第77話「穏やかな朝と届かない名前」
翌朝、俺は、鳥のさえずりと窓から差し込む柔らかい日差しで目を覚ました。
ダンジョンの中では、決して味わうことのできない、穏やかな目覚めだった。
身体の調子も、驚くほど良い。昨日の温かい食事と、ふかふかのベッドのおかげだろう。
リビングへ行くと、すでにグレイとリリアは起きていて、テーブルで朝食を摂っていた。
「よう、寝坊助。ようやくお目覚めか」
グレイが、憎まれ口を叩く。
「ミナトさん、おはよう! 昨日は、よく眠れた?」
リリアが、にこやかに挨拶してくれた。
「ああ、おかげさまでな。……いい匂いがするな」
テーブルの上には、こんがりと焼かれたパンとベーコンエッグとフルーツの盛り合わせが並んでいた。
「おはよう、ミナト」
キッチンから、黒髪の少女が顔を出した。彼女は、朝から活動していたらしく、頬が少しだけ上気している。
「あなたも、よく眠れたみたいね。顔色が、昨日とは全然違うわ」
「ああ。全部、あんたのおかげだ。ありがとう」
俺が素直に礼を言うと、彼女は少し照れたように微笑んだ。
「いいのよ、それくらい」
朝食を終えた後、俺たちは、家の外にある小さな庭で、それぞれ時間を過ごしていた。
グレイは、黙々と大剣の手入れをしている。
リリアは、村に咲く珍しい花を、興味深そうにスケッチしていた。
俺は、そんな二人を眺めながら、庭のベンチに腰掛けていた少女に、意を決して話しかけた。
「なあ」
「なあに、ミナト?」
「昨日、聞きそびれたんだけどさ。もう一度、あんたの名前、教えてくれないか?」
俺の問いに、少女は、きょとんとした顔をした。
「あら、私、昨日言わなかったかしら? ごめんなさいね」
彼女は、申し訳なさそうに、小さく頭を下げた。
「いいわ。改めて、自己紹介するわね。私は――」
彼女が、名前を口にした、まさにその瞬間だった。村の教会の鐘が、ゴーン、ゴーン、と、辺り一帯に鳴り響いたのだ。
その大きな音に、彼女の肝心な名前の部分だけが、またしても、かき消されてしまった。
「……チッ。なんてタイミングだよ」
俺は、思わず舌打ちした。
「ごめんなさい、鐘の音で聞こえなかったかしら?」
少女は、申し訳なさそうに眉を下げた。
「もう一度言うわね。私の名前は――」
彼女が、再び口を開こうとした時。
「あ、私も、お名前が聞きたいです!」
リリアが、スケッチブックを抱えて、俺たちの元へ駆け寄ってきたのだ。
「昨日は、自己紹介もできずに、ごめんなさい。私は、リリアです。あなたは……?」
リリアもまた、彼女の名前を知りたがっていた。
「リリア、素敵な名前ね。私は――よ」
少女は、にこやかに、三度、自分の名前を口にした。 しかし、結果は同じだった。
俺にも、リリアにも、そして、少し離れた場所でこちらを見ていたグレイにも、その名前は、まるで最初から存在しなかったかのように、耳をすり抜けていった。
「……え?」
リリアが、困惑した表情で、俺の顔を見る。俺も、同じように首を傾げるしかない。
「あの……ごめんなさい。もう一度だけ……」
リリアが、おずおずと頼む。
「ええ、いいわよ。私の名前は――」
少女は、いぶかしげな表情を浮かべながらも、はっきりと、もう一度、名前を言った。
だが、やはり、聞こえない。
その時、少女の表情から、すっと笑みが消えた。
彼女は、俺たち三人の顔を、一人ずつ、じっと見つめた。
そして、何かを確かめるように、もう一度、自分の名前を、今度は自分自身に言い聞かせるように、小さく、しかし明確に、呟いた。
「私の名前は、――」
俺たちには、やはり聞こえない。
だが、少女は、何かを確信したようだった。
「……おかしいわね」
彼女は、首を傾げた。その瞳には、これまでの好奇心とは違う、もっと根源的な未知の現象に対する魔術師としての探究心の光が、強く宿っていた。
「私の声は、確かに音として、あなたたちに届いているはず。なのに、私の名前という情報だけが、あなたたちの認識から、弾かれている……。まるで、この世界が、あなたたちに、私の名前を知られることを、拒んでいるみたいだわ」
彼女は、怖がるでもなく、面白がるでもなく、ただ、目の前で起きている不可解な現象を、冷静に鋭く、分析し始めていた。




