居待月
「セージ、おらんの?」
久々に恋人の元を訪れると、部屋の電気は全て消されていた。合鍵をしまいつつ、カリンは首をかしげる。時刻は既に午後十一時を過ぎているため、窓から入り込んだネオンの頼りない光以外、室内は真っ暗だ。返事代わりに吹き込んだ風が頬を撫で、やけに侘しく感じられた。
カリンは仕方なしにレジ袋を下げた右手をスイッチへと伸ばす。玄関の蛍光灯は二三度点滅して、闇に慣れた目には少々眩い光を放った。ひとまず安心してミュールを脱ぎ、勝手知ったる他人の家をずかずかと歩く。夏前のフローリングは、素足に絡みつくような温さを抱き込んでいた。やがて突き当たりのリビングに黒い塊を見つけたカリンは、それに迷わず蹴りを入れた。横たわっていた黒い塊、もといセージが悲鳴を上げて跳ね起きる。
「いってえ!」
「おるんやったら先に言いや、阿呆」
「わ……悪かった。ちょっと疲れてたんだよ」
どうやら彼は恋人の訪問を忘れて眠っていたらしい。脱色された髪には寝癖がついているし、服装も非常にラフなものだ。非難を込めて睨むと、セージは居心地悪そうに頭をかきながら「それより」とやや無理に話題を変えた。
「見てよ、これ」
逃げる気だなとは感づきつつも、カリンは指差された方向に目をやる。
マンションにありがちな申し訳程度のベランダ。その手前──遮光カーテンの影に、小さな金魚鉢が据えられていた。居候のいない水面は所在無げに揺れている。これは確か、セージが半年ほど前に小亀を入れていた物ではなかったか。
出身を示す関西訛りでカリンが尋ねると、たれ目の恋人はごろりと寝転んで答えた。
「月飼いだよ、月飼い。水に月を映すの。聴いた事あるだろ?」
「ああ、あれか」
得心のいったカリンは頷く。
そう言われてみれば、どこかのミュージシャンがそんな曲を歌っていた気もする。何とか流星群が観測出来る日はまんじりともせず夜を明かした彼だから、今回も簡単に影響されたのだろう。風流と言えば風流だ。
しかし、何もこんな寒暖が不安定な時期にやらなくてもと疑問が浮かぶ。更に言うなら。
「曇ってるやん」
肝心の月光は、鬱陶しい雲に阻まれて届かない。ぼんやりと風は吹いているが、朧雲を退散させるには少々物足りないらしい。カリンに指摘されたセージは、何故か得意げに言った。
「だから顔出すのを待ってるんだよ、梅酒飲んで」
「普通は月見ながら飲むやろ」
「気にしなさんな」
けらけら笑うセージをじっとりと見やり、カリンは生温かい床に座って足を流した。レジ袋はそのまま床に転がしてしまう。中身である安物のアイスがころんと音を立てた。甘党のセージはそれを聞き逃さない。
「お、アイスじゃん。食おうぜ」
「嫌や。うち一人で食べる」
「何で!?」
「うちが来た時、返事せえへんかったから」
「そんなあ」
恋人の情けない声に、カリンは思わず笑いを漏らした。抗議と謝罪を繰り返す声を聞き流し、曇天を眺める。
マンションの九階ともなればさすがに蚊の魔手は届かず、存分に窓を開けて緑風を楽しむ事が出来る。セージもその恩恵を受けるべく、あえて硬い床に座り込んでいるようだった。多少蒸し暑くはあるものの真夏には遠いため、扇風機やクーラーは無視されているらしい。床の節目には先程の言葉通り、角氷と梅酒の入ったガラスコップが置かれている。
冷たい態度が堪えたのか、セージは何とか機嫌を取ろうと腹這いのまま猫なで声を出してきた。
「なあ、悪かったってば」
「知らん」
「いや、もうマジごめん。愛してるから許して下さい」
さっきまで腑抜けていたセージがいきなりそんな事を言うので、カリンは輪郭の強調された目を丸くした。反射的に動いた左手が、転がっていた袋に当たって音を立てる。
恋人をぎょっとさせたばかりの青年は、いたって真面目な表情で原因となった言葉を繰り返す。
「愛してるって。あいらぶゆー。いっひりーべでぃっひ」
「何語で言うても変わりません」
「じゃあ百回言ったら信じる?」
「……数で勝負しようとしてんちゃうわ、阿呆」
照れ隠しも手伝って、カリンはぷいと余所を向いた。セージは笑いを噛み殺しながら恋人の膝に頭を乗せる。カリンが纏っている白いワンピースの各所に、細かな皺が寄った。
「ちょっと」
「今日の月ってさ」
恋人の抗議を無視してセージが口を開く。肌に張り付くような蒸し暑さを忘れさせる、涼しげな声だった。話を聞かない事に腹を立て、頭でもはたいてやろうとしていたカリンは思わず手を止める。
「居待月っていうんだって」
「居待月?」
「そう。出てくるまで時間がかかるから、居待月。もう上っちゃってるけどさ」
聞き慣れない響きをオウム返しするカリンに、膝枕されたままセージは頷く。彼はそのまま、眠たげな目を窓の外にやった。カリンもつられるようにそちらを見る。月はまだ叢雲の影に隠れたままだ。
セージは言った。
「せっかくだから、カリンと一緒に待ちたいと思って」
それは十分過ぎる殺し文句だった。カリンは真っ赤になって口をつぐむ。この時ばかりは、薄暗い部屋に感謝した。この程度の微光なら、セージが顔を上げても恋人の赤面には気づかないだろう。彼は相変わらずカリンの膝の上で、主役不在の空を眺めている。ひゅるりとおどけた音を立てて、ビル風が窓から吹き込んだ。
「……別に、愛してるとかいちいち言われんでも知ってるわ、そんなん」
風の音にまぎれるように、ぼそぼそとカリンは呟く。聞こえるか聞こえないか微妙な声は、役立たずな風に攫われた。どこからか救急車のサイレンが聞こえる。
その時、セージが頭上のカリンを急に見つめた。
「なあカリン」
「な……何よ、急に」
カリンは動揺を隠して見返す。セージはいつも通りのどこか惚けた笑みで、子供のようにねだった。
「ちゅーして、ちゅー」
「……うちの話、微塵も聞いてへんかったやろ」
カリンは安堵と落胆のため息混じりに、しゃあないなと体を屈めた。ほんの一瞬、撫でるだけのキスをする。セージは膝の上で満足気に目を閉じた。交わした唇には微かな梅の香が残っていた。二人を覆い隠すかのように、薄色をしたカーテンが涼風に揺れる。
波紋を立てて、居待月が金魚鉢に飛び込んだ。
お読み頂きありがとうございます。
『居待月』は、弥生 祐様ご主催の『5分大祭』参加作品です。
桜庭は初の企画参加となりました。
筆者としては珍しいことに、ヤンデレもツンデレもいません。
かなり荒削りな文章だと思いますので、感想欄にてご指導のほどよろしくお願いいたします。
再度になりますが、お読み頂きありがとうございました。