土砂降りの雨の中
ある日土砂降りの公園の中おにーさんに出会った。
土砂降りの雨の中、その人は傘も差さず、公園のベンチで項垂れていた。
ドラマか何かでしか見たことのないような光景に、その辺にカメラでもあるんじゃないかと見まわして、暗闇の中でライトも何もなく撮影なんかするわけないかと思い直す。
それから、何を思ったものか自分でも説明はできないのだけれど、私はその人影に近づいた。
ザーザーうるさい雨の下、傘を差し掛けると、その人はゆっくりと顔を上げた。まぁちょっと私の周りでは見たことのないくらい顔の整った若い男だった。
多分、私という異物がなければ冗談か何かみたいに絵になっていたのだろうと思う。
私はこのところ嫌なことばかりあって端的に言えばやさぐれていて、男の綺麗な顔にもさして心が動かない程度には荒れていた。綺麗な顔がなんぼのもんじゃい。というやつだ。
顔を上げていた男は、私が何も言わないでじっとしているものだからそのまままた俯いた。私は何も言わずにその様子を見守っていた。綺麗な顔くっつけててもこんな何でもない公園の大して綺麗でもないベンチで打ちひしがれるようなことがあるんだなぁなんて思っていた。
視界の端で、信号が三度変わった。時折車のライトが通り過ぎていくくらいで、人の姿もなく、ザーザーうるさい雨音のせいで、世界から切り離されたような気分だった。
「あの」
信号がもう一度変わったとき、声が聞こえた。
音の方を見ると、俯いていた男が、また顔を上げてこちらを見ていた。
声はここからしたのだろう。顔面から想像するより、少し高めの声だった。
「俺に何か用事?ですか」
男の口が動く。
綺麗な顔が眉を顰めるようにして、私の方を向いている。
「別に」
私の言葉に、男は口を開けた。多分「は?」とか言ったのだろうと思うけれど、丁度通り過ぎた車の走行音でかき消され、少し間抜けな顔だけが私の感覚に残った。間抜けなくせにえらく整った顔だった。
だから、というわけでもないのだけれど。
「こんなとこで濡れっぱなしじゃ風邪ひくよ。うちにおいで」
私はそう言った。
「は?」
さっきと同じ顔で男がそう言った。心の底から何を言われているのか分からないという顔だった。
「いいから」
繰り返すが、私は端的に言ってやさぐれていて、どうにでもなれとかどうなってもいいとかそういう自暴自棄な気分だった。
目の前の男はこれ以上ないくらい打ちひしがれて見えて、もう死んでもいいと思ってるんじゃないかってくらい絶望して見えた。綺麗な顔面くっつけてるくせに。は、ウケる。
だから私は男の手を握って引っ張った。梃子でも動かんぞとばかりに抵抗していた男は、私が三度水の溜まった地面に転がって、諦めることなく四度目に手を引っ掴んだところで、諦めたように立ち上がった。
一仕事終えて満足した私は、男の手を引いて家路についた。綺麗な顔をした男はおそらく体も一級品なのだろう、背が高く、平均的な身長しか持ち合わせていない私が傘をさしかけようとするとなかなかに腕を伸ばさなければならかったので、途中でため息をついた男がひったくるように取っていった。楽になった。
「あの、何で構うんですか」
男の声が後頭部に引っ掛けられる。
「風邪は甘く見ちゃ駄目なんだ。私はよく知ってる」
「……だとしても、別に関係ないですよね」
「関係はないけど、縁ができちゃったから」
「は?」
「縁は大事にしてた方がいい。私はよく知ってるんだ」
「縁っていうか、そっちがわざわざ話しかけに来たんじゃ」
全身ずぶ濡れの男と、おしりを中心に背中まで泥で汚れた女はさぞかし異常だったろう。通報されなかったのは幸運だった。
「私は今日、色んな縁をぶち切ってきたんだ」
「さっきと言ってることが矛盾してませんか」
「いいんだ私が選んだ縁でもなかったんだから」
「俺は選ばれたんですか」
「だって人生勝ち組みたいな顔面くっつけてるのに、何もかもうまくいきませんでしたみたいな感じで打ちひしがれてるからウケるじゃん」
「ウケる、から、選ばれたんですか」
「風邪は馬鹿にできないんだよ」
「意味が分かりません」
「意味が分かって、納得したとして、それでどうすんのさ」
「は?」
「意味が分かって納得出来たら知らない女に連れられて知らない女の家まで行くの?」
「分からないより、分かった方がよくないですか」
「そういうことだよ」
「どういうことですか」
一人分の女物の傘は小さくて、彼の手を引っ張る私の前面はほとんどずぶ濡れだったし、彼に至っては多分傘の中に入ってすらいなかったんだろうと思うけど。私たちの繋いだ手だけが、きちんと傘の屋根の中に入っていたのだろうと思うけど。
そんなところを雨から守ったって、何か意味があるとも思えなかったけど。
「知らない女が近づいてきたときわざわざ見たのはあんただし、見知らぬ女がじっと動かないからって話しかけてきたのもあんただし、大体今見知らぬ女に引っ張られてるのもあんたなんだよ。逃げればよかったのにさ」
「俺のいるところに来たのはあなたでしょう」
「だとしても、あんたはどっか行くこともできたし振り切ることだってできた。私の方が力が弱いのは分かり切ってるんだしさ」
正直なことを言うと、この時の私の頭の中のことを言葉にするなら「何も考えていなかった」が正しい。男を言い負かしてやろうとか説得しようとか我に返らせて逃がしてやろうとか、そういうことは何ひとつ考えていなかった。ただ、頭の中に浮かんだ言葉をひたすらに男にぶつけていただけだった。
大事にしていたつもりだった色んなものを手放したばかりで、何も考えたくなかったのだ。
そんな風に身のない言葉を吐き出しながら、自宅のあるマンションにたどり着いた。
男の手から傘を取り返して閉じ、エントランスのカギを開け、エレベーターに乗り込んで、自分の階にたどり着いて部屋のカギを開けるまで、男は何の反論もせずに、もはや手を握られてすらいないのに黙ってついてきた。
カギを開けてドアを開ける。真っ暗な玄関に出迎えられて、私は男を振り返る。
「どうぞ」
男は色のない目で私を見返した。私の目を見て、視線を下までずらしてまた目に戻ってきて、開いた玄関の方を見て。
そうして黙ったまま、玄関のドアをくぐった。
これが、私が私より十も年上のその男を家で飼うことになった、そのきっかけだ。
続かない。