第十六話:純粋な献身と、暴走する愛の逃避行
避暑地の別荘で目覚めてから二日が経過した。ロゼリアは、ノアの献身的な世話のおかげで、王城での軟禁中に失った気力を少しずつ取り戻していた。
「ロゼリア様。このハーブティーは安眠を誘うものです。窓の外は森ですので、少し空気が冷たいかもしれません。暖炉を焚きましょう」
ノアは、完璧な使用人であり続けた。彼の行動には、エドガーやユリウスのような支配や研究という目的が見えなかった。ただひたすらに、「主人を労り、心身の安寧を与える」という純粋な献身に満ちていた。
(ノアは……私に平穏を与えようとしている。彼だけは、私を支配しようとしない……)
ロゼリアは、これまでの人生で感じたことのない「優しさ」に触れ、警戒心の硬い殻を少しだけ緩めた。彼は、ロゼリアが「普通の女の子」として心穏やかにいられる、唯一の居場所を提供していた。
その夜、ロゼリアはノアに、自分の過去の断罪の恐怖を、遠回しな表現で語った。ノアはただ静かに耳を傾け、最後にロゼリアの手を優しく握った。
「ロゼリア様。貴女は何も恐れる必要はありません。貴女が私に必要としてくださる限り、私は、貴女の影となって世界からお守りします。私にとって、貴女の平穏こそが世界の全てです」
ノアの言葉は、ロゼリアの「孤独」を深く理解し、受け入れてくれたように感じられた。それは、「絆される」という感情の、静かな始まりだった。
しかし、その束の間の平穏は、王都から届いた情報によって、瞬く間に崩壊した。
別荘の離れに潜むユリウスの元へ、裏社会の密使が極秘の情報を運んできた。それは、シリル・ジェットブラックが仕掛けた情報戦の結果だった。
情報(シリル発): 「王太子エドガーは、侯爵令嬢ロゼリアを誘拐したとして、侯爵家と協力者(ライナス、ユリウス)を王権への反逆者として断罪する構え。既に王命により、大規模な捜索隊が編成されている」
追加情報(シリル発): 「ユリウスが魔法院から盗み出した極秘の魔法器具が王都で発見された。シリル卿が、『ロゼリア嬢とユリウスが共謀し、魔導具を使って王家への攻撃を企てていた』という情報を王太子に流した」
シリルは、ロゼリアの命の危険を高めることで、彼自身の影響力を最大化し、ロゼリアを「情報に頼るしかない状態」へ追い込み、独占しようとしていた。
ユリウスは、自分の研究がロゼリアの命を危険に晒したことに気づき、初めて学術的な傲慢さを揺るがされた。
「くそっ……シリルめ。このままでは、ロゼリア嬢が王太子の軍事的な支配に再び囚われてしまう……!」
ノアは、ロゼリアを「支配者たち」から守るという純粋な使命感から、決断的な暴走に出た。
彼は、ロゼリアが眠る間に、密かに侯爵家との繋がりを完全に断ち切るための書類を処理した。
ノアは、侯爵家当主の名を偽り、侯爵家の一部の私的な資産をロゼリアが逃亡した別荘に移した。
さらに、ロゼリアと侯爵家との関係を、公には「ロゼリア嬢は病死した」と偽装するための決定的な裏切りを、侯爵家に対して行った。
ノアの瞳は、燃えるような決意に満ちていた。
「もう、ロゼリア様を侯爵令嬢として、貴族社会の道具にさせてはならない。私がロゼリア様を完全に隠し、守り抜く。貴族のしがらみも、王太子の支配も、もうロゼリア様には届かない」
彼の愛は、もはや献身というレベルを超え、ロゼリアを世界から隔離し、自分だけのものとするという、純粋で恐ろしい暴走へと変わっていた。
その時、別荘の窓の外、森の奥深くで、ロゼリアを見守るライナスの剣が一瞬光を放った。王太子の捜索隊が、避暑地に迫りつつあったのだ。