君を描く
外は炎天下、焼かれたアスファルトからはカゲロウが立ち昇っている。
風は多少あるものの、そもそも気温が高いので熱風が全身に吹きつける。
そんな真夏の様相を呈する外とは違って、クーラーの効いた室内は快適だ。
私は今、学校の図書室にいる。
夏休みでも図書委員会の当番はあって、私は今日そのために学校に来ていた。
でも、利用する人はほとんどいない。
勉強しにくる人はちらほらいるけれど、本の貸出や返却の対応をすることは少ない。長期休暇なので、貸出期間を延長していることも理由だと思う。
そのため、図書委員会の係も毎日いるわけではない。決められた日に当番になった人が来ることになっている。
委員会の仕事としてやることはほとんどないけれど、夏休みの図書室というこの空間はどこか特別に感じる。特にやることはなくても苦痛は感じない。
でも同じところに座ってばかりも体が痛くなるので、気分転換も兼ねて校舎を散歩してこようと思い立った。
受付に"ただいま席を外しています"の札を置いて、背伸びしながら図書室を出た。
廊下は冷房がついていないのでそれなりに暑い。
今の時間は暑さのピークは過ぎて、換気のために開けられた窓からは生ぬるい風が運ばれてくる。
焼けたアスファルトと、生い茂る植物の匂い。
夏の匂いだなぁと肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
誰もいない廊下を歩くのは冒険みたいで楽しい。
外から聞こえる運動部の声、どこからかわずかに聞こえる吹奏楽部の練習の音…。それらをBGMにして校内を練り歩く。
そうして歩いているうちに、普段はあまり来ないところに来た。近くの教室の名前を確認すると、"美術室"と書かれていた。
私は芸術科目で美術を選択していないので、この中に入ったことはない。美術部のあかりんはここで部活に取り組んでいるはずだ。
そして、美術部といえばあの人も…。
興味本位で中を覗く。すると、中には頭に思い浮かべていた人がいた。
「夏見くん。」
静かに扉を開けて中にいるその人の名前を呼ぶと、こちらを見て驚いた顔をした。
「先輩…なんで。」
美術室の中には夏見くん一人がいて、画用紙に絵を描いているところだった。
夏見くんはツンツンしているイメージだけど、不意をつかれた顔はなんだか幼く見えて可愛い。
「委員会の仕事で図書室にいたんだけど、息抜きに散歩してたの。そうしたら夏見くんに会えちゃった。」
美術室の中に入り、キョロキョロと中を見渡す。
椅子や机、キャンバス立てがまとめて置かれていたり、生徒が描いたと思われる画が飾ってあったりと、物が多い印象だ。
中学の時は美術は必須だから美術室に入ったことがあるけど、その時とはまた違う雰囲気で新鮮に感じる。
そんな私に、夏見くんは言った。
「…先輩、約束覚えてますか?」
「ん?…もしかして、絵を見せてくれるっていう話?」
あの時、図書室で話したことだろうか。そう思って聞くと、コクンと頷いた。
「はい。」
「え!本当にいいの!嬉しい!」
夏見くんは今描いていた絵を片付けて、新しい画用紙を用意した。
「じゃあ先輩、そこに座って。」
「?」
夏見くんは窓際の椅子を指差した。
言われた通りに座ると、私をじっと見つめた。
…え、もしかして私を描いてくれようとしてる!?
「え、あの!もしかして私を描いてくれるの?」
「はい。いいですか?」
誰かに描いてもらえるなんてあまりない機会だ。嬉しいけど、少し恥ずかしい。
「でも描いている間ずっと見られるの恥ずかしいな。」
「そうですか?…じゃあ窓の外を見ててください。」
言われた通りに体ごと窓の方を見る。これなら恥ずかしくない。
窓の外を見ると、傾き始めている太陽と少し色が染まった雲が浮かんでいる。
シュッシュッと鉛筆が紙に引っかかる音だけが響いていて、とても心が落ち着く空間だ。
穏やかな気持ちになりながらそのまま外を見ていると、ここからはグラウンドも見えることに気がつく。あれは、サッカー部も使用している場所のはず。そっか、ここからは悠真も見えるんだ。
…悠真といえば。
プールで男の人達に離してもらえなかった時、駆けつけて助けてくれた。
ふわふわ優しいイメージだった悠真の初めて見る表情とか、力強さとか…。あの時、私の中の悠真のイメージが変わった気がする。
あれから、悠真を見ると少しだけ落ち着かない気持ちになることがある。
ほぼ毎日会うので、そんなことも言っていられないけど…。
悶々と考えていると、さっきまで聞こえていた鉛筆の音が聞こえなくなったことに気がついた。
描き終わったのかな?
そう思って夏見くんを見ると、彼の目は真っ直ぐに私を見ていた。
涼やかな切れ長の目。その黒い瞳は日の光に透けて少し色素が薄く見える。
あまりにもまっすぐに見つめられて、目が逸らせない。
「…だ。」
「え?」
ポツリと言われた言葉がよく聞こえなくて聞き返す。
「描いてみたいとずっと思ってた。すごく綺麗だ。」
そんな言葉をストレートにぶつけられるのははじめてで、嬉しいけど照れてしまう。
「何言ってるの。」と笑って返そうとしたけれど、そんなこと言える雰囲気じゃない。
じっと見つめられる視線の強さに、心臓の音が速くなる。だんだん頬に熱が集まってきて少し暑い。冷房の効いている部屋なのに。
「…そんな顔、しちゃダメですよ。」
どうすることもできない私を見て、夏見くんは困ったように笑った。
「もう少しなんで、窓の方見ててください。」
「あっ、うん…。」
そう言われて慌てて窓の方へ視線を戻す。赤くなっているだろう頬や耳を見られているかと思うと恥ずかしい。
鉛筆の音を聞きながら、別のことを考えて心を落ち着かせた。
できた、と呟いて、描いていた絵を私の方へクルッと回してくれた。
「わぁ!すごい…。」
思わず椅子から立ち上がって作品のそばに近付いた。
シンプルに鉛筆のみで私の横顔が描かれている。繊細なタッチの柔らかい絵だ。それが、夏見くんの内側を表しているかのように、優しい絵。
「こんなに素敵に描いてくれたのね。ありがとう。」
こんな経験は初めてで、嬉しくてお礼を言う。
「べつに…。お礼を言うなら俺の方です。綺麗な人をスケッチできて楽しかった。」
「きれい、って…。」
だから、なんでこの子はこうもストレートなんだろう。褒められて嬉しい気持ちはあるれけど、突然のことにビックリするしなんだか気恥ずかしい。
暑い暑い、と思って顔周りを手で仰いでいると、「先輩。」と声をかけられた。
「先輩ってサッカー部の秋月先輩と付き合ってますか?」
「悠真と私が?別に付き合ってないよ。なんでそう思うの?」
「いつも一緒にいるし、そういう話も聞くから。」
「悠真は幼馴染だから。家も隣だし。私にとって悠真は…。」
"家族みたいなもの"
いつも通りそう答えようとしたのだけれど、言葉に詰まった。家族とは、少しちがうような…。言葉にしようとすると、今までは感じなかった違和感が心の中にあることに気がついた。
いつもニコニコしてて、何をする時も一緒だった可愛い悠真。でも最近は、真剣な顔とか怖い顔とか、私なんかよりずっと力があるところとか、今までになかった一面を見ることが増えた。
その時私はドキドキして…。
あれ?家族ってこんな風にドキドキするものだっけ?悠真は私にとって、家族なような存在じゃないの?
「先輩?」
「あ…。ううん、なんでもない!とにかく、私と悠真は付き合ってないよ。」
「ふーん。」
考え事をしていて変な間が空いてしまった。
慌てて言い直すと、怪訝な顔をしながらも納得したような相槌が返ってきた。
「じゃあ、俺にもチャンスはあるってこと?」
「え?チャンス?」
「そう。先輩と付き合うチャンス。」
付き合うチャンス…?
突然のことに頭がフリーズする。
でも、意味を理解した途端に、一気に顔が熱くなった。
なんで、夏見くんがそんなこと言うの?
そういうこと聞くのって、まるで私のこと…。
真面目な顔でじっと私を見て…いたんだけど、突然、ハハッと笑い出した。
「先輩、顔真っ赤。」
少し顔を背けて、手の甲で口元を隠すように笑っている。
突然のことにポカンとしたけど、なんだかこちらまでつられて笑ってしまった。
「もう、からかったな!悪い後輩だよ。」
「からかってはないです。でも、先輩の表情の変化がおもしろくて。」
夏見くんは無愛想だと思ったけど、今日はたくさん笑っているところを見ている気がする。
まだ口元に笑みを浮かべながら、描いてくれた絵を私に差し出した。
「くれるの?」
「はい。良ければ貰ってください。」
「ありがとう!」
さっきまでのドキドキを忘れて、嬉しくてニコニコしてしまう。
自分の姿を描いてもらえるなんてあまりないことだし、何よりも、私のために描いてくれたことが嬉しい。
目の前で広げて眺めていると、夏見くんは「そういえば。」と言った。
「委員会の仕事は大丈夫なんですか?」
「…あっ。」
すっかり忘れていた。
本の貸出し、返却の手続きをしたい生徒はあまりいないと思うけど、もし待たせていたら申し訳ない。
「ごめん、私戻るね!これ本当に嬉しい、ありがとう!」
わたわたと扉を開けて外に出る。
扉の前まで来てくれた夏見くんにお礼を言って歩き出そうとすると、おもむろに腕を掴まれた。熱い、大きな手だ。
「さっきのはからかったわけでも、嘘ついたわけでもないですから。…この意味分かりますか、春姫先輩。」
「え…。」
ちゃんと名前呼ばれたのはじめてだ。
ううん、それよりも、夏見くんが言っていることって…。
「じゃあ。残りの仕事頑張ってください。」
「う、ん。またね。」
ぎこちなく返事をして、背中を向けて図書室へ向かう。
気になってチラリと振り向けば、口元に笑みを浮かべた夏見くんが、ヒラヒラと手を振っていた。
その後、図書室へ向かう途中も、委員会の仕事をしている時も…、夏見くんのことがずっと頭から離れなかった。