第10節 グリーン・カレー侯爵 〜ただの良い人だった〜
真っ昼間からカレー論争に三時間も巻き込まれたため、侯爵邸にたどり着くのは、空がうっすら赤くなる夕暮れ時になってしまった。
レアナ「侯爵領のこのヤバさ、カレー侯爵もとんでもない変人じゃないの?」
リュカ「否定はできないな。ただ、偏見を持っていては、対話が成立しないのを、今の俺たちは身をもって知っている」
レアナ「そうね、らっきょうも福神漬も、ビーフカレーもポークカレーもナンカレーも、みんな違ってみんないいのよ……」
そして、門番に『聖人認定同意書』を提示して、リュカは都合のいい日時を聞こうとするが。
門番「はっ、今からカレー侯爵にお取り次ぎ致しますので、中へどうぞ」
リュカ「いえいえ、突然の訪問ですからご迷惑では?」
門番「何を仰いますか!カレー侯爵にとっては、聖人様聖女様は王家より重要なお客様ですから!」
そうして、唐突に応接室に連れられてしまった、とにかく圧が凄かった。
さすがカレー侯爵邸。
しばし立って待っていると、頭頂部が寂しくなった、汗だくのおっさんが入ってきた。
黒い瞳で、毛髪はサイドに申し訳程度の残り毛があり、それを無理やり頭頂部に持ってきている哀しい黒髪。
額からこめかみに汗が流れ、眼鏡を時折曇らせるが、なぜかバジルとレモングラスの香りを漂わせる。
背は小柄で、姿勢も丸まり気味であり、緑色の麻の服にエスニックな衣装が混じるが、汗でぐったりしたリネン素材も覗いている。
全身で「カレー大好き!」を叫んでいるような風貌だ……魂までスパイスで煮込まれているのが伝わる、そんなおっさんだ。
汗だくおっさん「いやあ光栄だなぁ、聖人様聖女様が、真っ先にうちに来てくれるだなんて!私がグリーン・カレー侯爵です」
リュカ「私はリュカです、平民のリュカ」
レアナ「私はレアナです、平民のレアナ」
密かに「この人はグリーンカレーが好きなのか」なんて思っているが、カレー侯爵はやたら頭が低い。だから頭がテカるって!
カレー侯爵「我が領で、既にカレーは食べられましたかな?」
リュカ「はい……なんというか領民の熱量が凄まじいですね」
レアナ「多くの派閥が共存する、文化的に極めて高度な地だと感じましたわ」
リュカとレアナはぎこちなく返答する。
カレー侯爵「いやはや、お恥ずかしいところを見られてしまったようですな?私はただカレーが好きなだけなのに!」
教祖のごときカレー侯爵から、爆弾発言が出た!
レアナ「え、じゃああの派閥って、自主的な?」
カレー侯爵「カレーは美味しいじゃないか!だから私はこの地をカレーの聖地にしたかった、ただそれだけなのですよ」
カレー侯爵は顔をくしゃりと歪めながら、悲しそうに言う。
リュカ「まあ……ある意味、カレーの聖地ですね」
カレー侯爵「だが、今や祭り上げられたわしは、好きにカレーを食べることすら許されんのだ……厳密に定めた平等なカレーメニュー……わしが求めたのは、こんな世界じゃないのに!」
レアナ「じゃあ、マギに聞いてみましょうよ」
リュカ「でも、どんな答えが返ってくるか?」
リュカは『チカ』を思い出し、少し嫌な予感がしていた。
カレー侯爵「わしも、既に何度も試しましたよ……マギ様からは、無情にも『カレーの食べ過ぎでは栄養が偏ります、緑黄色野菜も、積極的に摂取してください』としか返ってこないのだ」
レアナ「正論ね……」
リュカ「正論だな……」
カレー侯爵「それでも、カレーが好きという気持ちだけは、誰にも否定できんと思うのだ!それすら、マギ様に言われてしまったら……どうすればいいというのだ!」
レアナ「念のため、私も試してみるわ」
レアナは命律端末を取り出して問い合わせる。
レアナ「グリーン・カレー侯爵領について教えて」
命律端末「グリーン・カレー侯爵自身は大のカレー好きですが、思想的な偏りはありません。しかし、その一方で領民達は強いこだわりを持ち、頻繁にいさかいを起こしています」
レアナ「侯爵は緑黄色野菜が足りないのよね?野菜カレーとかどうかしら?」
命律端末「カレー侯爵領内に、新たなこだわりが発生するだけで、結局は定期的な緑黄色野菜摂取が不足するでしょう」
やっぱりカレー侯爵領は、間違いなく修羅の国だと確信するレアナ。
レアナ「というか、カレーと一緒に緑黄色野菜のサラダをさ、出したらどうかしら?」
命律端末「カレー侯爵の一声で、それが『当たり前』になることが期待されます。ただし領民の性質からして、今度は緑黄色野菜サラダのこだわりでいさかいが起こるでしょう」
レアナ「厄介ね。なんか侯爵が、好きなカレーを食べられる案ってないかしら?」
ここで、命律端末が驚くべき提案をしてくる。
命律端末「カレーの概念自体を拡張することをお薦めします。鳥もも肉にたけのこ、茄子、パプリカ、ふくろたけ、バジル、パクチー、ほうれん草など……」
レアナ「わかったわ、要するにグリーンカレーという、今の侯爵領にないカレーを作るのね!」
命律端末「グリーンカレーについて、フィードバックがされました。レシピは改めてご質問ください」
レアナは命律端末をしまって、カレー侯爵に笑いかける。
リュカは「なんか『チカ』とは大違いだな⁉」と悲しくなってくる。
レアナ「これでどうかしら?グリーンカレーという、侯爵の名を冠したカレーを作るという案よ」
リュカ「緑黄色野菜不足の解消は、これだけじゃ足りないだろうな。緑黄色野菜サラダについての声明も必要じゃないか?」
リュカは、緑黄色野菜のサラダ案を推してみる。
カレー侯爵「さすがは聖女様だ!そして、聖人様もいさかいを恐れずに、健康を考えた緑黄色野菜サラダの提案!流石は聖人様!何はともあれ、カレー好きとして、わしの名前を冠したカレーなど栄誉の極み!」
カレー侯爵は目を輝かせて言うが、頭頂部が再びテカる!
リュカ「あのエチゾチックな味は正直懐かしい、俺も食べたくなってきた」
レアナ「じゃあ、早速作って貰いましょうよ、マギの指示と聞けばスケジュールなんて吹き飛ぶわよ」
リュカ「流石は元聖女、マギシステムのことを良くわかってるなぁ」
カレー侯爵「じゃあ、早速料理長に連絡しろ。材料が揃ってない可能性があるから、それも含めて『グリーンカレー』で命律端末に問い合わせるようにと」
その日は夕方だったので、流石にグリーンカレーを作る材料が揃っていないとのこと。
カレー侯爵のスケジュールに合わせて、キーマカレーを美味しく食べるリュカとレアナであった。
レアナ「しかし、流石は侯爵家ね……副菜が全種類揃っているとか」
リュカ「知らない副菜だらけだ……俺は、懐かしの福神漬に行くぞ」
レアナ「私も、久しぶりのらっきょうと行くわよ」
リュカとレアナは、戦争なき食卓とカレーにご満悦だったが、カレー侯爵だけはグリーンカレーが出てこないことに少しションボリしていた。
カレー侯爵「わしの名を冠したカレーを、早く食べたいのう……」
なお、今回もリュカは微かに淡く青白い光を放つキーマカレーの米を見て、密かに被ばくを恐れていたのだった。




