


 だから、背中が老けて見えたのだろう。失望と現実、そして諦めかけた夢の重さ──すべてが滲み出ていた。

 

 吾輩は気に入った。


 ──よし。


 一瞬の跳躍で、吾輩はキャンバスの縁に飛び乗る。古びたアトリエの床に散った夢の残骸が、跳ねた尻尾にまとわりついた。だが、そんなものは気にも留めない。


 床に置かれたキャンバスには、油絵具の匂いがわずかに残っていた。

 それは絶望と疲労が沈むアトリエの中で唯一、生きている匂いだった。


 吾輩はその絵の中心にどっしりと香箱座りを決める。

 吾輩は知っていた。人間は猫のこのポーズに弱いのだ、と。品の良さと可愛らしさを兼ね備えた、猫という生き物の最も強力な姿勢なのだ。


 そして、ゆっくりと喉を震わせ、柔らかな音色を落とす。


「なぁん」

「……!? 猫!? なんで、いつの間に!?」


 カイトは弾かれたように顔を上げた。

 くしゃくしゃの髪に、目の下にはうっすらと影が刻まれている。目まぐるしい焦りと困惑が、その顔にいっぺんに浮かんだ。


 ふむ。まあ、驚くのも無理はない。

 外は冬の夜。窓は閉め切られ、扉には鍵までかけてある。


 だが、猫とは『いつの間にかいる』生き物だ。

 まして吾輩は猫神様である。現れ方なんて選び放題なのだ。


「お前! その絵の上で寝るなよ!」


 カイトが慌てて駆け寄ってくる。

 転がっていた筆を踏み、あやうく滑りかけながらも手を伸ばしてくるのが、なんとも人間らしい。


 吾輩はちらりと彼に視線を送った。

 この絵をゴミのように床へ放っておきながら、いざ吾輩が座ると慌てふためく。

 つまり、彼にとってこれは捨てられない記憶なのだ。それを人間は──未練と呼ぶ。


「おい、どけよ」


 カイトが吾輩を持ち上げようとしても、吾輩は動かない。

 つつかれても、両腕で抱え込まれそうになっても、じっと絵を守るように背を丸め、身体の重みを預ける。

 猫は気まぐれだが、退かぬと決めたときはテコでも動かない生き物なのだ。

 

「なんで……そこに座るんだよ。それ、汚したくないのに……」


 汚したくないなら、片付けておけばいいものを。

 だが片付けられないということは、まだ終わらせたくないということ。

 この絵だけが、彼の中でまだ消えていない火種なのだ。

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