彼との思い出
「先輩、社会人になると、やっぱり歩くのも速くなるんですね」
「営業は朝から晩まで分刻みのスケジュールだからね。だから、歩くのも速くなったのかな」
彼との思い出は当時の自分のことも一緒に連れてきた。
社会人になりたての希望に満ちた自分と青木君が小さな夜の街を歩いている。
あの頃描いていた夢らしきものは今はもう捨ててしまった。
捨てたというより、勝手に消え失せた。
自分に足りないものを追いかけていたあの頃、
彼もまた自分に足りないものを異国に求めて旅立ったのかもしれない。
歩く速さは違えど、あの頃僕らは同じ何かを見て歩いていたと思いたい。
彼は、社会人になりたての僕の小さな変化にも気づく、繊細な男の子だった。
癖のない黒髪を目が隠れるくらいにまで伸ばし、黒縁の眼鏡をかけた彼は、言葉少なで、内気な青年だった。
活発な後輩たちの中で、目立たない存在ではあったが、薄い胸板とそのか細さが僕には逆に印象強かった。
同期が卒業した後も、留学準備のため大学に残っていた彼を、僕は彼の一つ下の後輩たちとともによく街に連れ出した。
翌月海外に発つという彼が、混み合う帰りの改札口で照れくささを隠し切れずに僕に言った言葉を今も覚えている。
「先輩、今さらなんですが、携帯のアドレス教えてくれませんか」
発車のベルや酔っ払いの話し声、
後輩たちの笑いと同時に僕の耳は彼の小さな
声も拾っていた。
振り返った僕の目に照れ笑いを浮かべた青木君がいた。
後輩に便乗して、彼は僕のアドレスを聞いたのだった。
語られる彼の言葉は、飾り気がなく、それでいて、どこか人懐っこい空気を羽織っていた。
強すぎない芯があり、そして優しく響く、小さくてもよく通る声だった。
そして話した後に意味なくされる照れ笑いが彼の優しい雰囲気を一層柔らかいものにして。
青木君、僕もあの時は、少し照れくさかったし、控えめな君からの申し出は嬉しかったよ……ありがとう―
言えなかった彼への言葉が、今になって行き場を探している。
もし、今彼と話すことができたなら……
彼に何を彼に話すのだろうか。
彼もあの頃よりは饒舌に話してくれるだろうか。
アドレスを交換した後、一度だけその日の礼のメールを貰い、返信した、という気がするが、もうその記憶も既に曖昧だ。
どうせ曖昧なものなら、いっそ彼とのメールのやり取りがあったことにしてしまいたい。
時は様々なものを薄め、一部を残して色褪せさせていく。
青木君の記憶も、ほんの一部と彼の周囲の記憶だけが奇妙に鮮明で、その他はもうぼやけている。
もしかすると、彼の記憶も最後には何もなかったかのように全て消え去ってしまうのかも知れない。
つづく