第二章 陽暈の盾編
第二章のep1〜ep8までの総集編となっています。文字数は5300程度です。
緑褪せる落ち葉が道端に積もり始めた頃、ヴァイスは陽暈の盾東区本部の受付に立つ女性から、一通の茶封筒を手渡される。それに記された陽翼の皇剣の文字を見て、慌てて手に取り、その場で破ると、中に入った手紙を開く。
「魔界調査申請却下?理由は…封鎖区域?」
ヴァイスの、黒い霧がかかったような脳裏を過るのは、”紫色の炎の噂”。
ヴァイスは手紙を強く握りしめると、歯を食いしばりながら、暗く沈んだ鋭い目で静かに外へ続く扉の方へ足を向け、歩き出す。
今から十三年前のあの日、それは桃色の温もりに包まれながら目を覚ます、いつも通りの穏やかな朝から始まった。
「お母さん、おはよう。」
きつね色に焼けた食パンの温かい香りが薄く塗られたバターの匂いを乗せて、ヴァイスの鼻をくすぐる。
「ヴァイス、おはよう。顔、洗おっか。」
眠そうに目をこするヴァイスを見て、母親のソナはクスッと笑う。
二人はテーブルの席に向かい合うように座ると、互いに手を合わせる。
「いただきます。」
耳に残ったパンを噛じる音と口の中に残ったバターの風味が満たされた腹の奥から背筋を温める。
そのとき、遠くから耳に籠もったように響く爆発音と共に、窓ガラスがガタガタと揺れた。そして、だんだんと迫り近づいてくるその音と町に住む人々の悲鳴が二人の鼓動を締め付け、呼吸を忘れたような見開いた目で凍りついた表情から恐怖だけを残す。
ソナは必死に息を呑み、荒く吐くと、ヴァイスの手を掴み、玄関扉に向かって駆け出し、外へ飛び出す。
肌が焼けるような熱風が二人の息を詰まらせる。次々と崩れる家々と悲鳴を上げながら逃げ惑う人々、黒く焼け焦げて道端に倒れる人々を覆い隠すように広がる紫色の炎が、呆然と立ち尽くした二人の視界を塗り潰す。
「何…これ…?」
ソナはヴァイスと繋いだ手を震わせながら強く握りしめる。
ヴァイスの頬に滴り続ける涙が止むことのない荒呼吸を加速させる。しかし、強く握られたソナの手が、今にも泣き叫び出したいヴァイスの心を押し殺す。
そのとき、二人の忙しなく泳ぐ瞳の先を覆い尽くす紫色の炎の中から、焦げた木屑を踏み割る音を立てながら全身が黒く染まった魔人が姿を現し、不気味に笑いながら二人の元へ近づいて来る。
「白い魔力…。やはり俺の眼に狂いはなかった。幾年過ぎたか知る由もないが、お前を探していたことだけは、俺の記憶に焼き付いているぞ。」
その声はソナの耳奥を抜け、背筋に牙を向けるような悍ましさを伝え、額から冷や汗が漏れる。そして、ソナはヴァイスの手を離すと、一歩前に出る。
「ヴァイス、逃げなさい。」
静かに震えたその声を聞いたヴァイスは、ソナのミモレフレアに掴みかかる。
「嫌だよ。お母さんも一緒に逃げよう?」
その必死の叫び声と掴まれた手の感触が、ソナの鼓動に聖火の如く温もりを灯し、ほんのり血色が戻った緩んだ頬に涙が垂れる。
「…私もヴァイスと離れたくない。でも今の私には、強くなくても、戦う使命がある。あなたにも、逃げて生き延びる使命があるの。だから、一緒に乗り越えよう。大丈夫。きっと、また笑顔で会えるから。」
ソナがヴァイスの頭を軽く撫でると、ヴァイスはミモレフレアから手を離し、涙を拭う。そして、ヴァイスはソナに背を向け、紫炎に塞がれた出口へ向かって走り出す。
ソナは玄関脇に立て掛けられた長竹箒を手に取り、穂先を魔人に向ける。
「聖魔力纏い。」
柄を握るソナの手から、糸を絡めて縫い仕立てるように、純白に染まった魔力は箒を伝う。そして、魔人の手のひらから放たれ、勢い良く迫り来る紫炎を跳ね返すように、その箒を大きく振り上げる。すると、紫アヤメの花びらが春風に吹かれて散り落ちるように、紫炎は純白の魔力に打ち消され、自然魔力に還っていく。
それから、まるで風に吹かれた豪雨の中をレインコートを着て走り続けているかのように、ソナは何度も何度も箒を振り、紫炎を薙ぎ払った。
やがて、その雨が上がると、夕暮れが水平線の彼方に落ち、紫紺に染まる薄暮の海に映る箒星の旅路を名残り惜しむように、ソナが震えた手で握る箒から純白の魔力が消えていく。
「ヴァイス、ごめんね。」
爪を突き立て、忌々しく燃え盛る紫炎を纏った魔人の腕が箒の柄を突き割り、ソナの心臓を貫いた。
「この時を待ち侘びたぞ。俺の眼には、お前の微々たる魔力量も、それが尽きる瞬間も見えていたのさ。これこそ、渇望した邪悪の愉悦だ。」
立ち塞がる紫炎の向こう側に向かって「助けて」と必死に叫ぶヴァイスは、雨上がりの空の下、葉に残る雫が落ちる小さな音に耳を澄ますように、ソナの微かな声にふと振り向く。
「お…母…さん?お母さん。」
垂れ流れる真っ赤な血で染まっていくミモレフレアを見つめながら、ヴァイスはソナの方に向かって走り出す。涙で息を詰まらせ、足をふらつかせながら、必死に手を伸ばす。
いかないで。──ヴァイスは何度も何度も心の中で、そう叫び続けた。
「誰か…助けて。誰でもいいから、お母さんを助けてよ。」
そのとき、ヴァイスの枯らした声に共鳴するように、町を囲んだ紫炎が靡き、空気が揺れた。
ヴァイスが瞼を一つ瞬かせた瞳には、逃げるように滑り去る影の余韻を残し、赤く染まる彼岸花の花束を支え持つように、ソナを抱きかかえる老翁の姿が映る。
「ソナ…。どうして君は…私の顔を見た途端、安心したように眠るんだ?無知なる愛を遠ざけ、幸せを端から願うことしかできなかった、この私を…。そんな顔をされたら私は…私を責められないじゃないか。本当は…君の幸せの中に居たかった。でも、君の旅立ちを見守ることが父親としての役目だと、格好つけていたんだ。」
ソナを抱えながら、崩れ落ちるように膝をつき、泣きじゃくる老人の声が、ヴァイスのギュッと押し殺された鼓動を走らせ、枯らした喉に呻き声を突き刺す。
「嫌だ…死んじゃ嫌だよ。お母さん、居なくならないで…。」
赤く染まったミモレフレアを握りしめながら、ソナの顔を見つめるヴァイスの手足は激しく震え、溢れ止まない涙を忘れた掠れ声を浅く吐き続ける。鮮明だったはずの脳裏に過る母の笑顔は、まるで紫炎に焼き尽くされ灰塵と化したように、閑やかに眠る表情だけを炙り残して消えていく。その灰を見失わないように、ヴァイスは必死に手を伸ばし、掴み取ろうとする。それは徐々に、目を逸らした現実から遠ざからせ、やがて意識を失い、地に倒れ伏せた。
目を覚ますと、白塗りの天井が映っていた。手に温もりを感じたヴァイスが起き上がると、傍には老人が座り、ヴァイスの手を握っていた。
「ヴァイス君。君が無事で良かった。私の名はクリム・シュヴァール。君の母、ソナの義理の父だ。彼女とは血の繋がりはないが、それでも大切な家族…。今は何も考えなくていい。ただ、私を君の傍に居させてくれ。」
お母さんはどこ?──あれから十三年…。あのとき、俺の瞳に映っていたのは、空白となった日常。そこに入り混じる絶望と憎悪。その現実をすぐに受け入れることは出来なかった。でも、目が覚めた時からずっと、シュヴァールさんが傍に居てくれたから、一人じゃないって思えたし、希望を信じられるようになったんだ。
それはまるで、灰色の雪が降る真夜中、無灯火の道端で寂寞に蹲っていたヴァイスに、シュヴァールが傘を差し掛け、レトロランタンの灯りを照らし向けるかのような日々だった。
静寂が沈み落ちる闇に包まれた魔界の中を、ヴァイスは頼りない小さな火の玉で路面を照らしながら、一心不乱に走っていた。
「紫色の炎…。噂の場所と封鎖区域が一致したのは、きっと偶然じゃない。もう本庁の許可を待ってはいられない。そこにいるはずなんだ…。」
だんだんと息苦しくなり、肌がピリピリと刺激されるような感覚が、ヴァイスを謎めく大きな黒い影に導く。
そして、草木が焼け焦げたような炭苦い匂いが、ヴァイスの足を止め、それを辿るように視線を誘う。
その瞳の先に映る黒く染まった全身の肌、赤い眼光、ヒリヒリと伝わる魔力圧。そして、ヴァイスの震える手が根源たる追憶を覚まし、脳裏に訴えかける。
絶望を捨てろ。恐怖を捨てろ。切望した殺意を呼び起こせ。
──炎魔力防御。炎魔法、ルベル・クレシエンテ。
熱が湧き上がる鋭い赫閃の刃を強く握りしめ、ヴァイスは魔人に向かって走り出す。
しかし、その刃を魔人は黒く硬い片腕で受け止め、そこから火花が立つ。
「魔力量は悪くない。だが、やはり人間は弱い。」
その耳を突き刺すような魔人の悍ましい声を聞いたヴァイスは、眉を顰めながら唸る。
「黙れ。お前が…母さんを…。」
「カアサン?そんなものを俺は知らない。だが、なぜだろうな?俄然、愉悦が滾る。」
すると、魔人は紫炎を纏った拳でヴァイスの腹を殴る。
ヴァイスは自分の纏った魔力に押し潰されるように腹が強く圧迫され、吹き飛ばされる。
痛む腹を押さえながら倒れ込んだヴァイスは、四つん這いになり、唾を吐き捨てると、荒く咳払いをする。そして、膝に手をつきながら立ち上がる。
「自然環境支配。炎魔法、インフェルノ·スタウロス。」
ヴァイスが纏う炎魔力から溢れ出る灼熱は、空気を焦がすように澄み乾いた熱気を張り巡らせる。そして、周囲の熱を炎魔法に絡め、糸を縫い仕立てるように、赫閃の刃をさらに鋭く、熱く形成していく。その赤く燃え上がる炎は、だんだんと色を変え、やがて、珊瑚礁に彩られた群青の海のように青く煌めく。
「炎魔法、カエルラ·クレシエンテ。」
──ごめんなさい、シュヴァールさん。どうか、憎しみのままに戦う僕を許して下さい。
視界を覆う魔人が放つ紫炎を、ヴァイスは一刀両断に断ち切ると、開けた視界から、夜空をヒュンと過ぎ去る蒼閃の流星のように、魔人に向かって駆け迫る。 そして、青炎に手を伸ばし、掴もうとする魔人の手を、三日月を描くように振り下ろした蒼閃の刃で断ち貫くと、腰を回す勢いで刃を横に振るい、首を討ち切る。
「俺が数多に積み重ねてきた憎しみの日々だけの、お前が地獄に失せるまで続く無窮の悪夢に、苦しみながら逝け。」
そう言い放ちながら、ヴァイスは暗く沈んだ目で、首が落ちた魔人の体を睨みつける。すると急に、肺が締め付けられるように苦しくなり、荒い呼吸で額から汗を垂れ流しながら、膝から倒れ込み、手を地面につける。
体に力が入らない…。少し寒気もする。この疲労と痛みは、魔力切れ…だけじゃないな。呼吸を忘れるほどに夢中で、知らずの内に魔力出力と体の限界を超えていたんだな…。
そのとき、不気味な笑いと共に、悍ましい声が再びヴァイスの耳を突き刺すように刺激する。
「イイゾ…ニンゲン。この痛みも我が邪悪の糧となる。世界を包み込む黒塗られた邪悪が消えない限り、俺の邪悪は不滅だ。」
地面に転がり落ちた魔人の頭から、くしゃつき絡まる毛糸玉がほどけ崩れるように、紫炎に染まる細い魔力の線が幾つも生え伸び、倒れている体に結びつく。 そして、首からみるみると頭の形が成されていく。 スンと立ち上がる魔人はさらに、二つに割れた腕を裂け目の跡もなく元に戻す。
ヴァイスは、それを四つん這いのまま背中越しに首を振り向かせ、丸く泳ぐ瞳で見つめる。
魔力で…再生…だと?そんなことが…。いや、それよりもまず、この体勢を…。動け。動け、俺の体。
「青い炎の人間。お前は俺の紫炎に焼かれ苦しむ時、その無窮の悪夢とやらを見るのか?それならば、邪悪の愉悦が再び訪れるだろうな。」
不気味に笑う魔人は手のひらから燃え上がる紫炎をヴァイスに見せびらかすように突き出す。
「残念だったな…。俺が見るのは、母さんとの思い出。お前の紫炎なんかじゃ敵わないよ。そして、その狂い歪んだ愉悦は、もう二度と叶わない。」
ヴァイスは弱々と腕を震わせながら、振り返るように座り込み、不敵に笑う。
──憎しみに汚れた顔じゃ、母さんに会えないよね…。
その頬の緩みに焚き付けられたように、魔人は紫炎を燃え上がらせ、ヴァイスの視界を覆い尽くす。
「人間は弱い。だから口だけ強がる。哀れ。」
魔人は紫炎が燃え尽きた煤ける地面を見つめる。
そのとき、空気が震えるほどの魔力圧を背後から感じ取り、魔人は怯えながらも咄嗟に振り返り、紫炎を撒き散らす。すると、そこにはシュヴァールがヴァイスを抱えながら、静かに立ち尽くしていた。
「哀れなのは、優越を気取りたいがために弱者しか映さない、お前の偏屈な目だよ。だが、死に損なっただけの歪んだ存在であるお前には、それがお似合いか。」
魔人はゆっくりと足を後ずさる。
「その魔力…あのときの…。いや、もっと前から…。」
そして、潜るように姿を自分の影に隠し、地面を滑るように闇の奥へと消えていく。
ヴァイスは顔を俯かせながら、シュヴァールの服を掴む。
「どうして、ここに…?いや…。勝手な行動をして、ごめんなさい。」
「あぁ…そんなことで私に謝る必要なんてない。それに言っただろ?君の幸せに満ちた笑顔をソナに見せるために、私が君の希望となる。それが、ソナから私に託された使命だから、と。」
ヴァイスは双葉が芽吹くような温もりをじんわりと滲ませた涙をスッと頬に垂らし、唇を噛み締めながら、小さく頷く。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
凍月夜 冥む黒雲 雪陰ゆ
滲む溟海 群青椿
この和歌の意味は以下の通りです。
「凍えるような月の夜、空が真っ暗になるほどの黒い 雲が立ち込め、雪が降りそうな気配が漂う中で、奥深く広がる暗い海の色に滲むような群青色の椿が咲いている。」
自分の解釈としては、以下の通りです。
「純白の輝きを奪った邪悪は、群青に燃ゆる憎悪で晴らすことはできない。」