どこにもない場所
「この中に、僕らのユートピアがあるんだ」
君はそう言って笑った。なんの衒いもなく。月のない夜、不意に頭上に現れた太陽のように。
世界は死に向かっていた。
星の軌道が、私たちの知るものから少しずつズレていると報道されたのは、何年前だったか。自称他称を問わない終末論者たちが、一気に騒ぎ出したことを覚えている。人類の歴史を顧みればそうめずらしくもない規模の災害や自然現象は、総じてこれに紐付け叫ばれた。
しばらく経って、彼らは沈黙した。そうした個人論者だけでなく、科学機関や政府など、公の組織からの発表もいつしか途絶えた。取り立てて騒がずとも誰もが解っていたから。終わりが来ることを。
終末、などといえばイメージは阿鼻叫喚だろうか。だが実際は静かなものだ。人々は変わらぬ日常を過ごした。
決して、受け入れたのではない。「こうしている間にもどこかの偉い人が研究を進めていて、驚くような対処法を編み出してくれるに違いない。今までだってそうだったのだから。人類に不可能などない」、自らに言い聞かせ、人は個々の生活に没頭しようとした。
ただ、表面の穏やかさとは裏腹に、笑顔を見せる者はなかった。私たちは光を失った。
――君だけが、笑っていた。
死にゆく世界で、人に癒しを与えたのはAIだった。VRゴーグルを着ければ、一瞬にして望む空間へと誘われる。どんな体験だってできる。PCにプロンプトを打ち込めば、見たい景色が生成される。実在しないほどに美しいものでさえ。
「だけどちゃんとわかっているよ。これがフィクションだってこと」、改良の末、装着しているのを忘れるくらい軽量になったゴーグルを外しながら、人は息を吐く。「これは虚構、戯れに過ぎないさ。現実のことはもちろん、別途きちんと考えている」、そうして光のない生活に戻っていく。
そのカメラのファインダーを覗くと、無数の光が浮かび上がった。水彩絵の具を散らしたような、色とりどりの光沫。吹雪のように舞う花びら。幼い頃に絵本で見た、先端が黄金に煌めくお城とか、碧色に澄んだ湖とか。暖かな煉瓦の街並みとか、紫の宵闇を楽しむ白銀の猫とか。「大丈夫。僕らのユートピアはこの中にあるから」、浮かぶ全ての光をその瞳に映して、君は言う。
廃番のAIカメラ。そのむかし、発売からわずかのうちにVRゴーグルに居場所を取って代わられた古めかしい器械。今や子供の玩具くらいにしかならないそれを、君はずっと大切に抱えている。
「あの子は鈍感だから。世界が死に向かうことを理解していない、だからあんなふうに笑っていられるのよ」、周りの大人たちの言葉など、君にとっては風のそよぎ。君だけが、手の中の世界に本物を見る。夢を、仮想を、現実だと言う。
憐れみと、蔑みと、諦念が入り混じった視線の外側で。君と私と、木陰で落ち合ってはファインダーを覗いた。
世界が死ぬ。それは何十年先か、それとも明日なのか。誰にもわからない。けれど、一つ、また一つと、蔓が伸びるような静けさの中、命は確かに失われていった。
ねえ。大人たちの言うことなど掠めもせず、そうやって君はいつも笑うけどさ。ユートピアは確かに理想郷だ。だけど、「どこにも存在しない場所」って意味も持つこと、知ってる?
――鈍感なのは、誰?
無垢に細まる瞳。全てにおいて護られていることを識る赤子のように。……ああ、わかっている。
君は鈍感なんかじゃない。見せてくれるつもりなんでしょう、君の真実を、いつまでも。永遠に。
君と二人なら、それも悪くないな。月を失った私の、太陽。もし、いたずらな風のそよぎにくすぐられて幾許かの肌寒さを感じたときには。素知らぬ顔をして、いつもみたいに私は君に会いに行く。訊けば、こんなふうに。宇宙の唯一つ絶対の原理が如く、君は何度だって言うんだ。
私は今日もファインダーを覗く。君は笑う。
『信じ続けることが出来たなら、それは本物だと思わない?』
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