プロローグ
世界は、どうしようもなく灰色だった。別に、特殊な色覚異常を患っているわけじゃない。
信号機の赤は赤に見えるし、快晴の空を見上げれば、それなりに青い。そういう物理的な話ではなく、精神的な話だ。
俺、相川湊の生きる世界には、彩度というものが決定的に欠けていた。
教室の隅、窓際から二番目の席。そこが俺の定位置。 休み時間になれば、皆が楽しそうにグループを作って昨日のテレビの話や週末の予定などを語り合う。
その喧騒は、まるで厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事みたいに、俺の耳には届かない。
いや、正確には聞こえている。聞こえているけれど、その会話の輪に加わるための資格が、俺にはない。ただそれだけのこと。
誰も俺をいじめるわけじゃないし、無視するわけでもない。プリントを回す順番が来れば普通に渡してくれるし、たまに目が合えば気まずそうに逸らされる。
俺は、風景の一部。いてもいなくても物語に影響を及ぼさない背景の木々や電信柱と同じ。
そう、物語で言うところのモブキャラってやつだ。自分自身でそう規定してしまえば、傷つくこともないから楽だった。
そんな灰色の世界で、唯一、鮮やかな色彩を放つ瞬間があった。
放課後、古本屋で百円の値札が貼られたラノベを漁り、ページをめくる時だ。紙の乾いた匂いやインクの香りを感じる。
そこに描かれるのは、魔法があり、ドラゴンが空を舞い、エルフが森で歌う圧倒的な非日常。
主人公は、俺と同じような、あるいは俺以下の冴えない奴だったりする。それが、ひょんなことから異世界に召喚されたり、謎のスキルに目覚めたりして、運命の歯車を回し始める。
絶体絶命のピンチで出会う銀の髪をなびかせた美少女剣士。治癒魔法で傷を癒してくれる心優しい神官の女の子。最初はツンツンしているくせに、次第に心を許していくツンデレ魔法使い。
ああ、なんて素晴らしい。なんて、都合のいい世界なんだろう。
その日も俺は、いつもの公園にあるペンキが剥げかけたベンチに腰掛けていた。
西日が木々の間から差し込み、地面に長い影を落としている。
読みかけのラノベ――ありふれた少年が迷宮の底で伝説を掴む物語――を開き、主人公が強大な敵を打ち破り、囚われの仲間を助け出すクライマックスに没頭していた。
仲間の頬が朱に染まる。主人公の腕の中で、か細い声が感謝を告げる。
……いいよなあ。俺も、こんな出会いがしてみたかった。
ゴブリンに襲われている村娘を助けて、「あなた様は命の恩人です!」なんて言われてみたい。
パーティーを組んだクールな女騎士に、ふとした瞬間にだけ見せる笑顔を向けられて、ドキマギしたい。
現実には、そんな出会いはない。コンビニのレジで「温めますか?」と聞いてくれる店員さんとのやり取りが、一日のハイライト。
そんなもんだ。だから願う。もし、もしも本当に、神様とか、そういう超常的な何かがいるのなら。
「俺を、異世界に連れてってくれよ」
声に出したつもりはなかった。胸の内で燻っていた願望。それは夕暮れの気怠い空気の中に、吐息と共に溶けて消えるはずだった。
その時だった。
『……あなたは』
頭の中に、直接声が響いた。鈴が鳴るような可憐な少女の声。
それは耳で聞いた音じゃなかった。脳のもっと奥深い場所に直接語りかけてくるようなくすぐったい感触。
俺は顔を上げた。公園には誰もいない。ブランコが風に揺れて、キィと寂しげな音を立てているだけだ。
幻聴か。さすがに疲れてるな、俺も。そう思って、再び本に視線を落とそうとした。その瞬間。
『あなたは、異世界転移をしてみたいですか?』
今度は、はっきりと聞こえた。疑いようのない問いかけ。まるで、物語の始まりを告げるヒロインの台詞みたいに、澄んでいて、それでいて有無を言わせぬ響きがあった。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。 全身の血が沸騰するような、それでいて指先は氷のように冷たくなるような、矛盾した感覚が身体を貫く。
恐怖? 驚愕? いや、違う。それは歓喜だった。待ち焦がれた瞬間が、ついに訪れたのだという揺るぎない確信だった。
物語の主人公なら、ここで警戒したり、罠を疑ったりするのかもしれない。あるいは、家族や友人の顔を思い浮かべて、躊躇するのかもしれない。
だが、俺にはなかった。守るべきものも、失って惜しいものも。灰色の世界に、未練なんて欠片もなかった。
俺は、本をパタンと閉じた。乾いた唇を一度舐めて、ほとんど息だけで、けれど人生で最も明瞭な意思を込めて、答えた。
「はい」
その言葉が、引き金だった。世界が、白く染まる。視界のすべてが光に塗り潰され、身体がふわりと浮き上がる感覚。
遠ざかっていく公園の風景。最後に聞こえたのは、カラスの鳴き声だったか、それとも救急車のサイレンだったか。
もう、どうでもよかった。新しい世界が、色鮮やかな冒険が、そして運命の出会いが、俺を待っているのだから。




