メロディ
青木君の記憶を追いかけ目を閉じていた僕の耳に、聞き慣れた懐かしいメロディーが流れ入ってきた。
その体に染み入るようなメロディーに身をゆだねながらゆっくりと目を開くと、僕の右側に立つ青木君の彼女がハーモニカを吹いている。
そのメロディーを追いながら、僕は目の前で起きていることを夢の中の出来事のように感じていた。
学生時代、僕の学年と後輩達とで行なったゼミ合宿の最終日の宴会で、同じハーモニカサークルの青木くんと彼女が、揃って曲を披露したことがあった。
その場面が目の前の景色に重なるように蘇ってきた。
顔を赤らめ自信無さげに前を歩く彼を、後から登場した彼女が人差し指で背中をつんつんとつつき急かす様は会場の笑いを誘った。
彼女に促されながら中央まできた青木くんは、恥じらいを隠すのが精一杯で、定まらない視線を足許より少し前に、向けるでもなく向けていた。
やがて曲は彼女に先導されるように始まった。
題名も知らない二人の織りなすメロディーは、酔って騒然としていた宴会の場をいつの間にか黙らせていた。
二つの異なる音の清流が縦横無尽に空中を流れ、それらは合流しては別れ、別れてはまた重なる。
それらは一瞬衝突したかと思うと、優しく触れ合い、時には擦れ合い、互いに響き、響かせ合った。
その流れの支流は聴いている僕たちの体の芯めがけて一直線に流れ入り、ひと時も留まらず、そのまま突き抜けて行った。
美しいハーモニーとそれに時々混じる哀しい響きに酔いしれ、僕らは次に吹かれるメロディーを待ち、心を躍らせていた。
自らの内に眠っていた喜びや悲しみや憧れを呼び覚まされたように、僕らは思い思いにその清流に身をさらしていた。
内気な青年は相変わらず足下の一点を見、その恋人は、真っ直ぐ前を向いていた。
見る方向は異なれど、彼らは同じものを見ているように思われた。
二人はその演奏を通じて、確かに重なり合い、語り合いながら互いの存在と体温を感じているのだと思った。
僕は彼らが恋人同士であることをその演奏を聴いて初めて知ったのだった。
いくつかの曲を吹き終わった後、興奮覚めやらない会場のアンコールに応えて二人が吹いた唄が、
今彼女が一人で墓石を前に吹いている唱歌『ふるさと』だった。
あの時、互いに音を響かせあった彼女のハーモニカは今は一つでメロディーを紡いでいる。
そのハーモニカは、置き去りにした彼を恨むでもなく、置き去りにされた自分を哀れむでもなく、ただもう流れることはないもう一つのメロディーを探しながら音を紡いでいるように思われた。
彼女のハーモニカから聞こえる聞き覚えのある凛とし、真っ直ぐな音を僕はあの時のように聴いていた。
志を果たして、いつの日にか帰らん
雨に風に吹かれても、いつの日にか帰らん
ハーモニカの柔らかいメロディーに誘われるように湧き出してきた歌詞が、断片的に僕の脳裏に留まる。
その柔らかいメロディーは墓石の前に佇む後輩たちと僕を包み、白い煙とともにそのままゆっくりと空へと向かっていく。
祖国へ帰ることなく、遠い異国で逝ってしまった恋人。
志半ばで逝ってしまった恋人。
もう二度と帰っては来られない恋人。
彼を思って吹かれるその唄を、僕らは身じろぎもせず、ただ全身で浴びていた。
それは聴いている僕らを慰め、逝ってしまった彼を鎮め、そして誰より吹いている彼女自身を癒しているように思えた。
この苦しみとともに、彼を忘れてしまえたら―
この苦しみを抱えてでも、彼を忘れたくない―
彼女の瞼からは、瞬きの度に、一滴、また一滴と涙が滴っていた。
甘く青い、若い二人の恋は、いつの間にか、彼女の中にだけ、手に負えない苦い塊となって居座るようになっていたのだろう。
自分の中の何かを、このメロディーが解してくれることを祈るかのように、彼女は一心にその唄を吹いているのではないか。
僕は彼女の紡ぐメロディーをできればずっと聴いていと思った。
つづく