第63話「羊皮紙のリストと震える指先」
その日の夜、宿屋の部屋は、いつもよりずっと静かだった。
訓練を終え、夕食を済ませた後も、俺とグレイは、ただ黙ってテーブルの上のランプの炎を見つめていた。リリアが、情報屋のラナから受け取った羊皮紙のリストを、まだ開けずに、固く握りしめているからだ。
ここ数十年で、『アビス』の深層で消息を絶ったA級冒険者のリストの中には、彼女の探し人がいるかもしれない。そして、グレイのかつての仲間も。
「……リリア」
俺は、耐えきれずに声をかけた。
「無理に、今見なくてもいいんだぞ。心の準備ができてからでも……」
「ううん、大丈夫」
リリアは、俺の言葉を遮るように、静かに首を横に振った。
「見なきゃ。ずっと、逃げてばかりはいられないから」
彼女は、深呼吸を一つすると、震える指先で、ゆっくりと羊皮紙のリストを広げた。
そこには、何十人もの冒険者の名前が、所属パーティー名や、消息を絶った日付と共に、無機質な文字で記されていた。
A級冒険者。それは、誰もが憧れる英雄の称号。だが、ここに名前が載っている者たちは、皆、『アビス』の闇に呑まれ、帰ってこなかった者たちだ。
リリアの翠色の瞳が、上から下へ、一人、また一人と、名前を追っていく。
その瞳が、不安と恐怖と僅かな希望の間で、激しく揺れ動いていた。
「……いた」
やがて、リリアの指が、ある一つの名前の上で、ぴたりと止まった。
その声は、囁くように、か細かった。
「……レオ……。やっぱり、ここに……」
レオ。それが、彼女の探し人の名前のだろう。
リリアは、その文字を、何度も、何度も、愛おしむように指でなぞった。
「……そいつが、お前の探してた奴か」
それまで黙っていたグレイが、低い声で尋ねた。
「うん……。私の、たった一人のお兄ちゃんみたいな人だったの」
リリアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、羊皮紙の上に小さな染みを作った。
「そっか……」
俺は、かける言葉が見つからなかった。
「なあ、グレイ」
俺は、グレイの方を向いた。
「このリストに、あんたの仲間も……」
俺が言いかけると、グレイは、静かに首を横に振った。
「いや。あいつの名前は、ここにはない」
「え……?」
「あいつは、A級じゃなかった。俺たちとパーティーを組んだばっかりの、お前と同じ、駆け出しのひよっこだったからな。こんなリストに、名前が載るはずもねえ」
グレイは、自嘲するように、そう言った。
その言葉は、彼がどれだけ、その名もなき仲間の死を、今も引きずっているかを、雄弁に物語っていた。
部屋に、再び沈黙が落ちる。だが、それはもう、昨日までの気まずい沈黙ではなかった。
リリアの悲しみ。グレイの後悔。そして、何も知らない、俺の無力さ。
俺たちは、それぞれの痛みを、声に出さずとも、確かに共有していた。
「……行こう」
リリアが、顔を上げた。涙はもう、流れていない。
その瞳には、迷いのない、強い光が宿っていた。
「『アビス』の最深部へ。あの女が、待ってるって言ったから。レオが、待ってるって、言ったから」
「リリア……」
「嘘かもしれない。罠かもしれない。でも、確かめなきゃ。この目で、真実を」
彼女の覚悟は、もう揺るがない。
「ああ。行こう」
俺も、強く頷いた。
「俺たちの答えを、探しに」
ランプの炎が、俺たち三人の決意を照らし出すように、力強く、静かに燃えていた。




