合言葉は北極星
アイスランドに来て、三週間が経った。
雲だ。どこまでも分厚い雲が、空を覆っている。オーロラどころか、星ひとつ見えない夜が続いていた。
ホテルの窓から灰色の空を見上げて、僕はカメラバッグを床に下ろした。もう何日もシャッターを切っていない。切る気力がない。
何のために写真を撮っているのか、分からなくなっていた。
寒さのせいじゃない。この国の風景は息を呑むほど美しい。氷河も、滝も、地球の割れ目も。なのに僕のファインダーには、何も映らない。心が、凍りついてしまったみたいだった。
帰ろうか——。
その考えが頭をよぎるたび、高校の頃の樹の声が蘇る。
『あの星は、昔から船乗りたちの道標だったんだ』
進路に悩んでいた僕を、樹は夜の天文台に連れ出した。八月の夜空に、北極星が静かに輝いていた。
『どこにいても、どんな時も、あそこにある。迷ったらあれを見上げればいい。そしたら、一人じゃないって思えるだろ』
北極星。それが、僕たちの心の合言葉になった。
樹は今、日本で研究者として宇宙の謎を追いかけている。僕は写真家になると言って飛び出し、有名写真家のアシスタントを経て独立したにもかかわらず、こんな場所で立ち往生している。
あいつに連絡なんてできない。こんな惨めな姿、見せられない。
そんな夜が続いた。
ある夜、ふと目が覚めて窓の外を見ると、雲が割れていた。
吸い込まれるように外に出た。零下の空気が肺を刺す。でも構わなかった。見上げた空に、星が溢れていた。
そして、北の空の低い位置に——あった。
北極星。
動かない星。どこにいても、同じ場所で輝いている星。
気づいたら、スマホを握りしめていた。かじかむ指で、たった一行だけ打つ。
「北極星を見つけたら」
送信してから、馬鹿なことをしたと思った。日本は昼頃だ。樹は研究で忙しいはずだ。こんな意味不明なメッセージ、迷惑なだけだ。
でも、返信はすぐに来た。
『なら、まだ帰ってくるなよ』
続けてもう一通。
『お前の撮るオーロラ、俺が一番に見たいんだから』
視界が滲んだ。
頑張れとは言わない。大丈夫かとも聞かない。ただ「見たい」と、それだけ。
ああ、そうだ。僕は誰かに見せたくて写真を撮ってきたんだ。樹に。僕の見た景色を、あいつに見せたくて。
涙が頬を伝って、すぐに凍った。
僕はホテルに戻り、カメラを手に取った。夜明けまで、まだ時間がある。一番美しい光が来るのは、これからだ。
北極星は関係なく、静かに、ただそこにあった。
【あとがき】
お読みいただきありがとうございました。
何かに頑張っている途中で立ち止まってしまうことは、きっと誰にでもある。前に進んでいるはずなのに、自分がどこに向かっているのか分からなくなる夜がある。
この物語を書きながら、私は「才能」や「成功」よりも、人が再び歩き出す理由について考えていました。
それは案外、大きな言葉や励ましではなく、「見たい」「信じている」という、たった一人からの静かな視線なのかもしれません。
いかがだったでしょうか。少しでも感じるものがあれば幸いです。
来週も”なろうラジオ大賞7”参加作品を投稿予定ですので、またお読みいただけましたら幸いです。
評価やブクマ、感想、リアクションなどいただけると、今後の執筆の励みになりますのでどうぞよろしくお願いいたします。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。




