帰って来たのね
朝。また朝が来た。私の気持ちなんかお構いなしに、今日も変わらず朝はやってくる。
雨戸を開けると、ひんやりとした風が部屋へ滑り込んできた。春先とはいえ、まだ少し冷たい風。けれどその風は、どこか懐かしい匂いを運んできた。
そんなことを思いながら、リリ子さんは庭に目をやった。
黒い猫が座っていた。背筋を伸ばし、まるで誰かを待っていたかのように、居住まいを正している。毛並みは艶やかで、尻尾の先がふるふるとわずかに揺れていた。
目が合った。
大きな青い目が、まっすぐリリ子さんを見つめていた。そして、その猫は口を開けて「ニャー」と鳴いた。
・・・間違いない。あの声も、あの目も、あの座り方も。
「タマちゃん」
リリ子さんは呟いた。言葉にした瞬間、体が自然と動いた。裸足のまま縁側を降り、冷たい石の感触を足裏に感じながら庭へと出る。草の露に濡れて、足先がひやりとしたが、それすら気にならなかった。
黒猫は動かなかった。逃げる素振りすら見せず、ただじっと待っていた。
リリ子さんはしゃがみこみ、両手で猫をそっと抱き上げた。懐かしい重さ。確かな体温。まさに、あのときのタマそのものだった。
「タマちゃん、帰ってきたのね」
猫の額にそっと頬を寄せ、声を震わせながら言う。
「どこに行ってたの? 心配したのよ」
猫は黙って抱かれていた。けれど、その喉元からは柔らかいゴロゴロという音が響いていた。まるで「大丈夫」と言うように。
「お利口。お利口ね」
リリ子さんは何度も繰り返した。
そのまま猫を抱いたまま、リリ子さんは家の中へ戻った。足の汚れは気にならない。部屋には朝の光が差し込んでいて、猫の毛並みが金色に輝いて見えた。
椅子に腰を下ろし、タマちゃんを膝に乗せて、リリ子さんは話しかける。
「ねえ、あれから何日経ったか知ってる?」
猫は答えない。ただ目を細め、喉を鳴らし続ける。
「私ね、自信があったの。あなたにもう一度会っても、すぐにわかるって。どんな姿になっても、絶対にわかるって。でも、あなたは同じ姿で戻ってきた。お着替えもしないで、戻ってきたのね。ほんとにお利口。おかえり、タマちゃん」
タマちゃんは、リリ子さんの膝の上で丸くなっていた。背中を撫でると、小さく尻尾が揺れる。
「それでね。今朝、あなたの気配がしたの。風が教えてくれたのかもしれない。あの風、ちょっと不思議だったもの」
リリ子さんは、タマちゃんの耳元に口を寄せて、そっと囁いた。
「もしかして・・・ほんとうに、あっちから戻ってきたの?」
返事はなかった。ただ、猫の目が細くなり、穏やかなまどろみに沈んでいくように見えた。
リリ子さんは、少し笑って、涙を拭った。
「まあ、いいわ。もう帰ってきたんだもの。どこからとか、理由とか、どうでもいいの」
「ご飯にしましょう」と言うと、タマは膝から滑り降り、自分の寝椅子へ向かった。
その姿は、まるで貴婦人のようだった。男の子なのに。
リリ子さんは、戸棚からタマのお皿を取り出し、祭壇に供えていたタマの好きなフードを入れた。そして、自分の食事と一緒にテーブルへ運ぶ。
二人は、時折「美味しい?」「にゃー」と話しながら、朝食を済ませた。
寝椅子に戻り、うつらうつらとするタマに、リリ子さんが話しかける。
「ねえ、あなたがいないあいだにね、庭のスミレが咲いたの。それから、お隣の小百合さんが骨折してね。でももう元気で、畑に出てるくらいよ」
リリ子さんは、タマがいない間のことを次々に語った。特に、薄情だった家族のことを。
娘も孫も四十九日に参列しないと言ってきたのだ。
タマは時折「にゃ」「にゃお」と相槌を打った。
また、以前のように二人は暮らし始めた。
台所で魚を焼くときも、洗濯物を干すときも、タマはいつも近くにいた。まるで、何事もなかったかのように。
けれど、リリ子さんにはわかっていた。
この再会は、何か大きな力が働いた結果だと。それが善意か悪意かはわからない。でも、確かに「何か」があったのだと。
だから今日も、リリ子さんは朝になると雨戸を開ける。
そして、風に向かってそっとつぶやくのだ。
「ありがとう。連れてきてくれて」
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